もし秀吉がバテレン追放令を出さなかったら?右近は大名のまま、それでも禁教はやってきた

もし秀吉がバテレン追放令を出さなかったら

大河ドラマ『豊臣兄弟!』は、家康の上洛を経て、いよいよ九州攻めへと進んでいきます。1587年、秀長の大軍が島津を降し、九州は豊臣の天下に組みこまれました。そしてその直後、博多で秀吉が出したのが「バテレン追放令」です。宣教師に「20日以内に国へ帰れ」と命じた、あの法令です。

では、もし秀吉がバテレン追放令を出さなかったら? 日本はキリシタンの国になっていたのでしょうか。

先に私の答えを書いておきます。追放令がなくても、キリシタンの行く末は大きくは変わらなかった。高山右近は大名のままでいられ、信者はもっと増えたでしょう。けれど最後に禁教を決めるのは、法令ではなく「信仰ぬきで商売をしてくれる相手」、つまりオランダ船の到来だった。私はそう考えています。

目次

通説・史実:九州平定のあと、博多で何が起きたか

まずは史実の流れを、少しくわしく見ておきます。バテレン追放令は「秀吉がキリスト教を禁止した法令」と覚えている方が多いと思いますが、中身を読むと、実はそう単純ではありません。

豊臣秀吉のイラスト
豊臣秀長のイラスト
大友宗麟のイラスト

豊臣秀吉・豊臣秀長・大友宗麟(イラスト:戦国武将図鑑)

はじめは布教を認めていた秀吉

意外に思われるかもしれませんが、秀吉ははじめ、キリスト教にとても好意的でした。主君だった信長がそうだったように、南蛮貿易の利益と、宣教師がもたらす海の向こうの知識を大事にしていたからです。

1586年(天正14年)、秀吉は大坂城でイエズス会の日本での責任者、ガスパール・コエリョと会い、布教を認める許可状まで出しています。このとき秀吉は、「国内を平らげたら日本は弟の秀長にゆずり、自分は明(中国)の征服に向かう。そのためにポルトガルの大きな軍船を2隻ほしい」と語ったと伝わります。ここにも秀長の名前が出てくるのは、大河の視聴者としては見逃せないところです。

この席でコエリョは、船の手配だけでなく、九州のキリシタン大名をまとめて秀吉に味方させる、とまで約束したといいます。宣教師が大名を動かせると、天下人の前で言ってしまったわけです。この一言が、翌年の伏線になります。

博多の海に浮かんだフスタ船

1587年、九州平定を終えた秀吉は、戦で荒れた博多の町を立て直すため、筑前の箱崎に陣を置きました。そこへコエリョが、大砲をそなえた小型の軍船「フスタ船」に乗ってやってきます。

秀吉は船に乗りこんで見物し、上機嫌だったといいます。ところがその後、この船を差し出すよう求めると、コエリョは断りました。さらに平戸に入っていたポルトガルの大型船を博多へ回すよう命じても、「博多の港は浅くて入れない」と断られます。小西行長や黒田官兵衛は、船を献上するようコエリョにすすめていたのですが、聞き入れられませんでした。

天下人の頼みを、外国の宗教者が二度も断ったのです。秀吉の目には、九州に自分の言うことを聞かない力があるように映ったのではないでしょうか。

博多湾でフスタ船に乗りこみ、大砲を見上げる秀吉のイラスト
フスタ船を見物する秀吉とコエリョ(イメージ)

二つの文書:「覚」と「定」

こうして出されたのが、バテレン追放令です。じつは追放令には、日付のちがう二つの文書があります。6月18日付の11か条の「覚(おぼえ)」と、6月19日付の5か条の「定(さだめ)」です。「覚」は1933年に伊勢神宮の文庫から見つかったもので、ふつう「バテレン追放令」と呼ばれるのは、平戸の松浦家に伝わった「定」のほうです。

この二つを並べると、たった一日で秀吉の態度が大きく変わっていることがわかります。

6月18日「覚」(11か条) 6月19日「定」(5か条)
キリスト教の扱い 信じるかどうかは本人しだい。仏教の宗派と同じ扱い 日本は神国。キリスト教は「邪法」
大名の入信 大きな大名は秀吉の許可があればよい。領民に無理に入信させるのは禁止 領民を信者にして寺社をこわさせるのは、天下の法にそむく
宣教師 追放の文言はない 20日以内に国へ帰れ
貿易 日本人を海外へ売ること、牛馬を売り買いして食べることを禁止 黒船(ポルトガル船)は商売なので別あつかい。これまでどおり来てよい

「覚」は、キリスト教そのものよりも、大名が家臣や領民をまとめて信者にし、一向一揆のような大きな力になることを警戒しています。それが翌日の「定」では、宣教師を国から追い出す話にまで進みました。そのあいだに何があったのかは、研究者の間でも議論が続いています。私は、次に書く高山右近の返事が大きかったと見ています。

高山右近の決断

追放令が出される前後、秀吉は家臣の高山右近に使者を送り、信仰を捨てるよう迫りました。右近は播磨の明石で6万石を治める大名で、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで秀吉のために戦ってきた、信頼の厚い武将です。千利休の高弟「利休七哲」にも数えられる茶人でもありました。

その右近が、領地を捨てても信仰は捨てないと答えたのです。秀吉は右近の領地を取り上げました。主君の命令より神を選ぶ大名がいる。秀吉にとって、これほどおそろしいことはなかったでしょう。それも、九州ではなく、自分のおひざもとの畿内にです。

明石城の櫓と石垣(写真:日本の歴史ガイド)

右近が明石で治めていたのは、いまの明石城の西にあった船上城です。写真の明石城は、右近が去ったあと、江戸時代のはじめに小笠原家が築いた城で、船上城の資材も使われたといわれます。明石城については日本の歴史ガイドの明石城の記事でくわしく紹介しています。

大名でなくなった右近は、同じキリシタンの小西行長にかくまわれて小豆島などに身をひそめ、のちに加賀の前田利家に客将として迎えられます。

じつは「骨抜き」だった追放令

では、追放令で宣教師はいなくなったのか。答えは「いいえ」です。宣教師たちは平戸に集まりましたが、ほとんどが日本を出ず、目立たないように活動を続けました。少なくともこのときは、秀吉もそれを強くは取りしまっていません。

理由ははっきりしています。「定」の第4条で、ポルトガル船の商売は別あつかいにしていたからです。ポルトガル船は、宣教師が仲立ちをして来ていました。宣教師を本気で追い出せば、生糸や鉄砲の材料を運んでくる船も来なくなる。秀吉は、信仰と貿易を切り分けたかったのに、切り分けられなかったのです。

そのかわり秀吉は、キリシタン大名の大村純忠がイエズス会に寄進していた長崎を、1588年に取り上げて自分の直轄地にしました。宣教師は追い出せなくても、いちばん大事な港と貿易の利益は自分の手に握る。秀吉らしい、実利の手の打ち方です。

それでも起きた西坂の磔:二十六聖人の殉教

ただし、追放令が「骨抜き」だったからといって、秀吉がキリシタンにやさしかったわけではありません。そのことをいちばんはっきり示すのが、1597年の西坂の磔です。

1596年、スペインの船サン=フェリペ号が土佐に流れ着きました。このとき船員が、スペインはまず宣教師を送りこみ、そのあとで国を奪うのだ、という意味のことを話したと伝わります。本当にそう言ったのかは、はっきりしていません。

けれど、これを聞いた秀吉は激しく怒り、京都と大坂でフランシスコ会の宣教師や信徒を捕らえさせました。捕らえられた人たちは耳たぶをそがれ、1597年1月に京都を出て、長崎までおよそ1か月かけて歩かされます。そして2月5日、長崎の西坂の丘で十字架にかけられ、槍で突かれて亡くなりました。外国人の宣教師6人と、日本人の信徒20人。いちばん年下は、まだ12歳のルドビコ茨木でした。

夜明けの長崎・西坂の丘に並ぶ十字架と、祈る人々のイラスト
長崎・西坂の丘(イメージ)

この26人は、1862年にカトリック教会の聖人に加えられ、「日本二十六聖人」と呼ばれています。いまも西坂には記念碑と記念館があります。

追放令を守らせなかった秀吉が、なぜここまできびしくなったのか。私は、追放令を出したときと同じ理由だと考えています。「天下人より上に立つものは認めない」。宣教師のうしろに国を奪う外国の力がある、という話は、秀吉にとって、自分の命令が届かない力のいちばんおそろしい形だったのでしょう。

年 出来事
1549年 ザビエルが鹿児島に来て、日本での布教が始まる
1580年 大村純忠が長崎と茂木をイエズス会に寄進する
1586年(天正14年) 秀吉が大坂城でコエリョと会い、布教を認める
1587年(天正15年) 九州平定。6月18日に「覚」、19日に「定」(バテレン追放令)。高山右近が領地を失う
1588年 秀吉が長崎を直轄地にする
1596〜97年 サン=フェリペ号事件。長崎の西坂で26人が磔にされる(二十六聖人の殉教)
1600年 オランダ船リーフデ号が豊後に流れ着く
1609年 平戸にオランダ商館が置かれる
1612〜14年 江戸幕府の禁教令。右近はマニラへ追放される
1637年 島原・天草一揆が起きる
1639年 ポルトガル船の来航が禁じられる

ですが、もし秀吉が追放令を出さなかったら

ここからが「もしも」です。博多でコエリョが素直にフスタ船を差し出し、右近も「表向きは」と言葉をにごして、秀吉が機嫌を直したとします。追放令は出されず、1586年の布教の許可がそのまま生きている世界です。

私の考え:決め手は法令ではなく「貿易の相手」

先に結論を書いたとおり、私は、追放令があってもなくても、日本のキリシタンがたどる道の終わりは変わらなかったと考えています。

なぜなら、史実の追放令そのものが、ほとんど効いていなかったからです。宣教師は残り、信者はむしろ増えていきました。秀吉の死後には、日本の信者は最も多いときで30万人をこえたといわれます。つまり、追放令を出さなかった世界と、出したのに守らせなかった史実の世界は、思ったほど離れていないのです。

本当に流れを変えたのは、1600年に豊後へ流れ着いたオランダ船リーフデ号でした。オランダは、布教をせずに商売だけをする国です。この船の乗組員だったウィリアム・アダムス(三浦按針)を家康が重く用いたことで、日本は「宣教師ぬきでヨーロッパと商売ができる」ことを知りました。信仰と貿易を切り分けるという、秀吉がやりたくてもできなかったことが、ここで初めて可能になったのです。

秀吉が本当に欲しかったもの

もうひとつ、秀吉の目的を考えておきます。秀吉がキリシタンに求めていたのは、信仰をやめることよりも、自分の命令に従うことでした。「覚」が問題にしていたのも、大名が領民をまとめて信者にすることや、天下人の許しなく大きな大名が入信することです。

そして秀吉が欲しかったのは、長崎の港と、南蛮貿易の利益と、明へ攻めこむための船でした。追放令を出さなかった世界でも、秀吉はこの三つは手放さなかったはずです。だから私は、「もしも」の世界でも、秀吉は長崎だけはイエズス会から取り上げたと考えています。

こうなったかもしれない

では、追放令がなかった世界では、具体的に何が変わったのか。私は次の四つの変化を考えました。

1. 高山右近は明石の大名のまま

いちばん大きく変わるのは、高山右近の人生です。右近は明石6万石の大名として、秀吉の家臣団に残ります。

右近は戦にも強く、築城の腕もありました。史実では前田家の客将として、越中の高岡城の縄張り(設計)にかかわったとされます。大名のままであれば、朝鮮出兵では一軍の将として海を渡ったでしょう。そして秀吉の死後は、親しかった前田家と行動をともにした可能性が高いと私は思います。

ただ、それで右近が最後まで安泰だったかというと、そうは思えません。江戸幕府が禁教にふみ切れば、大名である右近は、領地か信仰かを、もう一度選ばされることになります。右近の答えは、きっと同じだったでしょう。追放令がなかった世界では、右近の決断が27年遅れるだけなのです。

2. 九州はキリシタン大名の地図になる

九州平定のあと、秀吉は九州に小西行長や黒田官兵衛といったキリシタンの家臣を配しました。そこに大村・有馬といった、もともとのキリシタン大名がいます。豊後の大友家も、宗麟の子・義統が洗礼を受けていました。

追放令がなければ、この大名たちは表立って信仰を守り、領内の布教も続けたでしょう。九州の西側は、教会と港が並ぶ「キリシタン大名の地図」になったはずです。大友宗麟は追放令の少し前に亡くなっていますが、その願いだった豊後のキリシタンの国は、形を変えて続いたかもしれません。

もしもの九州 キリシタン大名の地図
もしもの九州:キリシタン大名の地図(イメージ)

3. 信者はもっと増え、京・大坂にも教会が並ぶ

史実でも、追放令のあと秀吉が見のがしていたあいだに、信者は増え続けました。追放令がなければ、その勢いはもっと強かったはずです。京・大坂・堺の教会もこわされず、大名や公家の中にも洗礼を受ける人が増えたでしょう。

ただし、これは秀吉にとって危うい状態でもあります。「覚」が心配していたとおり、信仰でつながった大名たちが一つの勢力になれば、一向一揆のような「天下のさわり」になりかねません。秀吉は、大名の入信を許可制にするなど、法令ではなく大名の統制で手綱をにぎろうとしたと私は考えます。

そして、この世界でもサン=フェリペ号は土佐に流れ着きます。追放令がなくても、西坂の磔は起きたはずです。むしろ信者が多く、京・大坂の教会もにぎわっていたぶん、秀吉の怒りはもっと大きく、捕らえられる人の数も増えていたかもしれません。

4. それでも、オランダ船がやってくる

そして1600年、リーフデ号が豊後に流れ着きます。ここから先は、史実とほぼ同じ流れになると私は見ています。

家康はオランダと結ぶことで、宣教師ぬきの貿易の道を手に入れます。そうなれば、ポルトガル船と宣教師をかばう理由はなくなります。追放令がなかった世界では、キリシタンの数が多いぶん、幕府の禁教はむしろ早く、きびしく行われたかもしれません。信者が多いことは、天下人にとって「おそれる理由」が大きいことでもあるからです。

史実 もしもの世界
高山右近 1587年に領地を失い、前田家の客将に 明石6万石の大名のまま。禁教で再び選択を迫られる
宣教師 平戸に集まり、目立たず活動 京・大坂でも堂々と布教
長崎 1588年に秀吉の直轄地 やはり秀吉が取り上げる
信者の数 最多で30万人をこえる さらに多くなる
西坂の磔(1597年) 26人が殉教 やはり起きる。規模はもっと大きかったかもしれない
禁教 1612〜14年、江戸幕府が全国で禁教 オランダとの貿易が始まれば、同じく禁教へ

それでも結末が変わらないと私が考える理由

  1. 史実の追放令は守らせておらず、出さなかった世界との差がもともと小さい
  2. 秀吉も家康も、信仰より「天下人の命令が通ること」と貿易の利益を優先した
  3. 信仰ぬきで商売をするオランダが現れたとき、宣教師を守る理由が消える。これは秀吉の法令とは関係なく起きた

まとめ

  • バテレン追放令は、九州平定の直後、フスタ船の献上拒否や高山右近の棄教拒否が重なって出された
  • 前日の「覚」は信仰を本人の自由としていたが、翌日の「定」で宣教師の追放にまで進んだ
  • ポルトガル船の貿易を続けたため、追放令は守らせられず、宣教師は日本に残った
  • 追放令がなくても、右近は大名のまま、信者は増えたが、オランダ船の到来で禁教という結末は変わらなかった

バテレン追放令は、秀吉がキリスト教を「禁止した」法令というより、「天下人より上に立つものは認めない」と宣言した法令だったのだと思います。右近が選んだ神も、コエリョが動かせると言った大名たちも、秀吉にとっては同じ「天下のさわり」でした。そう考えると、秀吉が本当に戦っていたのは、宗教ではなく、自分の命令が届かない場所だったのかもしれません。

あなたは、追放令がなかったら、日本のキリシタンはどこまで広がったと思いますか?

よくある質問

バテレン追放令で、キリスト教の信仰は禁止されたの?

いいえ。追放令が命じたのは宣教師の国外退去で、一般の人が信仰すること自体は禁じていません。前日の「覚」では、信じるかどうかは本人しだいとされています。ただし、大きな大名が入信するには秀吉の許可が必要とされました。

追放令のあと、宣教師は本当に日本を出ていったの?

ほとんどの宣教師は日本に残りました。平戸に集まったあと、目立たないように活動を続けています。秀吉もポルトガルとの貿易を続けたかったため、強くは取りしまりませんでした。

秀吉はキリシタンを処刑したの?

はい。1597年、サン=フェリペ号事件をきっかけに、宣教師と信徒あわせて26人を長崎の西坂で磔にしています。のちに「日本二十六聖人」と呼ばれる人たちです。追放令を出した1587年の時点では、秀吉はキリシタンを処刑していません。

高山右近はその後どうなったの?

領地を失ったあと、小西行長にかくまわれ、のちに前田利家に客将として迎えられました。1614年、江戸幕府の禁教令でマニラへ追放され、翌年その地で亡くなっています。2017年にはカトリック教会から「福者」に列せられました。

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