秀吉には、跡継ぎに恵まれなかったという弱点がありました。待望の長男・鶴松は、わずか3歳で亡くなります。もし鶴松が生きていたら。そして、もし私が秀吉だったら。この記事では、自分が死んだあとに家康につけいらせないために、私ならこう手を打つという「もしも」を考えます。
通説:秀吉は晩年、跡継ぎで迷走した
よく言われるのは、晩年の秀吉は跡継ぎのことで判断を誤ったという見方です。鶴松を失って甥の秀次を関白にしたのに、秀頼が生まれると秀次を切腹に追いこんだ。この迷走が豊臣家を弱らせ、家康に天下を渡すことになったという筋書きです。
史実:鶴松の死から秀次事件まで
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1589年(天正17年) | 茶々が淀城で鶴松を産む |
| 1591年1月(天正19年) | 弟・豊臣秀長が亡くなる |
| 1591年8月 | 鶴松が3歳で亡くなる |
| 1591年12月 | 甥の秀次が秀吉の養子となり、関白に就く |
| 1593年8月(文禄2年) | 秀頼(お拾)が大坂城で生まれる |
| 1594年(文禄3年) | ねねの甥・秀秋が小早川隆景の養子に出される |
| 1595年4月(文禄4年) | 秀長の跡を継いだ秀保が亡くなる(17歳とされる) |
| 1595年7月 | 秀次が高野山で切腹。一族も処刑される |
| 1598年8月(慶長3年) | 秀吉が亡くなる。秀頼は6歳 |

1591年は、秀長と鶴松を相次いで失った年でした。そこから秀吉は、秀次、秀保、秀秋と、身内の若者を次々に跡継ぎ候補として動かしていきます。秀頼が生まれると、秀秋は小早川家へ出され、秀次は切腹し、豊臣の一族は一気に細っていきました。
詳しい史実は、姉妹サイトの豊臣鶴松、豊臣秀保の人物紹介や、身内の少なかった豊臣家と養子・養女たちで解説しています。
もし鶴松が生きていて、私が秀吉だったら
では、鶴松が無事に育ったとします。弟の秀長は史実より少しだけ長く生き、駿府の基礎を築いてから亡くなるとします。秀頼も1593年に生まれます。息子が二人いる秀吉。私が秀吉なら、自分の死後に家康につけいらせないために、生きているうちに手を打ちます。
こうなったかもしれない
1. 死後に備えて「布告」を出す
まず、自分が死んだあとの決まりごとを、天下に向けて先に出しておきます。大名どうしが勝手に縁組をしない、勝手に誓紙を交わさない、といった決まりです。実は史実の秀吉も、秀次事件のあとの1595年に「御掟(おんおきて)」を出し、大名の勝手な縁組を禁じています。私なら、これを鶴松が元気なうちに、もっと早く、もっと強く出します。
2. 嫡男は鶴松、次男が秀頼。相続は鶴松に
跡継ぎの順番をはっきりさせます。嫡男は鶴松、次男が秀頼。相続権は鶴松にあると、家臣と大名にはっきり示します。順番があいまいだと、それぞれの母や家臣が派閥を作ります。最初から決めておけば、迷いは生まれません。
3. 茶々の抵抗は黙殺し、距離を置く
秀頼の母でもある茶々は、秀頼をもり立てようとするでしょう。それでも私は、その声には応じません。茶々とは距離を置き、跡継ぎの話には口をはさませないようにします。そして秀長が亡くなったあと、秀頼と茶々を秀長の築いた駿府へ移します。大坂から離すことで、鶴松のまわりに秀頼を担ぐ派閥ができるのを防ぎます。

4. ねねを全面的に鶴松の後見に

鶴松の後見には、正室のねねを全面的に立てます。加藤清正や福島正則ら、ねねに育てられた尾張の子飼いたちは、ねねが後ろにいる鶴松を裏切りません。家臣団が割れる心配が、ここでひとつ消えます。
5. 秀次も鶴松の後見人にする
甥の秀次は、跡継ぎ候補ではなく、鶴松の後見人にします。秀次は政務の経験を積んだ大人の一族です。邪魔者として消すのではなく、鶴松を支える側に置けば、秀次事件そのものが起きません。
6. 秀長の娘を養女にして、上杉に嫁がせる
弟・秀長の娘を私の養女にし、上杉家に嫁がせます。上杉は家康の北にいる大きな大名です。豊臣と上杉が固く結べば、家康は関東から北にも動けなくなります。史実では、秀長の娘は毛利秀元に嫁いだとされています。
7. 一門の大名で、家康の西と大坂への道を固める
身内を減らすのではなく、身内を大名として要所に置きます。とくに東海道は、家康が関東から大坂へ攻め上がる道そのものです。ここを一門で並べてふさぎます。

| 場所 | 置く人 | 石高 | 役目 |
|---|---|---|---|
| 駿府 | 豊臣秀長→豊臣秀頼 | 100万石 | 家康の目の前に立つ最前線。まず秀長が基礎を築き、秀長の死後は秀頼と茶々を移す |
| 掛川 | 加藤清正 | 20万石(仮) | ねねに育てられた子飼い。駿府の秀頼をすぐ西から支える |
| 浜松 | 豊臣秀保 | 55万石 | 駿府のすぐ後ろで東海道を固める。秀長の養子として、幼い秀頼を後見する |
| 岡崎 | 福島正則 | 24万石(仮) | 家康の生まれ故郷に、いくさに強い子飼いを置く。東海道の中ほどを押さえる |
| 名古屋 | 豊臣秀次 | 85万石 | 尾張は豊臣の生まれ故郷。後見人として東から大坂を守る要 |
| 大和 | 筒井家 | 20万石(仮) | 私の養女を嫁がせて縁を結び、畿内の足もとを固める |
| 姫路 | 豊臣秀秋 | 60万石 | 小早川家には出さず、西の守りの要に |
| 岡山 | 宇喜多秀家 | 57万石 | 養子として一門に迎え、西国をまとめさせる |
家康が西へ動こうとすれば、まず駿府の秀頼(その前は秀長)、掛川の加藤清正、浜松の秀保、岡崎の福島正則、そして名古屋の秀次と、一門と子飼いによる五重の壁にぶつかります。西は姫路の秀秋と岡山の秀家が固め、大和は筒井家との縁で押さえます。大坂の鶴松は、東西どちらからも一門に守られた形になります。

8. 前田・毛利・上杉・伊達・最上もこちら側に。奥州は小さな大名どうしで牽制させる
一門だけではありません。大きな大名も、家康ではなく豊臣の側につなぎとめます。とくに家康の北と東をふさぐ大名は、意地悪をせずに味方にして、徳川をけん制させます。

| 大名 | 場所 | どう扱うか |
|---|---|---|
| 前田利家 | 加賀 | 五大老の筆頭として、鶴松の後ろ盾に。北陸から大坂を支える |
| 毛利輝元 | 安芸 | 西国の大大名として豊臣につなぎとめる。姫路・岡山の一門と並んで西を固める |
| 上杉景勝 | 越後(会津へは移さない) | 秀長の娘との縁組で結び、越後から関東の北を押さえる |
| 伊達政宗 | 会津黒川・米沢 | 領地を削らず、会津を任せる。恩を売って、関東の家康を北東からけん制させる |
| 最上義光 | 出羽山形 | 娘の駒姫を秀次の妻に。秀次を通して豊臣一門とつながる |
| 南部信直・津軽為信・九戸政実 | 奥州北部 | 三家とも独立した大名として認め、おたがいをけん制させる |
| 佐竹義宣 | 常陸 | つぶさず常陸に置き、関東の東から家康を見張らせる(史実では関ヶ原のあと秋田へ移される) |
| 宇都宮国綱 | 下野 | つぶさず下野に置く。関東の北のおさえ(史実では1597年に改易) |
| 里見義康 | 安房 | つぶさず安房に置き、江戸湾の対岸から家康を見張らせる |
| 真田昌幸 | 信濃 | 親豊臣の真田に思いきって信濃を任せる。上田合戦で徳川を退けた家を、関東の西の壁に |
| 細川忠興 | 丹後 | そのまま丹後に置き、京都の北と日本海側を守らせる |
| 立花宗茂 | 筑後柳川 | 史実の約13万石から30万石(仮)に加増。「西国無双」を九州の押さえにし、島津をにらませる |
史実では、伊達は1590年に会津を取り上げられ、上杉は1598年に越後から会津へ移されました。最上の駒姫は、秀次事件に巻きこまれて処刑されています。九戸政実は1591年に反乱を起こし、討たれました。どれも、豊臣と奥州の大名の関係をこじらせた出来事です。
私が秀吉なら、その逆をやります。伊達には意地悪をせず会津を任せ、上杉は越後に置いたまま、最上とは秀次を通して縁を結ぶ。奥州の北は、南部・津軽・九戸をどれも独立させて、突出した力を持つ大名を作らない。九州は、立花宗茂に大きな石高を与えて押さえにする。関東のまわりの佐竹・宇都宮・里見もつぶさず、信濃は真田に与える。家康は関東の外側からも内側からも、四方を見張られることになります。
9. 秀次・秀頼の子どもたちで、各地の大名と縁を結ぶ
いちばん大事なのはここです。秀次を殺さず、血のつながった一族を各地にどう増やしていくか。
史実の秀次には、男の子も女の子もいました。しかし秀次事件で、幼い子どもたちを含む妻妾と子ども三十人あまりが京都の三条河原で処刑され、秀次の血すじはそこで絶えます。秀頼にも息子の国松と娘(のちの天秀尼)がいましたが、大坂の陣のあと国松は処刑され、娘は尼になりました。
私が秀吉なら、この子どもたちをこそ、豊臣家のいちばんの財産にします。秀次の息子たちは各地の大名家の娘と、秀次や秀頼の娘たちは前田、毛利、上杉、伊達、細川といった大名家に嫁がせます。一代ではなく、孫の代まで縁組を重ねていくのです。
実はこれ、家康がやったことそのものです。家康は息子たちを尾張・紀伊・水戸に置いて御三家とし、娘や養女を各地の大名に嫁がせて、260年続く幕府の土台を作りました。豊臣家も、秀次を殺さずにいれば、同じことができたはずなのです。
10. 豊臣御三家と譜代を決める
徳川に御三家と譜代大名がいたように、豊臣にも「御三家」と「譜代」をはっきり決めます。本家に跡継ぎがいなくなったときは御三家から迎え、譜代は代々豊臣家を支える家として扱います。
豊臣御三家
| 家 | 当主 | 役目 |
|---|---|---|
| 秀次家 | 豊臣秀次 | 名古屋。尾張を守る筆頭の御三家 |
| 秀長家 | 豊臣秀保 | 秀長の跡を継ぐ。浜松で東海道を守る |
| 秀秋家 | 豊臣秀秋 | ねねの甥。姫路で西を守る |
譜代筆頭
| 家 | どんな家か |
|---|---|
| 蜂須賀家 | 墨俣一夜城のころからの古参。阿波を任せる |
| 前野家 | 蜂須賀と並ぶ古参。史実では秀次事件に連座し、1595年に亡くなっている。秀次を殺さなければ、前野家も残る |
| 稲田家 | 蜂須賀・前野と並ぶ川並衆以来の古参。蜂須賀とともに阿波を固める |
| 浅野家 | ねねの妹の家。五奉行の筆頭。甲府を任せ、家康の西側を山から押さえる(史実でも浅野長政は1593年に甲斐を与えられている) |
| 生駒家 | 尾張以来の重臣。三中老の一人 |
| 堀尾家・中村家 | 生駒と並ぶ三中老。尾張・近江以来の古参 |
| 山内家 | 長浜時代からの家臣 |
| 木下家 | ねねの兄・木下家定の家。秀秋の実家 |
| 一柳家 | 美濃以来の家臣。一柳直末は秀吉の黄母衣衆として仕え、小田原攻めの山中城で討ち死にした。弟の直盛が家を継ぐ |
御三家で血をつなぎ、譜代で家を支える。そして秀次や秀頼の子どもたちの縁組で、外様の大名まで豊臣の親類にしていく。これは、家康が江戸幕府で作った仕組みとほとんど同じ形です。
前田・上杉・宇喜多は、譜代ではなく五大老に入れます。古い友や養子の家、そして北の大大名には、外から豊臣の本家を支えてもらう形です。
結末:その先の天下
1598年に私が亡くなるとき、鶴松は10歳です。まだ子どもですが、後ろにはねねと秀次がいて、東海道には秀頼・秀保・秀次の一門が並び、西は秀秋と秀家が固め、北と東は上杉・伊達・最上が家康をおさえています。子飼いの大名たちも、ねねがいるかぎり家康にはつきません。
家康は動けません。待つしかない。そして待っているあいだに、鶴松は大人になっていきます。豊臣家は秀頼ではなく鶴松を当主として、秀次や秀頼の子どもたちが各地の大名家と縁を結び、豊臣の血は代を重ねるごとに広がっていきます。そのとき豊臣家は、家康が築いた幕府と同じくらい盤石な天下を保ったはずです。
東海道に一門と子飼い、甲府に浅野、信濃に真田、北に上杉・伊達・最上、関東の内側には佐竹・宇都宮・里見。徳川は関東に封じこめられたまま、一大名として生きていくことになります。そして日本は、豊臣の世のまま幕末を迎える。そんな歴史も、あり得たと私は思います。
まとめ
- 跡継ぎの順番を早くはっきり決め、茶々の派閥を作らせない
- ねねと秀次を後見に立て、家臣団と一族を割らない
- 駿府に秀頼と茶々を移し、駿府・浜松・名古屋を一門で固め、上杉との縁組で北からも家康をおさえこむ
- 伊達・最上・佐竹・里見・真田らをつぶさず味方にして、家康を四方から見張らせる
- 秀次を殺さず、秀次・秀頼の子どもたちの縁組で、血のつながった一族を各地に増やす
秀吉の失敗は、跡継ぎが少なかったことよりも、残った身内を自分の手で減らしてしまったことにありました。私が秀吉なら、秀次を殺さず、血のつながった一族を各地に増やしていきます。そうすれば豊臣家は、家康が築いた江戸幕府と同じくらい盤石になったと私は考えます。
筆者の感想
書いてみてあらためて思うのは、豊臣家の弱さは跡継ぎの少なさではなく、残った身内を自分で減らしてしまったことだということです。秀次を殺さず、秀次や秀頼の子どもたちで縁組を重ねて、血のつながった一族を各地に増やしていく。私は、ここがいちばんの分かれ道だったと思います。
配置を考えるのは、正直とても楽しかったです。東海道に一門と子飼いを並べ、伊達には意地悪をせず、上杉は越後に置いたまま、信濃は思いきって真田に任せる。地図に旗を立てていくと、家康がどこにも動けなくなっていくのが見えてきて、「どうだ、これで徳川を封じこめるぞ」と思わず声が出そうになりました。
姫路城や名古屋城を歩くと、ここに秀秋や秀次が大大名として座っていたら、とつい想像してしまいます。豊臣の世のまま幕末を迎える日本。そんな「もしも」を、これからも考えていきたいと思います。
あなたが秀吉だったら、鶴松を守るためにどんな手を打ちますか?
よくある質問
鶴松はいつ亡くなったの?
1591年8月、3歳で亡くなりました。秀長、利休につづく不幸で、この年は豊臣家にとって大きな分かれ目になりました。
五大老とはどんな人たち?
徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・上杉景勝の五人です。小早川隆景も亡くなるまで数えられていました。秀吉の死後、幼い秀頼にかわって政権を支える役目でした。
三中老とは?
生駒親正・堀尾吉晴・中村一氏の三人とされ、五大老と五奉行の間を取り持つ役と言われます。ただし、正式な役職だったかどうかは疑問視されています。






