北政所はなぜ秀次の助命を願わなかったのか?もし北政所が秀次事件で動いていたら、妻子の処刑は防げたか

北政所(イメージ)

1595年(文禄4年)夏、関白・豊臣秀次は高野山へ送られ、切腹しました。そのあと京の三条河原で、秀次の妻や側室、幼い子どもたち30人あまりが処刑されています。豊臣家の歴史のなかでも、いちばんむごい出来事の一つです。

ここで不思議に思うのが、秀吉の正室・北政所(おね)の動きです。北政所は、のちに加藤清正や福島正則らと石田三成の争いをとりなしたことでも知られる、豊臣家の「母」のような人でした。その北政所が、秀次の命乞いをしたという話は、はっきりした記録に残っていません。なぜ北政所は動かなかったのか。そして、もし北政所が秀次の助命を願い出ていたらどうなったのか。今回はその「もしも」を考えます。

高野山へ向かう関白・豊臣秀次
1595年7月、秀次は高野山へ送られた(イメージ)
目次

先に結論:北政所には動きにくい理由が四つあった。それでも動いていれば、妻子の処刑は防げた

先に私の答えを書いておきます。北政所が秀次のために動きにくかった理由は、四つあったと思います。

理由 中身
育ちの距離 秀次は幼いころから宮部家・三好家に養子に出され、北政所の手もとで育った子ではない
血のつながり 秀次は秀吉の姉・ともの子。北政所の実家・木下家の子ではない
時間のなさ 高野山へ送られてから切腹まで、わずか1週間
跡継ぎの問題 秀頼を産んだ茶々がからむ話で、正室でも口を出しにくい

それでも、もし北政所が早い段階で秀吉に願い出ていれば、秀次の切腹までは止められなくても、妻子の処刑は防げた可能性が高いと私は考えます。秀吉ははじめから秀次を殺すつもりではなかった、という見方もあるからです。

史実:秀次事件の流れ(1593〜1595年)

年月日 出来事
1593年8月(文禄2年) 秀吉と茶々のあいだに秀頼が生まれる
1595年4月(文禄4年) 秀次の弟・秀保が十津川で急死
1595年7月3日 奉行たちが聚楽第で秀次を問いただす
1595年7月8日 秀次は伏見へ向かうが、秀吉に会えず、そのまま高野山へ
1595年7月15日 秀次が高野山の青巌寺で切腹。28歳
1595年8月2日 三条河原で、秀次の妻・側室・子ども30人あまりが処刑される

秀次が高野山へ送られたのは7月8日、切腹は7月15日です。研究者のなかには、秀吉ははじめ秀次の政治の力だけを奪い、高野山にとどめておくつもりだったが、12日から13日にかけて事態が急に動いた、と見る人もいます。もしそうなら、北政所が口をはさめる時間は、ほんの数日しかありませんでした。

豊臣秀次
豊臣秀次。幼いころから他家の養子として育った(イメージ)

理由1:秀次は北政所が育てた子ではなかった

北政所と秀吉のあいだには、子どもがいませんでした。そのかわり北政所は、加藤清正や福島正則のような少年たちを手もとで育て、自分の甥の秀秋も養子として育てています。彼らにとって、北政所は母のような存在でした。

ところが秀次は、幼いころから宮部継潤、ついで三好康長の養子に出されています。秀吉がまだ信長の家臣だったころ、身内を他家に出して味方を増やすための縁組でした。北政所のそばで育った時間は、清正や正則とくらべてずっと短かったはずです。

人物 北政所との関係 育ち
小早川秀秋 実家の甥(兄・木下家定の子) 北政所に育てられ、秀吉の養子に
加藤清正・福島正則 子飼いの家臣 少年のころから北政所のもとで育つ
豊臣秀次 夫の姉・ともの子 幼いころから宮部家・三好家の養子として育つ

理由2:秀秋は木下家の子、秀次は秀吉の姉の子

北政所の実家は木下家です。秀秋たち木下家の子どもは、北政所にとって血を分けた身内でした。いっぽう秀次は、秀吉の姉・ともの子で、北政所とは血のつながりがありません。

そして秀次事件では、北政所の身内にも火の粉がかかっています。秀秋は、秀次事件のあと丹波亀山の領地を取り上げられたとされます。秀次と同じ「秀吉の養子」だったことが、あやしまれたのかもしれません。北政所にとっては、秀次を助ける前に、自分の甥を守らなければならない状況でした。

小早川秀秋
北政所の甥・小早川秀秋。秀次事件のあと丹波亀山を失ったとされる(イメージ)

理由3:跡継ぎの問題には口を出しにくい

秀次事件の根っこには、秀頼が生まれたことで、秀次が「じゃまな跡継ぎ」になってしまったという事情があります。秀頼の母は茶々です。北政所が秀次をかばえば、秀頼と茶々の側に立つ人びとからは、正室が側室の子をじゃましていると見られかねません。

北政所は、豊臣家の奥をまとめる正室として、家の中の争いを大きくしないことを何より大事にしていたように見えます。跡継ぎをめぐる争いに正面から入ることは、その役目とぶつかってしまいます。

北政所が「動いた」とき:1599年の三成襲撃事件

北政所が政治の場面で動かなかったわけではありません。秀吉の死後、1599年に加藤清正や福島正則ら七人の武将が石田三成を襲った事件では、北政所が調停にあたったことが公家の日記『言経卿記』からわかるとされています。

場面 北政所の動き 相手
1595年 秀次事件 はっきりした記録なし 夫の姉の子・秀次
1599年 三成襲撃事件 調停にあたる 自分が育てた清正・正則ら

こうしてならべると、北政所が動くかどうかには、相手との近さがかかわっていたようにも見えます。もちろん、1595年はまだ秀吉が生きていて、天下人の決定に正室が逆らう形になる、という違いも大きかったはずです。

駒姫の悲劇:助命の声は、間に合わなかった

秀次事件で処刑された人のなかに、出羽の最上義光の娘・駒姫がいます。まだ15歳ほどで、秀次の側室として京に着いたばかりだったと伝わります。父の義光は娘の助命を必死に願い、茶々も口ぞえしたとも言われます。秀吉は処刑を止める使いを出したものの、間に合わなかったという話が残っています。

京へ向かう駒姫
出羽から京へ向かう駒姫(イメージ)

この話がどこまで本当かはわかりません。けれど、もし誰かの願いが届いていれば、助かる命があったかもしれない。そう思わせる出来事です。

もしも:北政所が秀次の助命を願い出ていたら

第1段階:7月8日、伏見で秀吉に会う

史実の秀次は、伏見で秀吉に会えないまま高野山へ向かいました。もし北政所がこの日、伏見にいて、秀吉と秀次のあいだに入っていたらどうでしょうか。少なくとも、秀次が自分の口で申し開きをする場を作れたかもしれません。

第2段階:高野山で「出家」させる

北政所が願うとすれば、命だけは助けて、高野山で出家させることでしょう。秀次は関白をやめ、僧として生きる。秀頼の跡継ぎの立場をおびやかさない形で、命を残す道です。

第3段階:妻子は実家へ帰す

そして何より大きいのは、妻子です。秀次が出家すれば、妻や側室、子どもたちを処刑する理由はなくなります。駒姫は出羽へ、ほかの女性たちもそれぞれの実家へ帰されたはずです。

ことがら 史実 もしも(予想)
秀次 7月15日に高野山で切腹 関白をやめ、高野山で出家して生きのびる
妻子 三条河原で30人あまりが処刑 実家へ帰される
駒姫 処刑される 出羽の最上家へ帰る
前野長康ら家臣 責めを負って命を落とす 領地は失うが、命は助かる
小早川秀秋 丹波亀山を失ったとされる 北政所のとりなしで守られる

その先:最上義光と豊臣家

史実では、娘を殺された最上義光は豊臣家に深いうらみを持ち、関ヶ原では家康の東軍につきました。もし駒姫が助かっていれば、義光の豊臣家への気持ちも、少しはちがっていたかもしれません。北政所のひと声は、奥羽の大名の心まで動かした可能性があります。

まとめ:北政所はなぜ秀次を助けなかったのか

問い 答え(予想)
なぜ動かなかったのか 秀次は手もとで育てた子ではなく、血のつながりもない。事件は1週間で動き、跡継ぎ問題は口を出しにくかった
自分の身内は 甥の秀秋も、丹波亀山を失ったとされる。まず身内を守る必要があった
もし動いていたら 秀次は出家で命が助かり、妻子の処刑は防げた可能性が高い
その先 駒姫が助かれば、最上義光の豊臣家への思いも変わったかもしれない
秀次の塚を見つける角倉了以
のちに角倉了以が秀次の塚を見つけ、京の瑞泉寺で弔ったと伝わる(イメージ)

筆者の感想

秀次の記事を書いていて、「そもそも北政所は助命を願わなかったのか」がずっと気になっていました。調べてみると、はっきりした記録は見当たりません。おそらく、秀次のことをそこまで近く感じていなかったのではないか、と私は思います。その点、秀秋たち木下家の子は北政所の身内ですから、何かあれば必死にかばったはずです。

三成襲撃事件では調停に動いた北政所が、秀次事件では動いた形跡がない。この差に、北政所という人の立ち位置がよく出ているように感じます。あなたは、北政所が秀次を助けなかった理由をどう考えますか?

よくある質問

北政所は秀次事件で助命嘆願をしたの?

北政所が秀次の助命を願い出たという、はっきりした記録は見当たりません。事件は高野山行きから切腹まで1週間ほどで動いており、口をはさむ時間も短かったと考えられます。

秀次と北政所はどんな関係?

秀次は秀吉の姉・ともの子で、北政所から見ると夫の甥にあたります。血のつながりはなく、幼いころから宮部家・三好家の養子として育ちました。

小早川秀秋と北政所の関係は?

秀秋は北政所の兄・木下家定の子で、北政所の甥です。北政所に育てられ、秀吉の養子となったのち、小早川隆景の養子になりました。

秀次事件で処刑されたのは何人?

1595年8月2日、京の三条河原で、秀次の妻・側室・子どもたち30人あまりが処刑されたと伝わります。そのなかには最上義光の娘・駒姫もいました。

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