1868年(慶応4年)8月19日の夜、榎本武揚がひきいる旧幕府の艦隊8隻が、品川沖を抜け出しました。目指すは北、そして蝦夷地です。ところが出航してすぐ、房総沖で暴風雨に襲われます。美賀保丸は銚子の沖で座礁し、咸臨丸は清水港まで流されて新政府軍に捕らえられました。日本海側でも、順動丸と第二長崎丸を失っています。
では、もし江戸開城のときに軍艦を新政府にわたさず、北への航海で一隻も失わず、千秋丸や高雄まで手に入れて箱館に集まっていたら? 箱館政権(いわゆる蝦夷共和国)は、どれくらいの海軍をもてたのでしょうか。
先に私の答えを書きます。箱館には20隻近い艦船がそろい、数のうえでは新政府の海軍を上回ったと思います。冬のあいだ津軽海峡を押さえ、新政府軍の上陸をかなり遅らせることもできたでしょう。それでも、ずっと蝦夷共和国でいることはできませんでした。理由は、たった一隻の「甲鉄」と、石炭とお金です。だからこそ、私が箱館政権にいたら、艦隊がそろっているうちに港と産業を育てて、交渉の席につくための力をたくわえます。

通説・史実:艦を一隻ずつ失いながら北へ向かった榎本艦隊
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1868年4月 | 江戸開城。旧幕府海軍は、富士山・観光・朝陽・翔鶴の4隻を新政府にわたす。榎本は開陽・回天・蟠龍・千代田形などを手もとに残す |
| 1868年7月 | 越後の寺泊沖で、会津への弾薬を運んでいた順動丸が新政府の軍艦に攻められ、自ら焼いて沈む |
| 1868年8月19日 | 榎本艦隊8隻(開陽・回天・蟠龍・千代田形・咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸)が品川沖を脱出 |
| 1868年8月下旬 | 房総沖で暴風雨。美賀保丸は銚子沖で座礁。咸臨丸は清水港に流れ着き、9月に新政府軍に攻められて捕らえられる。開陽は舵を、回天はマストを失う |
| 1868年8〜9月 | 艦隊は仙台の松島湾に集まり、仙台藩にあずけていた太江丸・鳳凰丸が加わる。三陸で秋田藩の千秋丸を捕らえる |
| 1868年10月 | 千代田形とともに庄内へ向かった第二長崎丸が、酒田沖の飛島で台風にあって座礁・沈没。本隊は蝦夷地の鷲ノ木に上陸し、五稜郭に入る。箱館に入ってきた秋田藩の高雄を捕らえる |
| 1868年11月15日 | 江差沖で開陽が座礁。助けに来た神速丸も座礁し、どちらも失われる |
| 1869年3月25日 | 宮古湾海戦。回天が新政府の甲鉄に斬り込むが失敗。高雄は追われて座礁し、失われる |
| 1869年5月 | 箱館湾海戦で艦隊が尽き、5月18日に五稜郭が開城 |
榎本艦隊は、戦う前から少しずつ艦を失っていきました。江戸開城の取り決めで4隻をわたし、日本海側で順動丸と第二長崎丸を失い、北への航海で美賀保丸と咸臨丸を失いました。そして蝦夷地に着いてからも、いちばんの頼りだった開陽を江差の海で失っています。
江戸開城のとき、榎本は開陽のような新しい艦を手もとに残し、比べて古い4隻をわたしました。それでも、旧幕府海軍がもっていた艦船の多くは、北へ向かう前に手もとから離れてしまいました。くわしい史実は、姉妹サイトの咸臨丸事件や寺泊沖海戦の解説で紹介しています。



ですが、もし一隻も失わずに箱館へ集まっていたら
もし江戸開城のときに4隻をわたさず、房総沖で嵐にあわず、日本海側の順動丸と第二長崎丸も無事に戻ってきていたら。そこに史実と同じく、三陸で千秋丸を、箱館で高雄を捕らえたとします。

こうなったかもしれない
1. 箱館に20隻近い艦船がそろう
まずは、史実で箱館に集まった艦と、もしもで加わる艦を並べてみます。
| 区分 | 艦名 | どんな船か |
|---|---|---|
| 史実でも箱館へ | 開陽・回天・蟠龍・千代田形 | 軍艦。開陽は約2,590トン、当時の日本でいちばん強い軍艦 |
| 史実でも箱館へ | 長鯨丸・神速丸・太江丸・鳳凰丸 | 兵や物資を運ぶ輸送船 |
| 史実でも箱館へ | 千秋丸・高雄 | 捕らえた船。高雄は砲を積んだ蒸気船で、のちの「第二回天」 |
| もしもで加わる | 富士山・朝陽・観光・翔鶴 | 江戸開城でわたさなかった4隻。富士山は約1,000トンの軍艦 |
| もしもで加わる | 美賀保丸・咸臨丸 | 嵐にあわずに北へ着いた2隻。どちらも帆船として使われていた |
| もしもで加わる | 順動丸・第二長崎丸 | 日本海側から戻ってきた2隻。どちらも蒸気船 |
合わせると18隻。開陽と回天に、富士山と朝陽という砲を積んだ軍艦が加わります。史実で開陽が江差の海で沈んだのも、ほかに出せる軍艦が少なく、旗艦みずから江差攻めに出たからでした。富士山や回天がいれば、開陽を危ない冬の日本海へ出す必要はなかったかもしれません。

2. 新政府の海軍より、数では上
このころの新政府の海軍は、まだ寄せ集めでした。史実で翌年の春に青森から出てきたのは、甲鉄・春日・陽春・丁卯の軍艦4隻と、輸送船4隻です。その中には、旧幕府がわたした朝陽も加わっていました。
もしもで朝陽をわたしていなければ、新政府側の軍艦はさらに減ります。開陽・富士山・回天をそろえた箱館の艦隊は、数でも大砲の数でも、新政府の艦隊を上回っていたはずです。
3. 冬のあいだ、津軽海峡を押さえる
新政府軍は1869年2月ごろ、青森におよそ8,000の兵を集めていました。でも、海を渡れなければ蝦夷地には一人も届きません。

箱館に20隻近い艦船があれば、榎本は津軽海峡に軍艦を出して、青森や三厩からの輸送船を見張ることができます。史実で新政府軍が乙部に上陸したのは4月9日です。私は、これが夏ごろまで遅れていたと思います。
4. 甲鉄だけは、どうしても沈められない
ところが、新政府には切り札がありました。アメリカから届いた甲鉄艦「甲鉄」です。船体を鉄の板でおおっていて、木造の開陽や回天の砲弾では、なかなか穴があきません。各国が戊辰戦争への中立をやめたことで、明治2年のはじめ、この甲鉄は新政府のものになりました。
史実の宮古湾海戦は、甲鉄を奪い取ろうとした作戦でした。もしもでは、回天のほかに富士山や朝陽も出せます。何隻もで甲鉄を囲めば、斬り込みが成功する見こみは少しは上がったでしょう。それでも、甲鉄の機関砲に向かって斬り込むのは命がけです。失敗すれば、何隻もの軍艦を一度に失うことになります。

5. いちばんの弱点は、石炭とお金
船の数がそろっても、蒸気船は石炭がなければ動きません。20隻近い艦船を冬の海で動かし続けるだけの石炭を、蝦夷地だけでまかなうのは難しかったと思います。修理するドックもなく、砲弾や火薬も、外国の商人から買うしかありません。
その外国も、中立をやめたあとは新政府を日本の政府として扱うようになります。お金を出せるのは新政府のほうで、新しい軍艦を買いそろえていくことができます。時がたつほど、海の力の差は新政府のほうへ傾いていきます。
6. 私が箱館政権にいたら:港と産業で、石炭とお金を自分でつくる
艦隊を動かし続けるには、石炭とお金がいる。それなら、蝦夷地で自分たちの手でつくるしかありません。私が箱館政権にいたら、艦隊がそろっているうちに、こう手を打ちます。

まず、箱館を貿易の港にします。箱館は1859年に開かれた国際港で、外国の商人も住んでいました。イギリスやフランスは、箱館政権を「事実上の政権」として扱ってもいます。海産物や木材を売り、港に入る船から関税を取る。そのお金をまとめて動かすために、銀行のような役所もつくります。
次に、石炭と鉄を自分で手に入れます。蝦夷地には、幕末に箱館奉行が掘り始めていた岩内の茅沼炭鉱がありました。恵山の古武井では、五稜郭を設計した武田斐三郎が、鉄をつくる炉づくりを試みています。炭鉱を広げ、反射炉を建てれば、石炭と砲弾の一部を自前でまかなえるかもしれません。船を直せるドックがあれば、嵐で傷んだ艦をすぐに海へ戻せます。
そして、畑を広げます。箱館政権では、開陽の艦長だった沢太郎左衛門が開拓奉行となり、室蘭で土地を切り開こうとしていました。私なら沢と一緒に室蘭の開墾を本格的に進め、鉱山の開発も合わせて、兵と町の人たちが食べていける土台をつくります。
税は、町の人に重くかけないようにします。史実の箱館政権は、軍資金のために町の人から税を取り、反感を買ったと言われます。私なら、遊郭のような商売には営業の許可を出して、その許可料から税を取る。町の人の暮らしからではなく、商売の許可からお金を集めるのです。
7. 結末:ずっと蝦夷共和国ではいられない。それでも交渉の席にはつける
ここまで手を打っても、新政府と同じだけのお金と兵をそろえることはできません。外国が中立をやめ、新政府を日本の政府として扱いはじめたら、箱館政権は「日本の中の、言うことを聞かない政権」になります。新政府は新しい軍艦を買いそろえ、いつかは海峡を渡ってくるでしょう。ずっと蝦夷共和国でいることは、やはり難しかったと思います。
ただ、強い艦隊と、自分の足で立てる港と産業があれば、榎本は交渉の席に堂々とつけます。榎本は、もともと蝦夷地を旧幕臣の手で開拓させてほしいと新政府に願い出ていました。新政府にとっても、戦わずに北の守りと開拓を任せられるなら悪い話ではありません。旧幕臣が蝦夷地に残り、開拓をになうことを認めさせる。それが、この「もしも」でいちばん現実的な落としどころだと私は思います。
もしもの箱館海軍・総兵力表
最後に、一隻も失わずに箱館へ集まった艦隊を表にまとめてみます。排水量(トン)と大砲の数は資料によって差があるので、代表的な数字を使いました。乗組員の数と、※のついた数字は、船の大きさから見当をつけた推定です。艦長は、史実でその艦をあずかった人物を入れ、わからない艦や史実で箱館にいなかった艦には、箱館政権の海軍にいた人物を「仮」として当てています。
| 艦名 | 種類 | 排水量 | 大砲 | 乗組員 | 艦長 |
|---|---|---|---|---|---|
| 開陽 | 軍艦(旗艦) | 2,590トン | 26門 | 約350人 | 沢太郎左衛門 |
| 回天 | 軍艦 | 1,678トン | 11門 | 約250人 | 甲賀源吾 |
| 富士山 | 軍艦 | 1,000トン | 13門 | 約200人 | 荒井郁之助(仮) |
| 朝陽 | 軍艦 | 約300トン | 約12門※ | 約100人 | 根津勢吉(仮) |
| 観光 | 軍艦(練習艦) | 約400トン※ | 約6門※ | 約100人 | 小杉雅之進(仮) |
| 蟠龍 | 軍艦 | 370トン | 4門 | 約80人 | 松岡磐吉 |
| 高雄(第二回天) | 砲艦 | 約350トン※ | 5門 | 約70人 | 古川節蔵 |
| 千代田形 | 砲艦 | 138トン | 3門 | 約40人 | 森本弘策 |
| 翔鶴 | 輸送船 | 約350トン※ | 約2門※ | 約60人 | (仮) |
| 順動丸 | 輸送船 | 約400トン※ | 約2門※ | 約60人 | (仮) |
| 長鯨丸 | 輸送船 | 966トン | — | 約80人 | (仮) |
| 美賀保丸 | 帆船(輸送) | 800トン | — | 約50人 | (仮) |
| 咸臨丸 | 帆船(輸送) | 625トン | — | 約50人 | 小林文次郎 |
| 第二長崎丸 | 輸送船 | 341トン | — | 約40人 | 柴木誠一郎 |
| 神速丸 | 輸送船 | 250トン | — | 約30人 | (仮) |
| 太江丸・鳳凰丸 | 輸送船 | 不明 | — | 約60人 | (仮) |
| 千秋丸 | 帆船(輸送) | 不明 | — | 約30人 | (仮) |
| 合計(18隻) | 軍艦・砲艦8隻、輸送船・帆船10隻 | 約1万1千トン | 約85門 | 約1,600人 | 海軍奉行 荒井郁之助 |
比べるために、史実で明治2年の春に青森から出てきた新政府の軍艦を見てみます。甲鉄(約1,360トン)、春日(約1,000トン)、陽春(約530トン)、丁卯(約130トン)の4隻で、合わせて約3,000トン。もしもでは朝陽が箱館側にいるので、新政府はこの顔ぶれで戦うことになります。
| もしもの箱館海軍 | 新政府の艦隊(明治2年春) | |
|---|---|---|
| 軍艦の数 | 8隻 | 4隻 |
| 艦船の合計 | 約1万1千トン(18隻) | 軍艦だけで約3,000トン(ほかに輸送船4隻) |
| いちばん強い艦 | 開陽(木造、26門) | 甲鉄(鉄でおおわれた船体) |
| 海軍の兵 | 約1,600人 | — |
| 陸の兵 | 約4,000人 | 青森に約8,000人 |
数字で並べると、海の上では箱館側が大きく上回ります。船の重さで3倍以上、軍艦の数で2倍です。ただし、この表に出てこない力の差が二つあります。一つは甲鉄の鉄の船体、もう一つは、新政府の後ろにある日本全体のお金です。この二つがある限り、表の数字の差は、時間とともに縮んでいったと思います。
まとめ
- 一隻も失わなければ、箱館には18隻、約1万1千トン、大砲約85門、海軍の兵約1,600人の艦隊がそろう
- 開陽・富士山・回天・朝陽をそろえ、数では新政府の海軍を上回る
- 冬のあいだ津軽海峡を押さえ、新政府軍の上陸を夏ごろまで遅らせられた
- それでも、鉄でおおわれた甲鉄は沈められない
- 貿易・炭鉱・反射炉・ドック・室蘭の開墾で、石炭とお金を自分でつくれば長く持ちこたえられる
- それでも、ずっと蝦夷共和国でいることはできない。手に入るのは、旧幕臣が蝦夷地を開拓するという交渉の落としどころ
艦隊が無事でも、天下の流れは変わりません。変わるのは、榎本が交渉の席につくときの手札の強さだったと思います。
筆者の感想
この「もしも」を調べていて、榎本艦隊がどれだけ戦う前に船を失っていたかに驚きました。江戸開城の取り決めで4隻、嵐で2隻、日本海側で2隻、そして江差で開陽と神速丸。新政府軍に海戦で沈められた船より、戦わずに失った船のほうがずっと多いのです。
開陽が江差の海に沈んだとき、榎本も土方歳三も、岸からその姿を見ていたと伝わります。当時の日本でいちばん強い軍艦をもちながら、それを海戦で使う前に失ってしまった。もし艦隊がそろっていたら、と考えずにはいられません。それでも、海の力だけで新しい国を守り続けるのは難しかった。榎本が最後に選んだのが、戦い続けることではなく降伏だったのは、そのことをよくわかっていたからだと思います。
あなたは、榎本艦隊が無事に箱館へ集まっていたら、蝦夷共和国はどこまで持ちこたえられたと思いますか?
よくある質問
榎本艦隊は何隻で品川を出たの?
1868年8月19日、開陽・回天・蟠龍・千代田形の軍艦4隻と、咸臨丸・長鯨丸・神速丸・美賀保丸の4隻、合わせて8隻で品川沖を出ました。
開陽丸はどこで沈んだの?
1868年11月15日、蝦夷地の江差沖で嵐にあって座礁し、そのまま沈みました。今は江差の港に、復元された開陽丸が展示されています。
甲鉄とはどんな船?
アメリカで南北戦争のころにつくられた、船体を鉄の板でおおった軍艦です。幕府が買う約束をしていましたが、戊辰戦争が始まったため、各国の中立が解かれてから新政府にわたされました。宮古湾海戦や箱館湾海戦で、旧幕府の艦隊を苦しめました。
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