『豊臣兄弟!』第42回で、秀長と慶が鍋丸を養子に迎えると決めたとき、強く反対したのが豊臣秀次でした。「血のつながらぬ者を」と言い、母のともに「小一郎が嫌いなの?」と問われると、「向こうが私を嫌いなのです」と答えます。鍋丸の登場で、秀次と秀長のあいだの溝がはっきり見えた場面でした。
けれど史実では、鍋丸のモデルとされる豊臣秀保は、秀次の実の弟です。ドラマの鍋丸は血のつながらない少年なので、秀次が迎えるとすれば「弟分」としてです。もし秀次が鍋丸を弟分として受け入れ、手を組んでいたら、のちの秀次事件は防げたのでしょうか。先日、秀次ゆかりの尾張の地、小牧・長久手の古戦場、岩崎城、清洲城、小牧山、そして蜂須賀家や前野長康ゆかりの屋敷跡をめぐってきました。現地の写真とともに考えます。

先に結論:秀次一人では防げなかった。鍋丸=秀保と組み、「関白を返す道」を早く選べば、切腹は避けられた
先に私の答えを書いておきます。秀頼が生まれたあとの秀次事件は、秀次一人の力ではまず防げません。けれど、鍋丸=秀保と手を組み、秀長の家臣団や北政所を味方にして、秀頼が大きくなったら関白を返すと早くから約束していれば、秀吉が秀次を切腹させる理由はなくなっていたはずです。
秀次が生きのびれば、宿老の前野長康も死なずにすみ、秀次の本拠・清須は「豊臣一門の城」として残ります。その先の関ヶ原では、東軍が清須に集まるという史実の形が成りたたなくなります。
史実:ともの三人の息子
秀吉の姉・ともと、夫の三好吉房(弥助)には、三人の息子がいました。
| 名前 | 生没年 | おもな立場 |
|---|---|---|
| 豊臣秀次 | 1568〜1595年 | 長男。秀吉の養子となって関白に。尾張の清須城主 |
| 豊臣秀勝 | 1569〜1592年 | 次男。美濃の岐阜城主。朝鮮へ渡り、巨済島で病死 |
| 豊臣秀保 | 1579〜1595年 | 三男。秀長の養子となり、大和郡山城主。十津川で急死 |
秀次と秀保は11歳はなれた兄弟で、秀保は早くから秀長の家に入っていました。ドラマでは、鍋丸が血のつながらない少年として描かれますが、史実の秀次にとって、秀保は同じ母から生まれた弟です。それでも、二人が力をあわせて動いた形跡は、ほとんど見えません。
秀次の原点:小牧・長久手の大敗(1584年)
秀次の名前が大きく出てくるのは、1584年(天正12年)の小牧・長久手の戦いです。秀吉と、織田信雄・徳川家康の連合軍がにらみあうなか、秀吉方は、家康の本拠・三河をつく「中入り」の別動隊を出しました。その総大将が、17歳の秀次でした。

秀吉は犬山や楽田に本陣をおき、家康は小牧山に陣を構えていました。別動隊の池田恒興らは、途中にある岩崎城を攻め落とします。けれど、その間に家康は小牧山からひそかに兵を出し、秀次の隊を背後から襲いました。秀次の隊はくずれ、つづく長久手の戦いで、池田恒興と子の元助、森長可が討ち死にします。
長久手の古戦場には、討ち死にした三人の塚がいまも残っています。池田恒興の勝入塚、子の元助の庄九郎塚、そして森長可の武蔵塚です。









岩崎城は、いまは模擬天守の建つ公園になっています。中入りの部隊がここで足をとめたことが、家康に追いつく時間を与えたとも言われます。展示室には、中入りの部隊の進路をえがいた図もありました。

長久手の古戦場は、いまは公園として整えられ、記念館もあります。戦いのあと、秀吉は秀次をきびしく叱る手紙を送っています。若い秀次にとって、この大敗は一生ついてまわる傷になりました。
秀次の家臣団:前野長康と蜂須賀家
秀吉は、若い秀次に、自分の古くからの家臣をつけて支えさせました。その一人が前野長康です。長康は尾張の前野村の出身で、蜂須賀小六(正勝)とともに、墨俣の築城のころから秀吉を支えた古参でした。のちに但馬出石の城主となり、秀次の宿老として仕えます。
ドラマでも、秀長が「長康殿も秀次と近江へ行ってしまう」と口にする場面がありました。この縁が、長康の運命を決めます。1595年の秀次事件で、長康は秀次の責めを負わされ、子の景定とともに命を落としました。


前野の屋敷跡は、いまの江南市にあります。古い蔵のそばに、長康の一族をしのぶ碑と説明板が立っていました。そこから遠くない宮後には、蜂須賀家ゆかりの地があり、小六の子・家政をたたえる碑も建てられています。秀吉を支えた尾張の古参たちは、この川ぞいの土地から出てきたのです。


清須:秀次が城主だった尾張の本拠(1590〜1595年)
1590年(天正18年)、小田原の北条攻めのあと、織田信雄が領地を取り上げられると、その旧領の尾張と北伊勢などが秀次に与えられました。秀次は100万石の大大名となり、清須城を本拠とします。翌年には秀吉の養子となって関白に上り、京の聚楽第に移りました。

いまの清洲城は、五条川のほとりに建つ模擬天守です。赤い大手橋をわたると、川の向こうに天守が見えます。信長の城として知られる清須ですが、豊臣の時代には、関白・秀次の尾張の本拠でした。

もしも:秀次が鍋丸を「弟分」として迎えていたら
第1段階:兄弟で一門を固める(1591〜1593年)
秀長が亡くなった1591年、秀次は24歳、秀保は13歳。もし秀次が、鍋丸を「血のつながらぬ者」としてではなく、かわいい弟分として迎えていたら、二人は関白と大和大納言家の当主として、豊臣一門の両輪になります。秀長の家臣だった藤堂高虎や横浜一庵も、関白の弟の家臣として、秀次とつながりを持つことになります。
第2段階:秀頼が生まれる(1593年)
1593年8月、秀吉と茶々のあいだに秀頼が生まれます。秀吉は、日本を五つに分けて四つを秀次に、一つを秀頼に与えるという話や、秀頼と秀次の娘をめあわせるという話を持ちだしたと伝わります。秀吉も、はじめから秀次を追いだすつもりだったわけではなさそうです。
ここで二人がそろっていれば、秀保と秀長の家臣団が、秀次と秀吉のあいだを取りもつことができます。「秀頼様が大きくなられたら、関白はお返しする」。この約束を、秀次が早いうちに自分から言いだし、秀保がその保証人になる。これが、私の考える一番大事な分かれ道です。
第3段階:1595年、事件の夏
史実では、1595年4月に秀保が急死し、7月に秀次が謀反をうたがわれて高野山へ送られ、切腹しました。もし秀保が生きていて、二人の結びつきが強ければ、秀保は郡山から伏見へかけつけ、北政所とともに秀吉に取りなしたでしょう。秀長の家臣団と、関白の弟という立場があれば、奉行たちも簡単には秀次を追いつめられません。

| ことがら | 史実 | もしも(予想) |
|---|---|---|
| 秀次 | 高野山で切腹。妻子も処刑される | 関白を返して清須に下がる。命は助かる |
| 秀保 | 4月に十津川で死去 | 郡山城主のまま。兄の取りなし役に |
| 前野長康 | 秀次の責めを負って死去 | 秀次とともに尾張にもどり、生きのびる |
| 清須城 | 福島正則が城主に | 秀次の城のまま、のちに秀次の子へ |
| 郡山城 | 増田長盛が城主に | 秀保の城のまま |
秀次は関白の座を秀頼にゆずる日まで、尾張の清須で「豊臣一門の長老」としてくらすことになります。弟の秀保は郡山で大和を治め、二人は秀頼をはさんで、豊臣家の東と南を守る形になります。
秀次事件は「尾張派と近江派」の争いだったのか
秀次のまわりを見ると、前野長康のような尾張の古参が目立ちます。いっぽう、事件で秀次を問いただしたのは増田長盛ら奉行で、そのあと郡山に入ったのも増田でした。秀頼の母・茶々は近江の浅井家の娘で、三成も近江の出身です。こう並べると、秀次事件は「尾張の古参」と「近江の奉行・茶々のまわり」の主導権争いのなれのはてにも見えます。
ただし、当時「尾張派」「近江派」という派閥がはっきりあったわけではありません。近年の研究では、秀吉ははじめから秀次を切腹させるつもりではなく、事態が急に動いた結果だったという見方も出ています。それでも、秀長と秀保が亡くなり、尾張の古参をまとめられる一門がいなくなったことで、政権の重心が奉行の側へ大きく動いたのはたしかです。秀保が生きていれば、その重心はここまで傾かなかったかもしれません。
その先:清須が「豊臣一門の城」のままなら関ヶ原は

史実では、秀次事件のあと、清須城には福島正則が入りました。そして1600年の関ヶ原の戦いの前、家康の東軍の大名たちは、この清須城に集まってから美濃へ攻めこんでいます。清須は、東軍にとって大事な足場でした。
もし清須が秀次の城のままなら、東軍はかんたんには清須に集まれません。秀次が東軍につくのか、西軍につくのか、どちらにもつかないのか。秀次の答え一つで、尾張から美濃への道が開くかどうかが決まります。郡山の秀保とあわせて、豊臣一門の兄弟は、天下分け目の戦いでも大きな発言力を持ったはずです。
まとめ:秀次が鍋丸を受け入れていたら
| 問い | 答え(予想) |
|---|---|
| 秀次事件は防げたか | 秀次一人では無理。鍋丸=秀保と組み、関白を返す約束を早くすれば防げた |
| カギになる人 | 弟の秀保、秀長の家臣団、北政所 |
| 前野長康は | 秀次とともに尾張へ下がり、生きのびる |
| 関ヶ原では | 清須が豊臣一門の城のまま。東軍は清須に集まれない |
ドラマの秀次は「向こうが私を嫌いなのです」と言いました。けれど、尾張の古戦場や城跡を歩いてみると、秀次のまわりには、長康のように最後までついてきた人たちがいたことがわかります。秀次が鍋丸を弟分として受け入れていたら、その人たちの運命も変わっていたかもしれません。
今回めぐった秀次ゆかりの地
| 場所 | 所在地 | 秀次とのかかわり |
|---|---|---|
| 長久手古戦場 | 愛知県長久手市 | 秀次の別動隊が敗れ、池田恒興・森長可が討ち死にした |
| 岩崎城 | 愛知県日進市 | 中入りの部隊が攻め落とした城 |
| 小牧山 | 愛知県小牧市 | 家康が本陣をおいた山 |
| 楽田城跡 | 愛知県犬山市 | 小牧・長久手の戦いで秀吉が本陣をおいた城 |
| 前野屋敷跡 | 愛知県江南市 | 秀次の宿老・前野長康の一族の地 |
| 蜂須賀家ゆかりの地 | 愛知県江南市 | 長康とともに秀吉を支えた蜂須賀小六の家 |
| 清洲城 | 愛知県清須市 | 秀次が尾張の本拠とした城 |
筆者の感想
今回、長久手から岩崎、小牧山、江南の前野・蜂須賀の屋敷跡、そして清洲城と一日でめぐってみて、秀次の人生はこの尾張の土地とずっと結びついていたのだと感じました。17歳で大敗した長久手も、最後の本拠になった清須も、車なら1時間ほどの距離です。
前野の屋敷跡では、長康の一族をしのぶ碑の前でしばらく立ちどまりました。秀次に最後までつきしたがった古参たちが、もし生きのびていたら。そう思わずにいられない場所でした。あなたは、秀次事件を防ぐ道はあったと思いますか?
よくある質問
豊臣秀次と豊臣秀保は兄弟?
はい。どちらも秀吉の姉・ともと三好吉房の子で、秀次が長男、秀保が三男です。間に秀勝という兄弟もいました。
ドラマの鍋丸は秀次の弟なの?
ドラマの鍋丸は、直が救った娘の子として描かれ、秀次とは血がつながっていません。ただ、モデルとされる史実の秀保は、秀次の実の弟です。
前野長康はなぜ秀次事件で命を落としたの?
秀次の宿老として仕えていたためです。事件の責めを負わされ、子の景定とともに亡くなりました。墨俣の築城のころから秀吉を支えた古参でした。
秀次の清須城はその後どうなった?
秀次事件のあと、福島正則が城主になりました。関ヶ原の戦いの前には、東軍の大名たちがこの清須城に集まっています。






