1600年9月15日、関ヶ原。西軍の総大将・毛利輝元は大坂城にとどまり、豊臣秀頼も城を出ることはありませんでした。東軍に加わった福島正則や黒田長政たちは、「これは三成との戦いであって、豊臣家との戦いではない」という建前で戦うことができたのです。
では、もし秀頼が関ヶ原に着陣し、松尾山城に豊臣の本陣旗を掲げていたら? 関ヶ原の一日は、どう変わっていたのでしょうか。
通説・史実:秀頼は大坂城を出なかった


関ヶ原のとき、秀頼はまだ8歳。西軍の総大将として大坂城に入った毛利輝元も、秀頼を守るという名目で城を動きませんでした。三成は秀頼と輝元の出馬を望んでいたとも言われますが、母の淀殿が幼い秀頼を戦場に出すことを許さなかった、とも伝わります。
一方で、関ヶ原の南にそびえる松尾山には、合戦の直前に西軍の手で手が入れられた山城がありました。この松尾山城は、大坂から輝元や秀頼を迎え入れるための城だったのではないか、という見方があります。ところが合戦の前日、この城に入ったのは小早川秀秋でした。秀秋は城を守っていた西軍の将を追い出して、ここに陣を構えます。そして翌日、松尾山を下りて東軍に寝返り、関ヶ原の勝敗を決めました。詳しくは日本の歴史ガイドの「松尾山城(関ケ原町)」で解説しています。

ですが、もし秀頼が関ヶ原に着陣し、松尾山城に陣取っていたら
もし秀頼が、大坂城を出ていたら。輝元はあくまで大坂城の留守を守り、秀頼を戦場へ連れていく役は、秀頼の守り役である片桐且元がつとめます。且元は賤ヶ岳の七本槍のひとりで、秀吉の死後は秀頼のそばに仕えた重臣です。
秀頼のまわりを固めるのは、豊臣家直属の親衛隊「七手組」。速水守久・青木一重・伊東長実らが率いる七つの組が、旗本として秀頼を守ります。その数は、およそ1万ほど。
合戦の前に関ヶ原へ着陣し、本来の主を迎えるはずだった松尾山城に入っていたら。関ヶ原を見下ろす山の上に、豊臣家の本陣旗がひるがえることになります。
この場合、先に松尾山に入っていた秀秋は、山の上から追い出されます。秀頼に城を明け渡し、松尾山のふもとへ陣を移させられるのです。史実では自分が西軍の将を追い出して奪った山を、今度は自分が追われる側になります。秀頼の目の前、豊臣家の旗の真下に置かれた秀秋は、もう山の上から高みの見物をすることはできません。
こうなったかもしれない

1. 豊臣の本陣旗に、東軍の豊臣恩顧の将たちが凍りつく




夜が明け、霧が晴れていく関ヶ原。東軍の陣から松尾山を見上げた武将たちの目に飛びこんできたのは、豊臣家の本陣旗でした。
福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明。そして、ふもとに陣を移した小早川秀秋までもが、およびごしになります。とくに正則は、目に見えるほど驚きをかくせません。秀吉に子どものころから育てられた正則にとって、あの旗に向かって槍を向けることは、主家に弓を引くことそのものです。正則は、この先どちらにつくのか、去就を決めかねてしまいます。
同じ賤ヶ岳の七本槍の加藤嘉明も、狼狽をかくせません。若いころから秀吉に仕え、豊臣家に取り立てられてきたのは嘉明も同じです。昨日までは「三成を討つ」と勇んでいた豊臣恩顧の武将たちの足が、ぴたりと止まってしまいます。
2. 家康もうかつに攻められず、にらみあいが続く
困ったのは家康です。東軍の主力は、福島・黒田・細川・加藤といった豊臣恩顧の武将たち。家康が「三成を討て」と号令をかけても、その先に秀頼の旗がある以上、彼らが本気で槍を振るう保証はありません。下手に攻めかかれば、味方が寝返るかもしれない。
家康もうかつには攻められず、関ヶ原では東西の軍がしばらくにらみあうことになります。史実では朝のうちに始まった戦いが、この世界では始まりません。霧が晴れたあとの関ヶ原には、張りつめた静けさだけが流れます。
3. 家康、陣をたたんで退く

とはいえ、ここまで大軍を率いてきた家康に、前へ出る道はありません。にらみあいを続けるほど、豊臣恩顧の武将たちの心はゆれていきます。家康はしかたなく、陣をたたむ決断をします。
めざすのは岐阜城です。岐阜城は、関ヶ原の少し前に東軍が攻め落とした城で、東軍が安心して入れる拠点です。すぐ近くの大垣城は西軍の城なので、そちらには向かえません。
家康はまず、合戦の前日まで東軍が本陣を置いていた美濃の赤坂へ下がり、そこから岐阜城へ。豊臣の旗をにらみながら、少しずつ、少しずつ東へ退いていきます。
しかし、岐阜城でも安心はできません。福島正則も加藤嘉明も、心がゆれたままです。その先の尾張の清洲城は、ほかでもない正則の城。正則が西へ寝返れば、清洲は家康の行く手をふさぐ敵の城に変わります。
家康は清洲を当てにせず、さらに東の三河まで退くことにします。三河は家康が生まれ育った国です。今は家康の娘婿・池田輝政の吉田城もあります。かつての自分の国まで戻って、ようやく家康は息をつくことになるのです。
そして、ここからが家康の強みです。関ヶ原の前、下野の小山で開かれた軍議で、山内一豊が「掛川城を家康どのに差し出す」と申し出ました。これに東海道ぞいの大名たちも続き、自分の城を家康に預けています。つまり、三河から駿河にかけての東海道の城は、すでに家康の手の中にあるのです。
家康は、これらの城を豊臣恩顧の武将ではなく、徳川の譜代の家臣たちで固めていきます。豊臣の旗を前にして心がゆれる者には任せられない。信じられるのは、昔から徳川に仕えてきた者だけ。東海道は、関東へ続く徳川の守りの道に変わっていきます。
西から順に、顔ぶれを並べてみるとこうなります。
| 城 | 今の場所 | 守る徳川の武将 |
|---|---|---|
| 岡崎城 | 愛知県岡崎市 | 本多康重 |
| 吉田城 | 愛知県豊橋市 | 松平家清 |
| 浜松城 | 静岡県浜松市 | 松平忠頼 |
| 横須賀城 | 静岡県掛川市 | 大須賀忠政 |
| 掛川城 | 静岡県掛川市 | 松平定勝(家康の異父弟) |
| 田中城 | 静岡県藤枝市 | 酒井忠利 |
| 駿府城 | 静岡県静岡市 | 内藤信成 |
| 小田原城 | 神奈川県小田原市 | 大久保忠隣 |
じつはこの顔ぶれ、史実で関ヶ原の翌年に、家康が実際にこれらの城へ入れた譜代の家臣たちです。家康は史実でも、東海道を徳川の身内で固めていきました。この世界では、それを関ヶ原の直後に、もっと急いでやることになります。
いちばん東の小田原城は、もともと徳川の城です。北条家が滅んだあと、家康が関東に移ったときに、譜代の重臣・大久保忠世が入りました。関ヶ原のころは、その子の大久保忠隣が守っています。箱根の山を背にした小田原が、関東の入口を守る最後のとりでになります。
本多忠勝や井伊直政といった主力は、城には入れず家康のそばに置いておきます。いつでも西へ打って出られるように。東海道の城が盾、家康の本隊が槍、という形です。
では、城に残っていた大名たちの家族や家臣はどうするか。家康は、彼らが西軍のほうへ移るのを自由に許します。城を差し出してくれた大名の家族を閉じこめれば、あとで逆恨みを買うだけです。去る者は去らせて、城だけは徳川で固める。ここで恨みを残さないのが、家康らしいやり方だと思います。
ただし、本当に大事な人物だけは、人質として手元にとどめておくという手もあります。全員を自由にすれば恨みは買わないが、手札もなくなる。全員をとどめれば手札は増えるが、恨みも増える。家康なら、この二つをはかりにかけて、要の人物だけを押さえたのではないでしょうか。
こうして、豊臣と徳川の境界線が引かれます。東海道では、福島正則の尾張と、徳川が固めた三河のあいだ。中山道では信濃です。信濃では、関ヶ原の前に上田城で徳川秀忠の大軍を足止めした真田昌幸が、そのまま国を治めるようになります。徳川にとっては、東海道の西にも、中山道の北にも、手ごわい相手がにらみをきかせることになるのです。
信濃と関東のあいだにある甲府は、浅野幸長の国です。幸長の母はねねの妹で、浅野家は豊臣家の身内そのもの。秀頼の旗を見た幸長は、甲府へは戻りませんでした。
ところが、甲府で留守を守っていた浅野の一族は、徳川につきます。父の浅野長政も、関ヶ原の前から家康の領地である武蔵の府中に移っていて、家康の目の届くところにいました。こうして甲府は徳川の手に入り、信濃の真田から関東を守る盾になります。そのかわり、浅野家は豊臣と徳川に分かれることになるのです。
北の境界線:宇都宮と水戸
境界線は西だけではありません。関東の北では、会津の上杉景勝が西軍として徳川をにらんでいます。そこで家康は、次男の結城秀康を上杉への押さえとします。秀康の領地は下総の結城ですが、陣を置くのは最前線の宇都宮です。宇都宮城の城主は家康の娘婿の蒲生秀行なので、城はそのまま蒲生に任せ、秀康は押さえの総大将として宇都宮に構えます。史実の関ヶ原のときも、秀康はこの形で上杉をにらんでいました。
ただし、結城の領地は10万石ほど。秀康ひとりの兵では、120万石の上杉には太刀打ちできません。そこで家康は、秀康に与力をたくさんつけます。宇都宮の蒲生秀行、安房の里見義康、下野の皆川広照や佐野信吉、那須の武士たち。北関東の大名をまとめて秀康の指図のもとに置き、北の守りを一つの軍にするのです。
そして、関東の東どなりの常陸・水戸には佐竹義宣がいます。佐竹は三成と親しく、史実の関ヶ原でもどちらにつくかはっきりさせませんでした。秀頼の旗が掲げられたこの世界では、佐竹が豊臣方に傾けば、徳川は北の上杉と東の佐竹に、すぐ背中から押される形になります。
一方で、関東の内側は徳川で固まっています。信濃と境を接する上野は、徳川の国です。高崎には井伊直政、館林には榊原康政と、徳川四天王のうち二人の城があり、真田への備えになります。宇都宮のある下野も、皆川広照や佐野信吉といった地元の大名たちが徳川方についていて、北の上杉に向き合う前線になります。房総半島の先の安房には里見義康がいますが、里見は史実でも家康について上杉への押さえに加わった家で、徳川方とみてよいでしょう。
そして北陸の前田家です。史実の関ヶ原では、前田利長は東軍につきました。前の年に家康から謀反を疑われ、母のまつを人質として江戸に送っていたからです。けれど、父の利家は秀吉の盟友で、秀頼の守り役でもあった人です。利長の弟の利政は、史実でも東軍に加わるのをこばんでいます。秀頼が出てきたなら、前田家は豊臣方に戻ります。母を人質に取られていても、です。前田家にとって秀頼は、父が最後まで守ろうとした主君なのですから。

豊臣と徳川、国力くらべ
では、この世界の豊臣方と徳川方は、どのくらいの力を持っていたのでしょうか。ざっくりと比べてみます。
| 豊臣方 | 徳川方 | |
|---|---|---|
| おもな顔ぶれ | 豊臣家の直轄地、毛利・宇喜多・上杉・島津・小早川・長宗我部、北陸の前田、去就に迷う福島ら豊臣恩顧の大名、信濃の真田 | 家康の関東、東海道の城、甲府。味方に伊達・最上・里見 |
| 石高(およそ) | 1000万石前後 | 330万石前後(伊達・最上・里見を入れて420万石前後) |
| 動かせる兵力(およそ) | 25万人前後 | 8万〜10万人(味方を入れて10万〜12万人) |
兵力は、1万石あたり250〜300人ほどを動員できたという目安で計算しています。数字だけを見れば、豊臣方が大きく上回ります。ただ、豊臣方は大名の寄り合いで、一人ひとりが自分の家を守ることを第一に考えます。一方の徳川方は、家康のもとにまとまった一つの家です。数の豊臣と、まとまりの徳川。この差が、長い戦いの行方を決めていくことになるのでしょう。
※石高と兵力は、大名ごとの石高を足し上げたおおよその数字です。誰をどちらに数えるかで大きく変わります。
関ヶ原で戦いは起きなかった。けれど、天下が決まったわけでもありません。西には秀頼を頂く豊臣家、東には東海道を固めた徳川家。ここから、豊臣対徳川という、長い長い戦いが始まるのです。
※兵力などの数字は諸説あります。
筆者の感想

この「もし」を考えてみて、あらためて豊臣家の旗の重さを感じました。8歳の秀頼が山の上に座っているだけで、福島正則も加藤嘉明も、秀秋までも動けなくなる。家康がどれだけ大軍を集めても、その軍の中身は豊臣恩顧の武将たちだったのです。
史実では、淀殿が幼い秀頼を戦場に出さなかったと伝わります。母としては当然の判断です。けれど、もし秀頼が松尾山に座っていたら、関ヶ原の一日はまったく違うものになっていたはずです。豊臣家にとっての本当の分かれ道は、関ヶ原の戦場ではなく、大坂城の奥にあったのかもしれません。
あなたは、秀頼が関ヶ原に来ていたら、この戦いはどうなったと思いますか?






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