もし家康の上杉征伐がそのまま実行されていたら?上杉は白河で粘れても、雪の前に頭を下げた

1600年6月、徳川家康は大坂城を出て、会津の上杉景勝を討つために北へ向かいました。世に言う「上杉征伐(会津征伐)」です。ところが7月、下野の小山まで来たところで、上方で石田三成が挙兵したという知らせが届きます。家康は会津攻めをやめて西へ引き返し、9月15日の関ヶ原へとつながっていきました。

では、もし三成が挙兵せず、家康がそのまま会津へ攻めこんでいたら? 先に私の答えを書きます。上杉は白河で徳川の大軍をしばらく止められても、四方から攻められ、雪が降る前に頭を下げることになったと思います。

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通説:上杉征伐は小山で止まった

上杉景勝のイラスト

秀吉の死後、上杉景勝は五大老のひとりとして会津120万石を治めていました。景勝が会津で新しい城(神指城)を築き、道や橋を整えはじめると、隣の越後の堀秀治らが「上杉に謀反の動きあり」と家康に知らせます。

家康は景勝に上洛して申し開きをするよう求めました。これに対して、上杉家の家老・直江兼続が返したとされるのが、有名な「直江状」です。家康を挑発するような内容だったとも言われ、家康は会津攻めを決めます。

家康が考えた作戦は、会津を五つの方向から囲むものでした。

  • 白河口:家康・秀忠の本隊
  • 仙道口:佐竹義宣
  • 信夫口:伊達政宗
  • 米沢口:最上義光
  • 津川口:前田利長・堀秀治(越後側)

対する上杉は、会津の入口にあたる白河の革籠原(かわごはら)に、長い防塁を築いて待ち構えていたと伝わります。湿地に徳川軍を誘いこみ、たたく作戦だったとも言われます。

ところが7月下旬、小山にいた家康のもとに三成挙兵の知らせが届き、家康は西へ引き返します。白河での決戦は、ついに起きませんでした。

ですが、もし三成が挙兵せず、家康がそのまま会津へ攻めこんでいたら

徳川家康のイラスト

三成が動かなければ、家康が西へ戻る理由はありません。7月末、家康の本隊は予定どおり小山から白河へ向かい、伊達・最上・前田・堀らも、それぞれの方向から会津へ攻めこみます。豊臣家の大老として「秀頼さまに逆らう上杉を討つ」という、正式な戦です。

こうなったかもしれない

1. 白河で、上杉は徳川を止める

まず白河です。上杉は謙信以来の戦上手の家。しかも、防塁と湿地を使って待ち構えています。攻める側の徳川は、大軍であるほど湿地で身動きがとりにくくなります。

先鋒が防塁にぶつかったところで、上杉の兵が横から打って出る。徳川の先鋒はここで大きな被害を出し、白河で足止めされたはずです。

家康は、無理に攻めない人です。小牧・長久手でも、正面から大軍とぶつかるより、相手の出方を見て動きました。白河でも、防塁を力ずくで破るより、まわりの軍が会津を締め上げるのを待つ作戦に切りかえたでしょう。

2. 北と西から、包囲網が締まっていく

伊達政宗のイラスト

白河で家康を止めているあいだに、ほかの方向が危なくなります。

北では伊達政宗が動きます。史実でも政宗は、7月下旬に上杉方の白石城を落としています。この世界では、そのまま信夫郡(福島市のあたり)へ攻めこみます。さらに米沢口からは最上義光が迫ります。

西の越後では、前田利長と堀秀治が会津へ向かいます。ただ、越後はもともと上杉の国です。上杉が会津へ移ったあとも、旧家臣や寺社とのつながりが残っていて、史実でも上杉方の一揆が起きています。堀は足もとの一揆に手を焼き、思うように攻めこめなかったでしょう。

それでも上杉は、五つの方向に兵を分けなければなりません。120万石といっても、全方向を同じ力で守るのは無理です。どこか一か所が破れれば、そこから会津に敵がなだれこみます。

3. 頼みの佐竹は動かない

上杉にとって最後の望みは、仙道口を受け持つ佐竹義宣でした。佐竹は三成と親しく、上杉とも通じていたとも言われます。もし佐竹が寝返って家康の横腹を突けば、白河の徳川本隊は前後から挟まれます。

しかし、目の前には家康・秀忠の大軍がいます。上方で三成が立ち上がっているわけでもありません。ここで家康に逆らえば、次に討たれるのは佐竹です。佐竹は「様子を見る」しかなかったと思います。史実の関ヶ原でも、佐竹は最後まで態度をはっきりさせませんでした。

4. 秋が深まり、会津に雪が近づく

時間がたつほど、困るのは両方です。

会津は雪の多い土地です。10月の終わりになれば、峠道は雪で閉ざされはじめます。家康としては、冬になる前にけりをつけたい。長く大軍を東北に置いておけば、上方で何が起きるかわかりません。

上杉もまた苦しい立場です。五方向から攻められ、米や兵の補給は細るばかり。伊達や最上に領地を少しずつ削られていきます。冬を越せば、春にはもっと苦しい状況で攻められることになります。

5. 景勝、頭を下げる

ここで動くのは、家康のほうだと思います。家康は、前の年に前田家を屈服させたときも、戦わずに降参させています。前田利長は、母の芳春院(まつ)を江戸へ人質に出して許されました。

家康は上杉にも、「上洛して秀頼さまにおわびをすれば、家は残す」と和睦を持ちかけたはずです。景勝としても、これ以上戦えば家が滅びます。白河で一矢報いて、上杉の武名も守った。ここが引きどころです。

景勝は上洛して謝り、領地は大きく減らされます。会津を取り上げられ、史実と同じように米沢30万石あたりまで減らされたかもしれません。

※兵力や日付には諸説あります。

それでも、家康の天下は来た

この世界には、関ヶ原の戦いがありません。それでも家康は、五大老の上杉を豊臣家の名のもとに屈服させたことで、「家康に逆らえば、こうなる」と全国の大名に見せつけます。前田に続いて上杉も降り、家康に逆らえる大老はもういません。

ただし、関ヶ原のように「敵をひとまとめに片付ける」好機はなくなります。史実では、関ヶ原のあとに西軍の大名をまとめて取りつぶし、その領地を味方に配って一気に天下を固めました。この世界では、三成や毛利、宇喜多はそのまま残ります。家康の天下は来ても、豊臣家との決着は、史実よりもっと時間がかかったと思います。

筆者の感想

上杉は「負けない戦」はできても、「勝つ戦」はできなかったのだと思います。白河の防塁は、徳川の大軍を止めるには十分だったかもしれません。でも、まわりをすべて敵に囲まれた上杉には、そこから先に打つ手がありませんでした。上杉が本当に勝つためには、上方で三成が立ち上がり、家康を挟み撃ちにする必要があったのです。

あなたは、上杉征伐がそのまま行われていたら、上杉はどこまで戦えたと思いますか?

よくある質問

上杉征伐(会津征伐)はなぜ起きたの?

上杉景勝が会津で新しい城を築くなど戦の準備をしていると、隣国の堀秀治らが家康に知らせたためです。家康は景勝に上洛を求めましたが、景勝は応じず、直江兼続の「直江状」で家康の怒りを買ったと言われます。

直江状は本物なの?

原本は残っておらず、写しだけが伝わっています。後から書き加えられた部分があるのではないかという説もあり、研究者のあいだでも意見が分かれています。

白河の防塁は今も残っているの?

福島県白河市に「革籠原の防塁跡」として一部が残っています。二重の土塁で、上杉が徳川軍を迎え撃つために築いたと伝わります。

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