もし上杉軍が西上する徳川軍を追撃していたら?家康は討てなくても、関ヶ原の決戦は消えた

1600年7月、下野の小山で石田三成挙兵の知らせを受けた徳川家康は、会津攻めをやめて西へ引き返しました。目の前の敵に背中を見せたことになります。ところが上杉景勝は、引き返す家康を追いませんでした。

では、もし上杉が家康を追って関東へ攻めこんでいたら? 先に私の答えを書きます。上杉は家康を討つことはできません。でも、家康を江戸に足止めすることはできた。そうなれば、9月15日の関ヶ原の決戦は起きなかったと思います。

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通説:上杉は家康を追わなかった

7月25日ごろ、家康は小山で諸将と話し合い、西へ戻ることを決めたと言われます(小山評定)。家康は8月5日に江戸へ戻り、9月1日まで江戸から動きませんでした。そのあいだ、福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが先に西へ向かい、8月23日には岐阜城を落としています。

上杉への押さえとして、家康は次男の結城秀康を宇都宮に残しました。

上杉景勝のイラスト

一方の上杉は、関東へは向かいませんでした。9月になると、兵を北へ向け、出羽の最上義光を攻めます。直江兼続が長谷堂城を囲んだ「慶長出羽合戦」です。しかし城は落ちず、そのうちに関ヶ原で西軍が一日で敗れたという知らせが届き、兼続は兵を引きました。

なぜ上杉は家康を追わなかったのか。理由はいくつか考えられます。

  • 北に伊達政宗、西に最上義光がいて、会津を空けると背後を突かれる
  • 常陸の佐竹義宣の態度がはっきりしない
  • 宇都宮に結城秀康が構えている

兼続は追撃を進言したが、景勝が「退く敵を背後から討つのは上杉の義に反する」と止めた、という話も伝わります。ただ、これは後の時代に作られた話とも言われています。

ですが、もし上杉が兼続の進言どおり、関東へ攻めこんでいたら

8月、家康が江戸へ戻ったのを見て、景勝が決断します。「今こそ関東へ」。伊達・最上への押さえを残し、上杉の主力が白河を越えて南へ。下野へ攻め下っていたら、関東はどうなっていたでしょうか。

こうなったかもしれない

1. 宇都宮で結城秀康とぶつかる

白河を越えた上杉軍の前に立ちはだかるのは、宇都宮の結城秀康です。秀康は家康の次男で、武勇で知られた人でした。家康も、上杉が来るならまず宇都宮で止める、と考えて秀康を置いたのです。

上杉は野戦には強い。宇都宮のまわりで秀康の軍を押しこむことはできたでしょう。でも、城にこもった秀康を落とすのは簡単ではありません。上杉は宇都宮で足を止められます。

ここまでなら、家康にとって想定のうちです。問題は、この次でした。

2. 佐竹義宣が旗をあげる

上杉が宇都宮まで攻め下ってきたのを見て、常陸の佐竹義宣が動きます。佐竹は三成と親しく、上杉とも通じていたと言われる大名です。史実ではどっちつかずのまま終わりましたが、上杉の大軍が目の前まで来れば話は別です。

常陸は江戸のすぐ北東です。佐竹が西軍として旗をあげれば、江戸は北の上杉と、東の佐竹から脅かされることになります。

3. 家康は江戸を出られない

徳川家康のイラスト

史実で家康は、9月1日に江戸を出て関ヶ原へ向かいました。けれど、この世界では無理です。北に上杉、東に佐竹。家康が東海道を西へ行けば、留守の江戸は丸裸になります。

さらに、中山道を進むはずだった秀忠の3万8千ほどの軍も、上杉・佐竹の押さえに回すしかありません。秀忠の軍は、もともと上杉征伐のための軍だったのです。

「内府さまは、まだお越しにならぬのか」

美濃の赤坂で家康を待つ福島正則や黒田長政たちのもとに、家康は来ません。来るのは「江戸を動けぬ」という知らせだけです。

4. それでも上杉は、関東に長くいられない

伊達政宗のイラスト

上杉にも弱みがあります。主力が関東へ出ていけば、会津は手薄になります。

これを見逃さないのが伊達政宗です。史実でも政宗は、家康から「上杉の旧領を切り取れば、自分のものにしてよい」という約束(いわゆる「百万石のお墨付き」)をもらっていました。上杉の主力がいない会津は、政宗にとって絶好の機会です。北からは最上も迫ります。

上杉は、関東で家康を引きつけながら、本国も守らなければなりません。家康を討つほど深く攻めこむ余裕はなかったはずです。上杉の役目は、あくまで「家康を江戸に縛りつけておく」ことでした。

5. 家康のいない美濃で、東軍が揺れる

家康がいない美濃では、東軍の顔ぶれは福島正則、黒田長政、池田輝政、細川忠興ら、もともと豊臣家の大名ばかりです。家康の本隊も秀忠の軍もいません。

この東軍は、「三成をこらしめる」という一点でまとまっていました。けれど、家康が来ないまま時間がたてば、話は変わります。もし大坂の毛利輝元が秀頼を連れて出てくれば、福島たちは秀頼に弓を引くことはできません。

小早川秀秋も、毛利の吉川広家も、「家康が勝ちそう」だから東軍に通じていました。家康が江戸から動けないとなれば、その計算も成り立ちません。

こうして、9月15日の関ヶ原の決戦は起きません。東西の軍は美濃でにらみ合ったまま、戦いは長い持久戦になっていったと思います。

※兵力や日付には諸説あります。

関ヶ原が消えた世界

上杉が家康を追っていれば、上杉が勝ったとは言えません。宇都宮は落ちず、会津は伊達に脅かされ、上杉も苦しい戦いを続けることになります。

でも、家康にとって何より大きかったのは、「一日で決着をつける」ことができなくなった点です。史実の家康は、関ヶ原の一日で西軍をまとめて片付け、そのまま天下を取りました。持久戦になれば、豊臣恩顧の大名たちが家康についてくる理由は少しずつ薄れていきます。天下の行方は、まったくわからなくなっていたはずです。

筆者の感想

関ヶ原というと、9月15日の美濃ばかりが注目されます。でも、家康が安心して西へ向かえたのは、東北で上杉が動かなかったからです。上杉が家康を追わなかった時点で、関ヶ原の勝負は半分決まっていたのかもしれません。

上杉は、背後の伊達や最上を恐れて動けませんでした。家康はそこまで読んで、伊達や最上を味方につけ、宇都宮に秀康を置いていた。上杉征伐の本当の勝負は、戦う前の包囲網づくりで、すでについていたのだと思います。

あなたは、上杉が家康を追っていたら、関ヶ原はどうなったと思いますか?

よくある質問

上杉景勝はなぜ家康を追撃しなかったの?

北の伊達政宗や出羽の最上義光が家康側についていて、会津を空けると背後を突かれるおそれがあったためと考えられています。宇都宮に結城秀康がいたことや、佐竹義宣の態度がはっきりしなかったことも理由に挙げられます。

家康が西へ向かったあと、上杉は何をしていたの?

9月に出羽の最上義光を攻めました。直江兼続が長谷堂城を囲みましたが落とせず、関ヶ原で西軍が敗れたという知らせを受けて兵を引いています(慶長出羽合戦)。

関ヶ原のあと、上杉家はどうなったの?

景勝は家康に謝罪して家は残されましたが、会津120万石から米沢30万石へと大きく減らされました。

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