もし伏見城の鳥居元忠が島津義弘を城に入れていたら?島津は東軍の功臣になり、薩摩と徳川の260年が変わった

徳川と島津がいっしょに籠城する伏見城の図(イメージ)

1600年7月、徳川家康が会津の上杉攻めに出たあと、伏見城を預かっていたのは老臣の鳥居元忠でした。そこへ、島津義弘が「家康どのに頼まれた。いっしょに城を守ろう」とやってきます。ところが元忠は「そんな話は聞いていない」と、義弘を城に入れませんでした。行き場を失った義弘は西軍につき、関ヶ原では西軍として戦うことになります。

では、もし鳥居元忠が島津義弘を城に入れていたら? 先に私の答えを書きます。伏見城は落ちても半月ほど長く持ちこたえ、島津家は東軍の功臣になっていた。そうなれば、薩摩と徳川の関係は260年先まで変わっていたかもしれません。

伏見城の門で島津義弘を迎え入れる鳥居元忠(イメージ)
島津義弘を迎え入れる鳥居元忠(イメージ)
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通説:鳥居元忠は島津を城に入れなかった

徳川家康のイラスト

1600年6月、家康は会津の上杉景勝を討つため、大坂を出て東へ向かいました。途中で立ち寄った伏見城で、家康は鳥居元忠と夜遅くまで酒をくみかわしたと伝わります。三成たちが兵をあげれば、伏見城は真っ先に攻められる。元忠は、城を枕に死ぬ覚悟でこの役目を引き受けました。城に残った兵は1千800ほどだったと言われます。

島津義弘のイラスト

そのころ島津義弘は、わずかな兵とともに京や大坂にいました。島津家の記録によると、義弘は家康から「伏見城の守りを手伝ってほしい」と頼まれていたといいます。三成たちが兵をあげると、義弘は約束どおり伏見城に入ろうとしました。

ところが元忠は、家康からそんな話は聞いていないと言って、門を開けませんでした。もし城に入れた島津が途中で裏切れば、城はひとたまりもありません。元忠にしてみれば、当然の用心だったのでしょう。

城に入れなかった義弘は、大坂に戻るしかありませんでした。まわりは西軍ばかり。義弘は西軍に加わり、7月19日から始まった伏見城攻めにも加わります。4万ともいわれる西軍に囲まれた伏見城は、8月1日に落ち、元忠は討ち死にしました。

ですが、もし鳥居元忠が島津義弘を城に入れていたら

元忠が「家康どのの頼みなら」と門を開け、義弘とその兵を城に迎え入れていたら。徳川と島津が、いっしょに伏見城にこもっていたら。伏見城の戦い、そして関ヶ原は、どう変わっていたでしょうか。

こうなったかもしれない

1. 伏見城は、半月長く持ちこたえる

徳川と島津がいっしょに籠城する伏見城の図(イメージ)
徳川と島津の伏見籠城(イメージ)

島津の兵は数こそ少なくても、朝鮮出兵で「鬼島津」と恐れられた歴戦の兵です。泗川の戦いでは、数万の明軍を少ない兵で打ち破ったとも伝わります。鳥居元忠の1千800に、島津の兵が加われば、城の守りはぐっと堅くなります。

史実の伏見城は、13日ほどで落ちました。島津が加わっていれば、さらに半月、8月の半ばまで持ちこたえたと思います。とはいえ、4万の大軍に囲まれて、援軍が来るあてもありません。最後には城は落ちたでしょう。

2. 島津義弘は、敵の中を突っ切って城を出る

落城がせまったとき、元忠は城とともに死ぬことを選びます。けれど義弘は、ここで死ぬつもりはありません。家康に頼まれて城に入った以上、生きて家康のもとへ行き、東軍として戦うのが義弘の筋です。

義弘は、残った兵とともに城を出て、敵の中を突っ切って東へ逃れます。史実の関ヶ原で見せた「島津の退き口」を、ひと月早く伏見で見せることになったはずです。

3. 西軍の動きが遅れる

伏見城が半月長く持ちこたえれば、西軍の動きはそれだけ遅れます。史実の西軍は、伏見城を落としたあと、伊勢や美濃へ兵を進めました。そのあいだに家康は江戸から西へ向かう準備を整え、福島正則らの先鋒は8月23日に岐阜城を落としています。

伏見で足止めされた西軍が美濃に着く前に、東軍の先鋒が尾張・美濃を押さえてしまう。三成が大垣城を拠点にすることも、難しくなっていたかもしれません。

4. 島津は東軍として関ヶ原へ

島津義久のイラスト

伏見を脱け出した義弘が家康のもとにたどり着けば、島津は東軍の一員として関ヶ原に並びます。兵の数はわずかでも、「島津が東軍にいる」ことの意味は大きい。九州の西軍大名たちは、背後の薩摩を気にして動きにくくなります。

国元の薩摩にいた兄の島津義久や、跡継ぎの忠恒(のちの家久)も、義弘が東軍にいるなら、ためらわずに家康に味方したでしょう。

5. 戦いのあと、島津は功臣になる

史実の島津家は、西軍についたことで、戦いのあと取りつぶされてもおかしくない立場でした。義久や忠恒が家康と2年近くも交渉を重ね、ようやく薩摩・大隅の領地を守りきったのです。

東軍についていれば、話はまったく逆です。伏見城で徳川とともに戦い、敵中を突っ切って家康のもとへ駆けつけた島津は、東軍の功臣として迎えられます。日向の残りや肥後の南部など、九州で加増されたかもしれません。

※兵力や日付には諸説あります。

薩摩と徳川の260年が変わった

史実の島津家は、関ヶ原で西軍として戦い、徳川に負けた側として江戸時代を生きました。その思いが、260年後の幕末、薩摩が倒幕の中心になる遠い理由のひとつだったとも言われます。

伏見城の門がたったひとつ開いていれば、島津は徳川の味方として江戸時代を迎えていました。幕末の薩摩は、倒幕ではなく幕府を支える側に立っていたかもしれません。鳥居元忠の用心深さが、260年後の日本の形まで変えたのだと思うと、歴史はおもしろいものです。

筆者の感想

鳥居元忠が島津を城に入れなかったのは、まちがった判断だったとは言い切れません。家康から何も聞いていない以上、見知らぬ大軍を城に入れるのは危険すぎます。元忠は、家康のためにいちばん安全な道を選んだのだと思います。

それでも、もし家康がひと言「島津が来たら入れてやれ」と元忠に伝えていたら、と考えてしまいます。家康ほどの人でも、すべてを読みきることはできなかった。そのすき間に、歴史の分かれ道があったのではないでしょうか。

あなたは、島津が東軍についていたら、江戸時代や幕末はどうなっていたと思いますか?

よくある質問

島津義弘はなぜ西軍についたの?

家康に頼まれて伏見城に入ろうとしたものの、城を守る鳥居元忠に断られたためと伝わります。まわりが西軍ばかりの大坂で孤立した義弘は、西軍に加わるしかありませんでした。ただし、この話は島津家側の記録にもとづくもので、別の見方もあります。

伏見城の戦いはいつからいつまで?

1600年7月19日に西軍の攻撃が始まり、8月1日に城が落ちました。城を守った鳥居元忠は討ち死にし、その忠義はのちに「三河武士の鑑」とたたえられました。

戦いのあと、島津家はどうなったの?

西軍についたことで処分も考えられましたが、島津義久・忠恒が粘り強く交渉し、1602年に薩摩・大隅など60万石あまりの領地をそのまま認められました。

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