もし秀長が九州攻めのあと、九州の大名になっていたら?肥後の一揆は起きず、それでも朝鮮出兵は止められなかった

もし秀長が九州の大名になっていたら 博多から九州をおさえる図(イメージ)

1587年、豊臣秀吉は20万をこえる大軍で九州に攻めこみ、島津氏を降しました。このとき日向から攻めのぼり、根白坂で島津の大軍を打ち破ったのが、秀吉の弟・豊臣秀長です。けれど九州攻めが終わると、秀長は大和郡山へ帰り、九州の国々は佐々成政や小早川隆景、黒田孝高らに分け与えられました。

では、もし秀長がそのまま九州に残り、九州の大名になっていたら? 先に私の答えを書きます。肥後の国人一揆は起きず、博多を中心に九州は早く落ち着いたと思います。ただし、秀長の命は1591年に尽きます。九州を治めた秀長でも、朝鮮出兵そのものは止められなかったでしょう。

博多の港で豪商や南蛮の商人と語らう豊臣秀長(イメージ)
博多の港で豪商と語らう秀長(イメージ)
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通説:秀長は大和へ帰り、九州は諸大名に分けられた

豊臣秀長のイラスト

九州攻めのあと、秀吉は筥崎(今の福岡市東区)で九州の国分けを行いました(九州国分)。島津は薩摩・大隅と日向の一部だけを残され、肥後は佐々成政、筑前と筑後の一部は小早川隆景、豊前の多くは黒田孝高に与えられました。

秀長は、大和・紀伊・和泉を治める100万石をこえる大大名でした。九州で大きな手柄を立てましたが、新しい領地は与えられず、そのまま大和郡山に帰っています。秀吉のそばで政権を支える、なくてはならない人だったからです。

ところが、肥後ではすぐに問題が起きました。佐々成政が国人たちの土地を急いで調べ直そうとしたため、国人たちが一斉に立ち上がったのです(肥後国人一揆)。一揆は九州じゅうの大名を動員してようやく鎮められ、成政は責任を問われて切腹を命じられました。

ですが、もし秀長が九州の大名になっていたら

もし秀吉が「九州のことは小一郎(秀長)に任せる」と決め、秀長に筑前・筑後・肥後を与えていたら。大和は養子の秀保に任せ、秀長は博多に近い名島に城を構えて、九州全体のまとめ役になります。

こうなったかもしれない

1. 九州の真ん中に、豊臣の大きな柱が立つ

九州の大名となった豊臣秀長の領国と周りの大名を描いた図(イメージ)
九州の大名となった秀長(イメージ)

筑前・筑後・肥後をあわせると、およそ100万石になります。九州の北から真ん中までを、秀吉の弟が直接おさえることになるのです。南の島津、豊前の黒田、豊後の大友、肥前の龍造寺(鍋島)。どの大名も、秀長の顔色をうかがうようになったでしょう。

2. 肥後の国人一揆は起きない

秀長は、武力だけでなく、話し合いで人をまとめるのが上手な人でした。秀吉に逆らった大名との間をとりもったり、大名たちの不満を聞いたりする役目を、何度もこなしています。

肥後の国人たちに対しても、秀長なら急いで土地を取り上げるようなことはしなかったはずです。古くからの土地をしばらく認め、少しずつ豊臣のやり方に慣れさせていく。成政が失敗したところを、秀長はゆっくり乗りこえたと思います。

3. 島津とのつき合いが変わる

島津義久のイラスト

九州攻めで、島津はまず秀長に降伏を申し入れています。日向で戦った秀長は、島津の強さも、島津の家の中の事情もよく知っていました。

秀長が九州にいれば、島津義久・義弘の兄弟は、何かあればまず秀長に相談したでしょう。史実で島津は、豊臣の命令にしばしば遅れて従い、石田三成らに厳しく指導されます。秀長が間に立てば、島津と豊臣のつき合いは、もっとおだやかなものになっていたかもしれません。

4. 博多がよみがえり、海の守りも固まる

博多の町は、九州の戦乱で焼け野原になっていました。史実でも秀吉は九州攻めのあと、博多の町割りをやり直し、神屋宗湛や島井宗室といった豪商に町の復興を任せています(太閤町割り)。

秀長が名島にいれば、博多の復興はさらに早く進んだでしょう。秀長は大和で寺社や商人とつき合い、町を育ててきた人です。南蛮の商人も含めて、博多は九州一の港町として、一足早くにぎわいを取り戻したと思います。

大友宗麟のイラスト

南蛮の商人と親しかった豊後の大友宗麟も、九州攻めの直後の1587年に亡くなっています。南蛮との窓口として、博多と秀長の重みはいっそう大きくなったはずです。

5. それでも、1591年に秀長は亡くなる

ここで、どうしても避けられないことがあります。秀長は1591年の正月に、病で亡くなります。九州にいても大和にいても、この運命は変わらなかったでしょう。

秀長が九州で治めた年月は、わずか4年ほど。そのあとを継ぐのは、まだ若い秀保です。九州の大きな領国を、若い秀保がそのまま治めるのは難しく、秀吉は名島の城に別の大名を入れたと思います。史実で筑前を治めた小早川家が、そのまま入ったのかもしれません。

※兵力や石高、日付には諸説あります。

朝鮮出兵は止められたのか

秀長が九州にいたら、朝鮮出兵を止められたのでは? そう考える人もいるでしょう。九州は、朝鮮へ渡る兵が集まる場所です。秀長が「九州の国々は戦で疲れきっています」と秀吉に言えば、重みのある言葉になったはずです。

けれど、秀吉が肥前の名護屋に城を築き始めたのは、秀長が亡くなった1591年の秋です。秀長がいなくなってから、朝鮮出兵は一気に進みました。九州にいようと大和にいようと、秀長が生きている間は出兵の準備はまだ本格化しておらず、亡くなってしまえば止める人はいない。九州の大名・秀長でも、朝鮮出兵を止めるのは難しかったと思います。

むしろ、秀長が九州へ行ったことで、秀吉のそばで政権を支える人がいなくなる心配もあります。「内々のことは利休に、公のことは秀長に」と言われたほど、秀長は大坂での調整役でした。秀長が遠い九州にいれば、豊臣政権の中の不満はもっと早く表に出たかもしれません(「もし千利休が切腹しなかったら?」)。

まとめ:九州は落ち着いても、豊臣の運命は変わらない

秀長が九州の大名になっていれば、肥後の一揆は起きず、島津とのつき合いもおだやかになり、博多は早くよみがえったでしょう。九州の豊臣支配は、史実よりずっとなめらかに進んだと思います。

けれど、秀長の命の長さは変わりません。豊臣家にとって本当に必要だったのは、九州の秀長ではなく、長生きする秀長だったのだと思います(「もし豊臣秀長があと10年生きていたら?」)。

筆者の感想

秀長という人は、どこに置いても、そこを落ち着かせる力を持っていたように思います。大和では手ごわい寺社をまとめ、九州攻めでは島津と向き合い、大坂では大名たちの不満を聞いた。もし九州に残っていたら、成政のような悲劇は起きなかったでしょう。

でも秀吉は、それほど頼れる弟だからこそ、そばに置いておきたかったのではないでしょうか。秀長が九州へ行かなかったのは、秀吉の弟への信頼の証だったのかもしれません。

あなたは、秀長が九州の大名になっていたら、豊臣の天下はどうなっていたと思いますか?

よくある質問

九州国分とは?

1587年、九州攻めで島津を降した秀吉が、九州の国々を大名たちに分け与えたことです。島津は薩摩・大隅などを残され、肥後は佐々成政、筑前は小早川隆景、豊前は黒田孝高らに与えられました。

肥後国人一揆とは?

1587年、肥後を与えられた佐々成政が国人たちの土地を急いで調べ直そうとしたことに反発して起きた一揆です。九州の大名たちが動員されて鎮められ、成政は翌年、責任を問われて切腹しました。

豊臣秀長はいつ亡くなったの?

1591年の正月、大和郡山城で病のため亡くなりました。52歳だったと伝わります。秀長の死のあと、千利休の切腹や朝鮮出兵など、豊臣政権は大きく揺れていきます。

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