もし真田幸村が九度山を出なかったら?大坂の陣の結末は同じ、でも「真田幸村」はいなかった

もし真田幸村が九度山を出なかったら

10月23日から放送のドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』は、関ヶ原の戦いから14年後、紀伊の九度山にいる真田幸村(信繁)のもとから物語が動き出します。

史実の信繁も、関ヶ原のあと14年ものあいだ、九度山で暮らしていました。そして1614年10月、豊臣家の誘いを受けて山を抜け出し、大坂城に入ります。ここから「日本一の兵」の伝説が始まりました。

では、もし信繁が九度山を出なかったら? 先に私の答えを書きます。大坂の陣の結末は変わりません。でも信繁は、兄の信之のもとで静かに年を重ね、私たちの知る「真田幸村」は生まれなかったと思います。

真田信繁(幸村)

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目次

通説・史実:九度山での14年

年 出来事
1600年 第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を足止めするが、関ヶ原で西軍が敗れる。兄・信之の命ごいで死罪をまぬがれ、父・昌幸とともに紀伊の九度山へ流される
1600年代 九度山で家族と暮らす。息子の大助(幸昌)もこのころ生まれたと言われる
1611年 父・昌幸が九度山で亡くなる。赦されて上田に帰る願いはかなわなかった
1610年代 信繁は手紙で、急に年をとって歯も抜け、ひげも白くなったと書いている
1614年10月 豊臣家の誘いを受け、九度山を抜け出して大坂城に入る
1615年5月 大坂夏の陣で討死する

九度山での暮らしは、決して楽ではありませんでした。生活のお金は、兄の信之や国もとの家来からの仕送りにたよっていました。信繁が真田家の家臣に、壺に詰めた焼酎を送ってほしいと頼んだ手紙も残っていて、さびしい山の暮らしがしのばれます。

父の昌幸は、赦されて故郷の上田に帰る日を待ち続けましたが、その願いはかなわないまま、九度山で亡くなりました。信繁にとっても、九度山で終わる人生がすぐそこに見えていたはずです。

真田昌幸
真田信之
豊臣秀頼

ですが、もし信繁が九度山を出なかったら

もし豊臣家の使いが来たとき、信繁が首を横にふっていたら。兄の信之に迷惑をかけたくない、家族と静かに暮らしたい。そう考えて、大坂の誘いを断っていたとします。

九度山の屋敷で大坂からの使者の誘いを断る真田信繁
大坂からの誘いを断る信繁(イメージ)

こうなったかもしれない

1. 冬の陣に「真田丸」はない

信繁がいなければ、大坂城の南に真田丸は築かれません。大坂城は南側の守りが弱いと言われ、信繁はそこをおぎなうために出城をつくりました。真田丸がなければ、徳川方は南からもっと楽に城へ迫れたでしょう。

とはいえ、家康はもともと力攻めをするつもりはなく、和睦で決着をつけようとしていました。真田丸がなくても、大筒の砲撃で城内をおびえさせ、和睦に持ちこむ流れは変わらなかったと思います。

2. 夏の陣の結末も変わらない

和睦で堀が埋められ、夏の陣で豊臣家が滅びる。この流れも同じです。大坂城には、後藤又兵衛や毛利勝永、長宗我部盛親など、名の知れた武将がほかにもいました。信繁ひとりがいなくても、豊臣方の戦いぶりが大きく変わることはありません。

ただ、5月7日に家康の本陣が崩れるほどの突撃は、なかったかもしれません。家康は、あの日の大混乱を知らないまま、勝ち戦を終えたことになります。

3. 兄・信之は、肩の荷を一つ下ろせる

史実の信之は、徳川方として大坂の陣に息子たちを出陣させながら、敵方には弟の信繁がいるという、つらい立場にありました。弟が大坂に入らなければ、その心配はいりません。

そして、大坂に味方しなかったことは、信繁にとって大きな手がらになります。「豊臣家に誘われても、徳川にそむかなかった」。これは、信之が弟の赦しを願い出るときの、何よりの材料になったはずです。

4. 赦されて、兄のもとへ帰る

父の昌幸は赦されないまま亡くなりました。でも豊臣家が滅び、徳川の世が固まったあとなら、信繁を赦しても、もう危うさはありません。信之の願いが聞き入れられ、信繁は九度山を出て、兄が治める信濃へ帰れたかもしれません。

信之はその後、上田から松代へ移り、90歳をこえるまで生きました。兄のそばで、信繁が真田家の相談役として静かに年を重ねる。そんな晩年もありえたと思います。

5. 大助も生きのびる

史実の大助は、父とともに大坂城に入り、まだ10代のうちに秀頼に殉じて亡くなりました。信繁が九度山を出なければ、大助も死ぬ必要はありません。真田家の分家として、信之の家を支える立場になっていたかもしれません。

6. ただし、「真田幸村」はいなかった

そのかわり、失われるものがあります。「幸村」という名前は、江戸時代の軍記物などで広まったものです。大坂の陣で家康を追いつめた信繁の姿が、人々の心に強く残ったからこそ、「真田幸村」という英雄が生まれ、のちに真田十勇士の物語まで生まれました。

九度山を出なかった信繁は、ふつうの真田家の一人として歴史に名を残すだけだったでしょう。『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』のようなドラマも、きっと生まれなかったはずです。

まとめ

  • 信繁がいなくても、大坂の陣の結末は変わらない
  • 真田丸はなく、5月7日に家康の本陣が崩れることもなかった
  • 大坂に味方しなかったことで、信繁は赦される道が開ける
  • 兄の信之のもとで晩年を過ごし、息子の大助も生きのびる
  • そのかわり、「日本一の兵・真田幸村」の伝説は生まれなかった

筆者の感想

上田城跡の東虎口櫓門
上田城跡の青年真田幸村公の像
上田城に残る西櫓
上田城跡の真田三代の記念撮影パネル

上田城跡(長野県上田市・筆者撮影)

上田城跡には、若き日の幸村の像が立っています。父の昌幸とともに、この城で徳川の大軍を二度もしりぞけた、真田家のふるさとです。九度山にいた信繁も、きっとこの城に帰る日を夢見ていたのだと思います。

もし九度山を出なければ、信繁はふるさとに帰れたかもしれません。でも信繁は、帰ることよりも、自分の力を天下に示すことを選びました。40代も後半、歯が抜け、ひげが白くなったと嘆いていた男が、最後にもう一度だけ戦場に立った。その選択があったからこそ、400年たった今も、私たちは真田幸村の物語を楽しんでいられるのだと思います。

あなたが信繁だったら、九度山を出て大坂へ向かいますか?

よくある質問

九度山はどこにあるの?

今の和歌山県九度山町で、高野山のふもとにあります。真田父子の屋敷跡と伝わる場所には善名称院(真田庵)というお寺が建ち、真田家ゆかりの地として知られています。

信繁はなぜ九度山に流されたの?

関ヶ原の戦いのとき、父の昌幸とともに西軍について上田城で徳川秀忠の大軍を足止めしたためです。本当なら死罪のところを、東軍についた兄・信之の命ごいで、九度山へ流されることになりました。

信繁はどうやって九度山を抜け出したの?

1614年10月、見張りの目をくぐって九度山を抜け出したと伝わります。村の人たちを宴でもてなして酔わせ、そのすきに出ていったという言い伝えもあります。

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