もし大坂城の浪人衆が一つにまとまっていたら?真田・後藤・毛利・長宗我部・明石が力を合わせても、決めるのは城の主だった

もし浪人衆がまとまっていたら

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第3話で、幸村(信繁)たちが目指す大坂城では、淀殿らが徳川との戦の準備を進めていました。史実の大坂城にも、全国から10万をこえる浪人が集まります。なかでも真田信繁、後藤又兵衛、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登の5人は、のちに「五人衆」と呼ばれる大坂方の主力でした。

ところが大坂方は、冬の陣でも夏の陣でも、最後まで一つの指揮のもとでまとまることができませんでした。作戦を決めるのは豊臣家の重臣たちで、浪人たちの意見はなかなか通らず、戦場では別々に戦ってしまう場面が何度もありました。

では、もし5人が一つの指揮のもとでまとまっていたら? 先に私の答えを書きます。冬の陣はもっと長く持ちこたえ、夏の陣でも徳川方にもっと大きな損害を出せたと思います。それでも、大坂方を勝たせることはできませんでした。戦をどう始め、どう終わらせるかを最後に決めるのは、秀頼と淀殿、そして大野治長たち城の上層部だったからです。

淀殿

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目次

通説・史実:「五人衆」はどんな武将たちだったのか

武将 大坂城に入る前 大坂の陣での働き
真田信繁 真田昌幸の次男。関ヶ原のあと九度山に蟄居 冬の陣で真田丸を築いて撃退。夏の陣で家康の本陣に迫り討死
後藤又兵衛 黒田家の重臣。主君と対立して浪人に 冬の陣で今福の戦いなどに加わる。夏の陣の道明寺で討死
毛利勝永 豊前の大名の子。関ヶ原で西軍につき領地を失う 夏の陣の天王寺口で徳川方の将を次々に破り、本陣に迫る
長宗我部盛親 土佐の大名。関ヶ原のあと領地を失い浪人に 夏の陣の八尾で藤堂高虎の軍に大きな損害を与えるが、兵を引く
明石全登 宇喜多家の重臣。キリシタンとしても知られる 夏の陣で、家康の本陣の背後に回る役目を任される

5人はみな、関ヶ原で敗れた側の大名や家臣、あるいは主家を離れた者たちでした。豊臣家に代々仕えてきた家臣ではなく、戦のために集められた浪人です。一人ひとりは歴戦の武将でしたが、互いの上下関係は決まっていませんでした。

大坂方の作戦を決めたのは、淀殿の信頼があつい大野治長ら豊臣家の重臣たちです。冬の陣の前には、信繁や又兵衛が城の外へ打って出る策を出したものの退けられ、籠城に決まったと伝わります。夏の陣では、5月6日に道明寺と八尾・若江の二か所に兵を分けて戦い、どちらでも負けました。

真田信繁
後藤又兵衛
長宗我部盛親
明石全登
豊臣秀頼
大野治長

ですが、もし浪人衆が一つにまとまっていたら

もし大坂方が、はじめから総大将を一人決め、5人がその指揮のもとで一つの作戦に沿って動いていたら。歴戦の5人の力を、ばらばらではなくまとめて使えていたら、大坂の陣はどう変わったのかを考えます。

こうなったかもしれない

1. 総大将を一人決める

いちばん大事なのは、誰が指揮をとるかです。いちばん強い形は、秀頼が自ら総大将として城を出ることでした。豊臣家の当主が旗を立てれば、浪人たちは一つにまとまり、徳川方についた豊臣恩顧の大名たちの心もゆれます。

秀頼が城を出られないなら、信繁のような実戦の経験が豊かな者に、戦場の指揮をまかせるしかありません。ただ、浪人の一人に全軍をまかせることを、淀殿や大野治長が受け入れたかどうか。そこがいちばんの壁でした。

2. 冬の陣は、もっと長く持ちこたえる

史実の冬の陣でも、真田丸の前で徳川方は大きな損害を出しました。5人がまとまっていれば、真田丸のような出城を城のまわりにいくつも築き、それぞれに歴戦の将を置くことができたでしょう。徳川方は、どこから攻めても大きな損害を出すことになります。

冬の寒さの中で大軍を養い続けるのは、徳川にとっても大きな負担でした。冬の陣が長引けば、徳川方の大名たちの中に、早く国へ帰りたいという声も出てきたはずです。

3. 和睦で、堀を埋めさせない

史実の冬の陣は、家康が大筒で本丸を撃ち、城内をおびえさせて和睦に持ちこみました。そして和睦のあと、外の堀だけでなく内側の堀まで埋められ、大坂城は守れない城になってしまいます。

5人の声がまとまって届いていれば、「堀を埋めさせてはならない」と強く言えたはずです。和睦がどれほど大きな分かれ道だったかは、出撃策が採用されていたらの記事でも考えています。

4. 5月6日、兵を分けずに一か所でたたく

夏の陣の5月6日、大坂方は南の道明寺と北の八尾・若江の二か所に兵を分けました。道明寺では又兵衛が一人で先に戦って討死し、八尾・若江では木村重成が討死します。二か所に分けたために、どちらでも数で負けてしまったのです。

一つの指揮のもとでまとまっていれば、兵を一か所に集め、狭い道を抜けてくる徳川方を出口でたたくことができました。道明寺で又兵衛と信繁がそろっていたらどうなったかは、もし後藤又兵衛と真田幸村が道明寺でそろっていたら?の記事でくわしく考えています。

5. 5月7日、作戦どおりに動く

最後の決戦となった5月7日、大坂方には作戦がありました。信繁と勝永が天王寺口で徳川方を引きつけ、そのあいだに明石全登が回りこんで家康の本陣の背後を突く。そして秀頼が城を出て、豊臣の旗を立てる、というものです。

ところが、予定より早く鉄砲の撃ち合いが始まってしまい、作戦どおりに動けないまま戦いが始まったと伝わります。秀頼も城を出ませんでした。一つの指揮のもとで各隊が合図を守り、秀頼が出馬していれば、明石の回りこみは家康の本陣に届いたかもしれません。

天王寺・岡山の戦いの大坂方の作戦のイメージ図
5月7日の大坂方の作戦(イメージ図)

6. それでも、決めるのは城の主

それでも私は、大坂方は勝てなかったと思います。理由は三つあります。

一つは兵の数です。大坂方の約10万に対し、徳川方は全国の大名を動かせました。二つめは、豊臣恩顧の大名たちが、結局は一人も大坂方につかなかったことです。どれだけ大坂方が善戦しても、徳川の天下をひっくり返すほどの寝返りは起きませんでした。

そして三つめが、いちばん大きな理由です。戦を始めるか、和睦するか、秀頼が城を出るか。その最後の判断をするのは、浪人ではなく秀頼と淀殿、大野治長たちでした。5人がどれだけまとまっても、城の主が決めなければ、大坂方の戦い方は変わりません。豊臣家を救うには、浪人をまとめることより先に、城の主が腹を決めることが必要だったのです。

まとめ

  • 大坂城には真田・後藤・毛利・長宗我部・明石の「五人衆」が入ったが、一つの指揮のもとでまとまれなかった
  • まとまっていれば、冬の陣は出城を増やして長く持ちこたえ、和睦で堀を埋めさせないよう強く言えた
  • 5月6日は兵を分けずに一か所でたたき、5月7日は明石の回りこみと秀頼の出馬を作戦どおりに進められた
  • それでも兵の数で劣り、豊臣恩顧の大名も寝返らなかった
  • 最後に決めるのは秀頼と淀殿、大野治長たちで、城の主が腹を決めなければ大坂方は勝てなかった

筆者の感想

大阪城・豊國神社(大阪市中央区)(筆者撮影/日本の歴史旅ガイドより)

大阪城の石垣の前に立つと、その大きさに圧倒されます。これほどの城と、全国から集まった歴戦の武将たちがいながら、大坂方はなぜまとまれなかったのか。いつもそこが不思議でした。

5人はそれぞれ、関ヶ原で失ったものを取り戻すため、あるいは自分の名を残すために大坂城に入りました。目指すものが少しずつちがう5人を一つにまとめられたのは、豊臣家の当主である秀頼だけだったと思います。ドラマの幸村たちが大坂城に入ったとき、淀殿や秀頼とどう向き合うのか。そこにも注目したいところです。

あなたは、五人衆の中で誰が総大将にふさわしかったと思いますか?

よくある質問

大坂の陣の「五人衆」とは?

大坂の陣で豊臣方の主力となった浪人の武将、真田信繁・後藤又兵衛・毛利勝永・長宗我部盛親・明石全登の5人を指す呼び名です。のちの時代に広まった呼び方で、当時の正式な役職ではありません。

大坂方の総大将は誰だったの?

名目上は豊臣秀頼ですが、秀頼は戦場に出ませんでした。作戦を決めたのは、大野治長ら豊臣家の重臣たちです。

明石全登とはどんな人?

宇喜多秀家の重臣で、キリシタンとしても知られる武将です。関ヶ原のあと浪人となり、大坂の陣では豊臣方として戦いました。夏の陣のあとの行方ははっきりしていません。

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