もし秀次が山中城を落とせなかったら?小田原攻めは変わらず、変わったのは秀次の運命【豊臣兄弟!】

中村一氏

『豊臣兄弟!』の最終回で描かれる小田原攻め。その最初の大きな戦いが、箱根の山中城の戦いでした。総大将をつとめたのは、秀吉の甥で、ドラマでも存在感を増してきた秀次です。

史実の山中城は、わずか半日で落ちました。この手柄で秀次は評価を高め、翌年には関白になります。もし秀次が山中城を落とせず、箱根で足止めされていたら、小田原攻めと秀次の運命はどうなっていたのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

豊臣秀次
山中城攻めの総大将をつとめた秀次。このとき23歳だった(イメージ)
目次

先に結論:小田原攻めの結果は同じ。変わるのは秀次の運命

先に私の答えを書いておきます。山中城で足止めされても、豊臣軍は数の力で箱根をこえ、北条家は降伏したと思います。小田原攻めの結果そのものは変わりません。

変わるのは秀次の運命です。総大将として失敗すれば、秀次は秀吉の跡継ぎにふさわしいかを疑われます。1591年の関白就任は見送られ、別の人物が跡継ぎ候補になったかもしれません。皮肉なことに、関白にならなければ、1595年の秀次事件で命を落とすこともなかった可能性があります。

史実:山中城の戦い(1590年3月29日)

ことがら 内容
場所 伊豆と相模の境、箱根の西の入口(いまの静岡県三島市)
豊臣方 総大将・豊臣秀次。中村一氏・堀秀政・一柳直末・山内一豊らが従う。約7万
北条方 城将・松田康長、援軍の北条氏勝ら。約4千
結果 半日ほどで落城。松田康長は討ち死に、北条氏勝は玉縄城へ逃れる
豊臣方の損害 一柳直末が鉄砲に当たって戦死するなど、損害も大きかった

山中城は、北条家が豊臣軍に備えて大きく作りかえた山城でした。堀の底を格子のように仕切った「障子堀」が有名で、いまも城跡でその形を見ることができます。けれど、完成しきらないうちに戦いが始まり、豊臣の大軍を止めることはできませんでした。

山中城の戦いの配置イメージ
秀次の本隊は約7万。わずか4千の北条方は、半日で城を落とされた(配置イメージ)
一柳直末
山中城攻めで鉄砲に当たり戦死した一柳直末。秀吉が深く悲しんだと伝わる(イメージ)

山中城は秀次にとって何だったのか

秀次は、1584年の小牧・長久手の戦いで、徳川軍に大敗しています。このとき秀吉からきびしく叱られました。その後、四国攻めで手柄を立てて名誉を取りもどしましたが、山中城は、秀次が総大将として全軍をひきいる大きな試験でした。

山中城を半日で落としたことで、秀次は「豊臣家をになえる武将」という評価を得ます。小田原攻めのあと、秀次は尾張などを与えられ、1591年12月には秀吉から関白をゆずられました。

山中城が秀次の運命を分けた比較図
山中城を落とせなかったら、秀次の跡継ぎの座はゆらいでいた(比較図)

もしも:秀次が山中城を落とせなかったら

第1段階:箱根で足止め(1590年3〜4月)

山中城が何日ももちこたえれば、豊臣軍は箱根の山の中で足止めされます。細い山道に大軍がつまり、兵糧を運ぶのも大変です。北条方は、そのあいだに小田原の守りをさらに固められます。

ただ、豊臣軍には徳川家康の軍勢など、別の道から箱根をこえる部隊もありました。山中城を落とせなくても、別の道から小田原に向かうことはできます。小田原の包囲は、半月から1か月ほど遅れたと思います。

徳川家康
別の道から箱根をこえた家康。山中城が落ちなくても、豊臣軍の進軍は止まらない(イメージ)

第2段階:秀吉が大将を交代させる

秀吉は、思いどおりにいかない戦いに厳しい人です。山中城攻めが長引けば、秀次を後ろに下げ、中村一氏や堀秀政、あるいは家康に攻めを任せたかもしれません。総大将を外された秀次は、小牧・長久手に続いて二度目の失敗をしたことになります。

第3段階:跡継ぎの座がゆらぐ(1591年)

1591年8月、秀吉の実子・鶴松が亡くなります。史実では、ここで秀次が関白と跡継ぎの座を受けつぎました。けれど、山中城で失敗した秀次に、秀吉はすぐに関白をゆずったでしょうか。秀吉には、ほかにも養子や甥がいました。跡継ぎを決めるのを先にのばしたかもしれません。

その先:関白にならなければ、秀次は生き残れたか

史実の秀次は、関白になったからこそ、秀頼が生まれたあとに邪魔な存在となり、1595年に切腹させられました。関白にならず、一大名として尾張などを治めていれば、秀頼が生まれても秀吉に疑われる理由はありません。

山中城での失敗は、秀次にとって不名誉です。けれど、その不名誉が、かえって秀次と妻子の命を救ったかもしれない。歴史の分かれ道は、どこにあるかわかりません。

まとめ:秀次が山中城を落とせなかったら

問い 答え(予想)
小田原攻めは 包囲が遅れるが、結果は同じ。北条家は降伏する
秀次の評価は 総大将として二度目の失敗。跡継ぎにふさわしいか疑われる
関白は 1591年の就任が見送られた可能性
秀次事件は 関白でなければ、起きなかったかもしれない

筆者の感想

山中城跡を歩くと、障子堀の見事さに驚かされます。北条家がこの城に込めた思いを考えると、半日で落ちたことはとても残念だったでしょう。一方で、勝った秀次にとっても、この戦いは栄光と悲劇の始まりでした。

関白という地位は、秀次にとって本当に幸せだったのか。そんなことを考えさせられます。あなたは、秀次が山中城で失敗していたら、生き残れたと思いますか?

よくある質問

山中城はどこにあるの?

いまの静岡県三島市にあり、箱根の西の入口をおさえる山城です。山中城跡として整備され、障子堀などの遺構を見ることができます。日本100名城の一つです。

山中城の戦いで豊臣方の損害は?

半日で城を落としましたが、一柳直末が鉄砲に当たって戦死するなど、豊臣方にも多くの死傷者が出ました。

秀次はいつ関白になったの?

1591年12月です。秀吉の実子・鶴松が8月に亡くなったあと、秀吉から関白をゆずられ、豊臣家の跡継ぎとなりました。

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