もし伊達政宗が秀吉と戦っていたら?北条と組んだ「江戸川の合戦」と和睦を予想

もし伊達政宗が秀吉と戦っていたら:江戸川の合戦(イメージ)

もし伊達政宗があと10年早く生まれていたら、1587年の惣無事令のとき、政宗は陸奥・出羽をのみこむ約150万石の「奥羽の王」になっていたのではないか。前回の記事では、そう予想しました。

今回はその続きです。奥羽の王となった政宗が、秀吉に従わず、北条家と手を結んで戦っていたら、どうなっていたでしょうか。

目次

先に結論:江戸川で秀吉を食い止め、和睦で「関東・奥羽」対「豊臣」の時代へ

先に私の答えを書いておきます。政宗が北条と組んで戦えば、まず奥羽をすべて従えたうえで関東へ攻め下り、1590年の小田原攻めのさなか、江戸川をはさんだ合戦で秀吉軍を食い止め、最後は秀吉に和睦をのませることができたのではないでしょうか。

その結果、東日本は伊達と北条が、西日本は豊臣がおさえる形になり、「関東・奥羽」対「豊臣」のにらみ合いが5年から7年ほど続きます。そして秀吉は、天下統一を果たせないまま病で亡くなる。今回は、そんな流れを予想してみます。ただし、ここから先はかなり政宗びいきの予想です。史実とくらべて無理のあるところは、そのつど書いておきます。

江戸川をはさんでにらみ合う伊達軍と豊臣軍
江戸川をはさんでにらみ合う両軍。左が秀吉の豊臣軍、右が政宗の伊達軍(イメージ)

第1段階:北条と手を結び、秀吉の小田原攻めを待つ(1590年)

史実でも、政宗の伊達家と北条家は、もともと手を結んでいました。どちらも佐竹家と敵対していたからです。秀吉が1590年に小田原の北条家を攻めたとき、政宗は最後まで迷ったすえに、小田原に参陣して秀吉に従いました。

けれど、10年早く生まれ、奥羽をほぼ手に入れた政宗なら、話はちがいます。北条が小田原城にこもって豊臣の大軍を引きつけているあいだに、政宗は南へ攻め下る。北条が囲まれたすきをねらうのです。

第2段階:まず奥羽を平定する。最上と安東が降伏

政宗が南へ大軍を出すには、まず背中を安全にしておかなければなりません。そこで政宗は、南へ下る前に、まだ従っていなかった最上と安東を囲みます。

囲まれた大名 囲む大名
秋田の安東実季 北から津軽為信、東から南部の旧領の伊達勢、海から蝦夷地の蠣崎慶広
山形の最上義光 北から戸沢盛安・小野寺義道、西から伊達に寝返った庄内の大宝寺(武藤)家、東から伊達の本領

ここで大きいのが、庄内の大宝寺家の寝返りです。大宝寺家は、長く最上家と庄内を争ってきた家でした。伊達につけば最上をはさみうちにできるので、このころになると伊達方につき、最上のおさえに回ったのではないでしょうか。

そして、蝦夷地の蠣崎家も伊達方についていました。蠣崎家は、もともと秋田の安東家の家臣筋でしたが、伊達につくことで安東家から抜け出そうとしたのです。史実でも蠣崎慶広は、のちに秀吉に直接仕えて安東家から独立しています。

最上と安東の包囲図
最上と安東の包囲。安東は津軽・南部と海からの蠣崎に、最上は戸沢・小野寺・大宝寺と伊達本領に囲まれる(イメージ)

四方を囲まれた最上義光は、ついに降伏します。陸からは津軽と南部、海からは蠣崎に囲まれた安東家も、同じように降伏します。政宗が奥羽をすべて従えた、東北制覇の瞬間でした。

奥羽を平定した政宗は、降伏した二家の領地を減らします。最上義光は山形城を取り上げられ、南の上山城へ移されます。米沢の伊達本拠から目の届く場所です。安東実季は檜山城だけを残され、日本海の交易の要だった秋田の湊城は伊達家のものになります。そして奥羽の要の城には、信頼する一族や重臣を置いていきます。

城 城主 えらんだ理由
米沢城(本拠) 伊達政宗 伊達家代々の本拠
会津・黒川城 片倉小十郎景綱 政宗の右腕に、旧蘆名領の要をまかせる
福島・大森城 伊達成実 史実でも1575年から大森城主だった
白石城 白石宗実 白石氏はもともと白石の領主の家
仙台・千代城 国分盛重 政宗の叔父で、国分家として仙台一帯をおさめた
名生城(大崎旧領) 留守政景 政宗の叔父。史実でも大崎・葛西の旧領の近くを領した
山形城 原田宗時 伊達家きっての猛将に、最上家をすぐそばで見張らせる
秋田・湊城 鬼庭(茂庭)綱元 伊達家の財政・外交をになった人に、日本海交易の湊をまかせる

なお、のちの秋田の中心となる久保田城は、1604年に佐竹家が築いた城なので、このころはまだありません。当時の秋田の要は、安東家が港をおさえていた湊城(いまの秋田市土崎)でした。

1590年、奥羽平定後の伊達領と城主の配置図
1590年、奥羽平定後の伊達領。黒が伊達家の城と城主、青が伊達に従う大名、灰色が領地を減らされた最上・安東(イメージ)

これで政宗は、北のおさえにほとんど兵を残さずにすみ、奥羽のほぼすべての兵を南へ向けられるようになります。とはいえ、目安として1万石あたり250人ほどとすると、奥羽をすべて合わせても、動かせる兵はせいぜい5万から6万ほどです。そこで政宗は、南へ向ける兵を、本隊3万5千と伊達成実の別働隊1万5千、あわせて5万ほどにしぼります。それでも、奥羽のほぼすべてを出しきる、ぎりぎりの数です。

第3段階:白河・岩城が寝返り、下野の大名も伊達方へ。宇都宮は攻めて降伏させる

南の佐竹へは、相馬と石川の軍勢を向かわせます。すると、その途中で、佐竹方だった白河の白河義親と、浜通りの岩城常隆が政宗に寝返ります。どちらも佐竹家とのつながりが深い家ですが、北から押しよせる伊達の大軍を前に、生きのこる道をえらんだのです。

これを見て、関東の北の入口、下野の大名たちも動きます。皆川広照、壬生義雄、烏山の那須資晴、大関高増、そして小山家。皆川と壬生は、史実でも北条方として小田原に兵を出していた家です。那須資晴も小田原に参陣せず、のちに秀吉に罰せられています。北条と佐竹のあいだで揺れてきた下野の大名たちは、伊達の大軍が近くまで来れば、伊達方へ流れたでしょう。

ただし、宇都宮国綱だけはちがいます。宇都宮家は、長く北条と戦ってきた筋金入りの反北条で、佐竹とも固く結んでいました。北条と組む伊達には、そう簡単には従いません。そこで政宗は宇都宮城を攻め、力ずくで降伏させます。降伏した宇都宮国綱は、宇都宮城を取り上げられ、重臣の芳賀氏の城だった真岡城へ移されます。そして関東の入口となる宇都宮城には、政宗の弟・伊達小次郎(政道)が入ります。小次郎は、母の義姫がかわいがった弟で、史実では1590年、小田原へ向かう前の政宗に命を奪われたとされる人物です。けれど、政宗が小田原に参陣しないこの予想では、小次郎は生き残り、伊達一門として関東の入口をまかされたのではないでしょうか。こうして佐竹家は、南の豊臣と北の伊達にはさまれ、身動きが取れなくなります。

第4段階:日本海の水軍で北陸をけん制し、伊達成実の1万5千で上野を、政宗本隊で関東の城を救う

史実の小田原攻めでは、北陸から上杉景勝・前田利家の軍が上野に攻めこみ、北条方の城を次々に落としていきました。政宗は、この北からの豊臣軍をまず止めにかかります。

使うのは、日本海の水軍です。伊達方についた蝦夷地の蠣崎家、降伏したばかりの秋田の安東家、そして庄内の大宝寺家。安東家は、日本海の交易で栄えた「海の大名」で、大宝寺家も酒田の湊をおさえています。この三家の水軍が日本海を南へ下り、越後から加賀・越前の沖にあらわれて、北陸の湊をおびやかします。さらに、若狭の沖まで進んで京をうかがう姿勢を見せたのではないでしょうか。

小田原攻めに兵を出して手うすになっていた北陸は、これにあわてます。本国を守るため、上杉と前田は上野から兵を引かざるをえず、小田原の囲みにも加われなくなります。

そこへ政宗は、一族の猛将・伊達成実に1万5千の兵をあずけ、上野へ向かわせます。上杉・前田の軍が引いたあとの上野で、北条方の城を取り戻していきます。

そして政宗の本隊は、下野の大名たちを吸収して3万5千の大軍にふくれあがり、関東平野へ攻め下ります。結城城を攻め落とし、豊臣軍に囲まれていた関宿城や忍城など、北条方の城を次々に救い出していきます。

第5段階:秀吉、秀次と家康に小田原をまかせて北へ

北から伊達の大軍が迫ると聞いた秀吉は、小田原の囲みを、おいの羽柴秀次と徳川家康にまかせます。総大将は秀次、副将は家康です。そして自分は6万5千の軍勢をひきいて北へ向かい、政宗を迎え撃とうとします。

本当なら、ここ一番でたよりたいのは弟の秀長だったはずです。けれど秀長は、1590年にはすでに病がおもく、史実でも小田原攻めには加わっていません。かわりに、跡継ぎ候補のおいの秀次を総大将にすえます。ただ、秀次はまだ20代前半の若者です。秀吉の古くからの仲間だった蜂須賀小六(正勝)は1586年に亡くなっているので、そばには、墨俣のころから秀吉に仕えてきた前野長康を後見役としてつけたかもしれません。それでも、小田原の囲みを実際に動かせるのは、北条家と縁が深く、関東の事情にもくわしい家康でした。

とはいえ、秀吉は家康を心の底から信じていたわけではなかったでしょう。家康の娘は北条氏直に嫁いでおり、家康は北条家の親せきでもあります。だからこそ秀吉は、総大将には身内の秀次をすえ、家康はあくまで副将にとどめた。家康を使いながらも、見張りもかねる。秀吉らしい人の使い方ではないでしょうか。

1590年、伊達の南下の戦況図
1590年、伊達の南下。政宗本隊は下野から関東平野へ、成実は上野へ、水軍は江戸湾へ。江戸川で秀吉本隊とぶつかる(イメージ)

こうして、伊達軍と豊臣軍は、江戸川(当時の太日川)をはさんでにらみ合うことになります。

第6段階:伊達水軍と里見水軍が、豊臣水軍をけん制する

政宗は、陸の戦いだけでなく、海の大切さにも気づいていました。史実でも政宗は、のちに西洋式の帆船を造らせ、家臣の支倉常長をヨーロッパへ送り出しています。10年早い政宗なら、早くから仙台湾で船を集め、水軍を整えていたかもしれません。

ただ、伊達家にはもともと水軍の伝統がほとんどありません。豊臣方には、九鬼嘉隆や長宗我部元親など、本職の水軍がそろっていました。正面から海で戦って勝てる相手ではありません。そこで伊達水軍は、兵や兵糧を運びながら太平洋側を南へ下り、豊臣水軍の動きをけん制する役目にとどめます。

ちょうどそのころ、房総の里見家は、秀吉から「惣無事令を破った罪で上総を取り上げる」と言いわたされていました。史実でも里見家は、小田原攻めのあとに上総を取り上げられています。これに反発した里見家は、伊達方に寝返ります。房総の水軍をもつ里見家が加わったことで、江戸湾に豊臣水軍がうかつに入りこめなくなり、小田原への海からの補給にも、少しずつ圧力がかかりはじめます。

決戦:江戸川の合戦

江戸川をはさんだにらみ合いが続くなか、先にしかけたのは政宗でした。秀吉は、野戦で無理をせず、囲みと調略でじわじわ勝つ人です。小田原が落ちるまで、江戸川で待っていればよかったのです。だからこそ政宗は、時間がたつほど不利になると考え、自分から動きます。

伊達軍の先陣は、ここまで政宗に従ってきた九戸政実です。史実では、豊臣の大軍を相手に九戸城にこもって最後まで戦いぬいた、奥州きっての猛将です。九戸勢は正面から江戸川を渡り、豊臣軍に攻めかかります。豊臣軍の目は、この九戸勢にくぎづけになります。

続く第二陣は、政宗の右腕・片倉小十郎景綱と、伊達自慢の騎馬鉄砲隊です。馬に乗ったまま鉄砲を撃つ騎馬鉄砲隊は、史実でものちの大坂の陣で活躍したとされる、伊達家の切り札でした。

そして前の晩、江戸川の下流では、原田宗時、留守政景、白石宗実の軍勢が、夜の闇にまぎれてひそかに川を渡っていました。正面の九戸勢に豊臣軍が引きつけられたところで、この別働隊が豊臣軍の横腹をつきます。前と横から攻められた豊臣軍は大きくくずれ、江戸川の岸から兵を引きます。ただし、これはあくまで一つの戦場での勝ちにすぎません。豊臣軍は数でまさり、秀吉はすぐに陣を立て直します。伊達軍にも、秀吉の本陣まで攻めこむ力は残っていませんでした。

江戸川の合戦の布陣図
江戸川の合戦。①九戸勢が正面から川を渡って豊臣軍を引きつけ、②夜陰にまぎれて下流を渡った別働隊が横腹をつく(イメージ)
伊達軍 武将 役目
先陣 九戸政実 正面から江戸川を渡って攻めかかり、豊臣軍を引きつける
第二陣 片倉小十郎景綱、騎馬鉄砲隊 先陣に続いて川を渡り、豊臣軍をくずす
別働隊 原田宗時、留守政景、白石宗実 前の晩、下流を夜陰にまぎれて渡り、豊臣軍の横腹をつく
本陣 伊達政宗 全軍をひきいる

にらみ合い、そして和睦:しんがりは徳川家康

江戸川の合戦のあと、両軍は川をはさんで、ふたたびにらみ合います。秀吉は、正面から伊達軍をくだすのはむずかしいと考えるようになります。一方の政宗も、数でまさる豊臣軍を打ち破れるとは思っていません。小田原では北条が囲まれたまま、長い兵糧攻めで弱っていきます。江戸湾では伊達・里見の水軍が、日本海では蠣崎・安東・大宝寺の水軍が、豊臣方をけん制し続けます。

このにらみ合いを終わらせたのは、和睦でした。秀吉は小牧・長久手の戦いのあとの家康と同じように、戦いで決着をつけるのではなく、話し合いで政宗と北条をおさめる道をえらびます。和睦の中身は、次のようなものだったのではないでしょうか。

家 和睦の中身(予想)
伊達政宗 奥羽の支配を認められる。形の上では秀吉を立てるが、京へは上らない
北条氏政・氏直 小田原の囲みを解かれ、関東の領地をほぼ残される
豊臣秀吉 関東・奥羽から兵を引く。そのかわり、西日本の天下人としての立場は守る

和睦が決まると、豊臣軍は小田原の囲みを解き、西へ兵を引きます。このとき、豊臣軍のしんがり(いちばん後ろで敵の追撃をふせぐ役目)をつとめたのが、小田原の囲みの副将だった徳川家康でした。和睦のあととはいえ、どこで約束がやぶられるかわからないのが戦国の世です。かつて小牧・長久手の戦いで秀吉軍を打ち破った家康が後ろを固めているため、伊達軍もうかつには手を出せません。長い兵糧攻めで弱りきっていた北条軍にも、追いかける力は残っていませんでした。

和睦のあとの奥羽・北関東:だれが、どの城で、何万石

和睦のあとの奥羽と北関東を、城主ごとの石高でまとめてみます。石高は、豊臣政権のもとで1598年ごろにまとめられた国ごとの石高(太閤検地の数字)をもとにした目安です。陸奥・出羽・下野をあわせると、およそ236万石。伊達家とそれに従う大名だけで、史実で関東に移った徳川家康(約250万石)に近い大きさになります。

和睦後の奥羽・北関東の石高図
和睦のあとの奥羽・北関東。黒が伊達家の城主、青が伊達に従う大名、白が減らされた最上・安東、緑が豊臣方の佐竹(イメージ)
区分 人物 城 石高(目安)
伊達家 伊達政宗 米沢城(本拠) 直轄 約100万石
伊達家 片倉小十郎景綱 会津・黒川城 約8万石
伊達家 伊達成実 福島・大森城 約5万石
伊達家 留守政景 名生城 約4万石
伊達家 原田宗時 山形城 約4万石
伊達家 白石宗実 白石城 約3万石
伊達家 国分盛重 仙台・千代城 約3万石
伊達家 鬼庭綱元 秋田・湊城 約3万石
伊達家 伊達小次郎(政道) 下野・宇都宮城 約7万石
伊達に従う大名 岩城常隆 磐城・大館城 約12万石
伊達に従う大名 九戸政実 南部旧領・九戸城 約8万石
伊達に従う大名 皆川・壬生・小山・大関 下野 あわせて約8万石
伊達に従う大名 大宝寺義氏 庄内・尾浦城 約6万石
伊達に従う大名 相馬義胤 浜通り・小高城 約5万石
伊達に従う大名 那須資晴 下野・烏山城 約5万石
伊達に従う大名 津軽為信 津軽・大浦城 約4万石
伊達に従う大名 戸沢盛安 角館城 約4万石
伊達に従う大名 田村家 三春城 約4万石
伊達に従う大名 小野寺義道 横手城 約3万石
伊達に従う大名 白河義親 白河城 約3万石
伊達に従う大名 石川家 石川城 約2万石
伊達に従う大名 蠣崎慶広 蝦夷地南部 石高なし(交易)
減らされた大名 最上義光 上山城 約3万石
減らされた大名 安東実季 檜山城 約3万石
減らされた大名 宇都宮国綱 下野・真岡城(攻められて降伏) 約3万石
豊臣方 佐竹義重 常陸・太田城 約54万石(孤立)
合計 伊達家と、伊達に従う大名 約236万石

伊達家の一族や重臣には、それぞれ数万石ずつをあたえ、残りの約100万石は政宗がじかにおさめます。大きな領地を家臣にあたえすぎず、要の城に一族や信頼する重臣を置く。政宗が、奥羽の王としての足もとを固めようとした形ではないでしょうか。

その後:秀吉は天下統一を果たせずに世を去る

こうして東日本は、奥羽の伊達と関東の北条が、西日本は豊臣がおさえる形になりました。和睦のあとも、「関東・奥羽」対「豊臣」の張りつめた関係は、5年から7年ほど続きます。

和睦のあとの日本:関東・奥羽対豊臣の勢力図
和睦のあとの日本。奥羽・下野の伊達、関東の北条、房総の里見が「関東・奥羽」としてまとまり、西の豊臣と向き合う(イメージ)

そして秀吉は、天下統一を果たせないまま、病で亡くなります。史実の秀吉が亡くなったのは1598年。小田原を落とし、奥州仕置で天下を統一してから8年後のことでした。けれど、政宗が10年早く生まれていたら、秀吉は最後まで、日本全国の「天下人」になりきれなかったのではないでしょうか。

では、もし政宗が戦わずに、秀吉に降伏していたら、どうなっていたのか。どこまで領地を残せたのか。その予想は、次の記事で書いてみます。

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