もし大友宗麟が道を誤らなかったら?島津と龍造寺を封じこめ、九州三国志のまま秀吉と向き合う

九州の六か国を治め、一時は九州最大の大名だった大友宗麟。ところが1578年、日向の耳川の戦いで島津に大敗すると、大友家は坂道を転げ落ちるように力を失っていきます。最後は自分から大坂城の秀吉のもとへ出向き、助けを求めるまでになりました。

では、もし宗麟がキリスト教にのめりこまず、女性問題も起こさず、家臣の声をよく聞く主君のままだったら? 大友家は島津と龍造寺を封じこめ、九州で生き残れたのでしょうか。

大友宗麟のイラスト
目次

通説・史実:耳川の大敗から転げ落ちた大友家

大友家がつまずいた流れを、まず押さえておきます。詳しい史実は日本の歴史ガイドの「大友宗麟の大坂城訪問」「大友義統(吉統)のその後」で解説しています。

年 出来事
1577年 日向の伊東義祐が島津に追われ、豊後の大友を頼って落ちのびる
1578年 宗麟がキリスト教の洗礼を受ける。同じ年、伊東氏の旧領を取り戻すため日向へ出兵し、耳川の戦いで島津に大敗。多くの重臣が討ち死にする
1581年 肥後の相良氏が島津に降る
1584年 沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津に討たれる
1585年 大友家の柱だった立花道雪が、筑後の陣中で病死
1586年 宗麟が大坂城で秀吉に救援を求める。岩屋城で高橋紹運が島津の大軍を食い止めて玉砕
1587年 秀吉の九州攻めで島津が降伏。同じ年に宗麟が亡くなる
1593年 跡を継いだ義統が、朝鮮出兵での失態を理由に改易される

耳川の戦いのとき、宗麟は前線に出ず、日向の務志賀(むしか)でキリスト教の理想の町づくりに力を注いでいたと伝わります。また、家臣の妻を奪ったという女性問題も伝わり、これが家臣の心が離れる原因になったとも言われます。日向へ攻めこむこと自体にも、重臣たちの中には反対の声がありました。

島津義久
島津義弘
龍造寺隆信

大友宗麟が本拠とした臼杵城(丹生島城)(写真:日本の歴史ガイド)

ですが、もし宗麟が道を誤らなかったら

もし宗麟がキリスト教に入信せず、女性問題も起こさず、まつりごとに真剣に向き合う主君のままだったら。家臣を思い、重臣の意見をよく聞く宗麟だったら、耳川へ向かう前から大友家の動き方はまったく違っていたはずです。

こうなったかもしれない

もしも大友宗麟が道を誤らなかったら 九州の布陣図

1. 耳川では無謀な戦いをしない

宗麟は重臣たちの意見をよく聞き、無謀な戦いはしません。それでいて、攻めるべきときには慎重かつ大胆に挑む。大軍をただ南へ送りこむのではなく、まず島津の出方を見きわめ、勝てる形をつくってから戦います。史実の耳川のように、多くの重臣を一度に失う大敗は避けられたでしょう。

2. 伊東氏を日向に戻し、東の盾にする

伊東義祐のイラスト

豊後に逃げてきた伊東氏を、大友の後ろ盾で日向に戻します。日向は島津が北へ伸びてくる東の道の入口です。もともと日向を治めていた伊東氏が戻れば、地元の武士たちもまとまりやすく、島津に対するいちばんの備えになります。

戦国時代に伊東氏の城だった宮崎城(写真:日本の歴史ガイド)

3. 肥後は立花道雪に任せ、阿蘇・相良を早くから支える

立花道雪のイラスト

肥後(熊本)は、阿蘇氏・相良氏・城氏・隈部氏など小さな国衆が乱立していて、一つずつ切り崩されやすい土地です。そこで大友家随一の名将、立花道雪に肥後を任せます。道雪の下に国衆をまとめ、とくに阿蘇氏と相良氏は、島津に攻められるよりずっと前から援助して支えます。これで、島津が北へ伸びる西の道もふさがれます。

4. 筑前は高橋紹運に任せ、龍造寺を押さえる

高橋紹運
立花宗茂

肥前の龍造寺への押さえは、筑前(福岡)で知行をたくさん与えた高橋紹運に任せます。史実の紹運は大きな領地を持っていませんでしたが、十分な兵と領地があれば、龍造寺にとってこれほど手ごわい相手はいません。道雪と紹運のあいだにある筑後は、道雪の一族の戸次氏に固めさせ、龍造寺が南へすり抜ける道もふさぎます。紹運の子で、道雪の婿養子となった立花宗茂も、若き将としてこの守りに加わります。

道雪も紹運も、大友家への忠義の厚さでは九州随一でした。史実でも、大友家が傾いていく中で、この二人だけは最後まで主家を見捨てませんでした。かなりの適材適所だと思います。

道雪・宗茂の立花山城(上)と、紹運が散った岩屋城(下)(写真:日本の歴史ガイド)

5. 縁組みで、まわりの家と血でつながる

伊東氏、阿蘇氏、相良氏とは、援助だけでなく縁組みもどんどん進めます。血でつながった家は、島津に攻められても簡単には寝返りません。大友家の盾として、最後まで踏みとどまってくれるはずです。

6. 九州三国志のまま、秀吉軍と向き合う

こうして大友家は、島津と龍造寺を封じこめます。九州は大友・島津・龍造寺の三家が並び立つ、九州三国志の形のまま続いていきます。

そこへ天下統一を進める秀吉が、九州へ大軍を向けてきます。史実の宗麟は秀吉に助けを求める側でした。でもこの世界の大友家に、秀吉の助けはいりません。九州の三家は、それぞれが一国の主として、秀吉軍と向き合うことになるのです。

大友・島津・龍造寺の三家と豊臣軍が向き合うイラスト

筆者の感想

宗麟がキリスト教にのめりこまず、女性問題もなかったら、何よりもまつりごとに関心を示し、家臣を思う主君になっていたと思います。耳川の大敗は、戦の負けである以上に、主君と家臣の心が離れていたことの表れだったのではないでしょうか。

ただ、宗麟がどれだけ手を打っても、どうにもならないこともあります。跡取りの義統です。こればかりは本人の器なので、どうしようもありません。それでも、徳川家の二代目の秀忠がどうにかなったように、先代が国を安定させ、有能な重臣をまわりに配置しておけば、義統でもどうにか領国経営はしていけたのではないかと予測します。

宗麟の本当の仕事は、自分が勝つことより、凡庸な跡取りでも回っていく家をつくることだった。道雪と紹運という、九州随一の忠臣をあれだけ抱えていたのですから、それは決してできない話ではなかったはずです。

あなたは、宗麟が道を誤らなかったら、大友家は九州で生き残れたと思いますか?

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