1595年7月、豊臣秀次は高野山で自害しました。28歳でした。わずか4年前に関白となり、秀吉の跡継ぎとして天下の政治を任されていた人物です。半月後には、京都の三条河原で秀次の妻や子ども30人あまりが処刑されました。
すべての始まりは、1593年に秀吉の実の子・秀頼が生まれたことでした。では、もし秀次が秀吉の心をくみ取り、自分から関白の位を秀頼にゆずっていたら? 豊臣家の運命はどう変わっていたのでしょうか。

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通説・史実:秀頼が生まれて2年で、秀次は消された
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1568年 | 秀吉の姉・ともの子として、尾張に生まれる |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦い。白山林で徳川方に襲われて大敗し、秀吉から厳しく叱られる |
| 1585年 | 18歳で近江に43万石(家臣の分を含む)をあたえられ、八幡山城を築く |
| 1590年 | 小田原攻めのあと、尾張と北伊勢をあたえられ、清洲城主となる |
| 1591年 | 秀吉の子・鶴松が3歳で亡くなる。12月、秀次が関白となり、聚楽第に入る |
| 1593年 | 8月、秀吉に秀頼が生まれる。10月、日本を5つに分け、4つを秀次、1つを秀頼にという話が出る |
| 1595年 | 7月、謀反の疑いをかけられて高野山へ。15日に自害。8月、妻子ら30人あまりが三条河原で処刑される |
| 1598年 | 秀吉が亡くなる。秀頼はまだ6歳 |


通説では、秀頼かわいさのあまり、秀吉が邪魔になった秀次を消したと言われます。一方で、秀吉は高野山へ行かせただけで切腹までは命じていなかった、という説もあり、研究者の間でも見方が分かれています。
筆者は、どちらも間違いなく原因だったと考えています。秀吉の心が秀頼に傾いていたのは確かです。ですが、秀次の側にも問題がありました。
秀次は若いころから、秀吉に破格の扱いを受けてきました。18歳で近江43万石、23歳で清洲城主、24歳で関白です。官位もとんとん拍子に上がりました。親族として、これ以上ないえこひいきです。
まわりには、前野長康の子・景定や、木村重茲(常陸介)といった家臣たちが取り巻いていました。秀次は彼らに持ち上げられ、少しいい気になっていたのではないでしょうか。
しかも、戦の腕は確かとは言えません。小牧・長久手の戦いでは、白山林で休んでいたところを徳川方に背後から襲われ、軍は総崩れになりました。秀次は馬を失い、命からがら逃げ帰っています。

こういう人に限って、自負は高いものです。そして受けてきたえこひいきを、当然のことと受け取ってしまいます。秀次の出世の流れは、姉妹サイトの豊臣秀次の出世の記事でくわしく書いています。
ですが、もし秀次が自ら関白を秀頼にゆずっていたら
普通なら、秀吉に実の子が生まれた時点で、自分の今後の身のふり方を考えるはずです。分別のついた大人の男なら、天下の情勢と、自分がどういう立場に置かれているかくらいは見えていたでしょう。
もし秀次本人か、まわりの取り巻きの誰かがそれに気づいていたら。秀頼が生まれてまもなく、秀次が秀吉の前に進み出て、こう申し出たとします。
- 関白の位を辞して、秀頼にゆずります
- そのかわり、秀頼の後見をさせてください
- それでもご心配なら、どこか遠くの国へ国替えしてください。ただし、秀頼に何かあったときに助けに行けるよう、せめて20万石はください
- 大事が起きたときは、自分が兵を率いて秀頼を守ります
史実の秀吉は、日本を5つに分けて4つを秀次にという案を出したり、秀次の娘と秀頼を婚約させようとしたりしていました。はじめから秀次を消すつもりだったとはかぎりません。秀次の側から先に身を引いていれば、秀吉もこの申し出を喜んで受けたはずです。
こうなったかもしれない
1. 秀次事件は起きず、三条河原の悲劇もない
秀次は自害せず、妻や子どもたちも処刑されません。秀次とともに切腹させられた前野長康や木村重茲らも生き残ります。
最上義光の娘・駒姫も助かります。駒姫は秀次の側室になるため京に着いたばかりで、まだ秀次と顔を合わせてもいなかったのに処刑されたと伝わります。娘を失った義光は豊臣家を深く恨み、関ヶ原では家康につきました。その恨みも生まれません。
2. 秀次は20万石の一門大名として残る
たとえ聚楽第を出て遠くの国へ移ったとしても、20万石あれば5000人ほどの兵を出せます。秀頼の身に何かあれば、兵を率いて駆けつけられる大名が、豊臣の一門に一人残るわけです。
3. 秀吉が亡くなったとき、豊臣家に「大人の一門」がいる
史実では、秀吉が亡くなったとき秀頼は6歳でした。秀頼を支える豊臣の一門で大人と言えるのは、まだ10代の小早川秀秋くらいです。だからこそ政治は五大老・五奉行にゆだねられ、家康が力を伸ばすすきが生まれました。
この「もしも」では、31歳の秀次がいます。元関白で、秀頼の後見役です。家康が勝手に大名どうしの縁組を進めたときも、福島正則たちと石田三成がもめたときも、豊臣家の側から「待った」をかけられる人物でした。
4. 秀次がいれば、家康に対抗できた
白山林の大敗を見れば、秀次は戦上手ではありません。それでも、家康に対抗するのに必要だったのは戦の腕ではなく、豊臣恩顧の大名たちがまとまるための「旗」でした。
史実の関ヶ原では、福島正則や加藤清正たちが、三成への反発から家康についてしまいました。秀吉の甥で秀頼の後見役である秀次がいれば、彼らが家康のもとへ走る理由はなくなります。家康も、豊臣家を相手に兵をあげる口実を見つけにくくなったでしょう。筆者は、秀次がいれば間違いなく家康に対抗できたと考えています。

5. 成人した秀頼を一族で支え、豊臣の世が続く
史実の秀頼は、大人になるにつれて分別のある立派な人物に育っていきました。子どももいて、跡継ぎも決まっていたのです。
その秀頼を、秀次や小早川秀秋、そして秀次の子どもたちが一門として支える。秀勝や秀保が早くに亡くならずにいれば、なおさらです。豊臣家は「秀吉ひとりの家」から、一族で天下を守る家に変われたはずです。
筆者が考えた豊臣家親族配置図の記事はこちらから。
まとめ
- 秀次事件は、秀頼かわいさの秀吉と、えこひいきを当然と受け取っていた秀次、どちらにも原因があった
- もし秀次が自分から関白をゆずり、後見役か20万石の一門大名として残っていたら、三条河原の悲劇は起きなかった
- 秀吉の死後も豊臣家に「大人の一門」が残り、家康に対抗できた
- 成人した秀頼と跡継ぎを一族で支え、豊臣の世は続いた
秀次に足りなかったのは、戦の腕よりも、自分の立場を見きわめて身を引く分別だったのかもしれません。
筆者の感想




秀次は、秀吉にいちばんえこひいきされた親族でした。ですが、それは秀吉にも罪があったと思います。若いうちから城も領地も官位もぽいぽいと与えれば、本人がそれを当然と思うようになっても不思議ではありません。
それでも、分別のある大人なら気づけたはずです。秀頼が生まれた時点で一歩引いていれば、豊臣の世は続き、秀次も三条河原で首をさらされることはなかった。そう思うと、残念でなりません。
秀次が最後に城主を務めた清洲城には行ったことがありますが、八幡山城や高野山など、秀次ゆかりの場所にはまだ足を運べていません。いつか秀次の足あとをたどってみたいと思います。
あなたは、秀次が自分から関白をゆずっていたら、豊臣家の運命は変わったと思いますか?






