大河ドラマ『豊臣兄弟!』で、松岡広大さんが演じる吉川平助。商人あがりの知恵で、船と材木と銭をあつかう秀長の家臣です。ところが史実の平助は、1588年、熊野の材木を売った代金を着服したとして処刑されてしまいます。
では、もし吉川平助が生きていたら? 秀長の筆頭家老になれたのか。何万石の大名になり、どこをまかされたのか。秀長が亡くなったあとは、五奉行のような豊臣政権の中心にまで上りつめたのでしょうか。
先に私の答えを書いておきます。平助は筆頭家老にも五奉行にもなれなかった。けれど、船と材木の腕を買われて豊臣家の直臣となり、朝鮮出兵の船奉行として2〜3万石の大名にはなれた。そして最後は、同じ秀長の家臣だった藤堂高虎のように、家康のもとで生きのびた。私はそう考えています。
通説・史実:吉川平助とはどんな人物か
まずは、史実の吉川平助を見ておきます。なお、当時の記録では「吉川平介」と書かれていて、ドラマでは「平助」と表記されています。読みはどちらも「へいすけ」です。この記事では、ドラマにあわせて「平助」と書きます。



豊臣秀吉・豊臣秀長・豊臣秀保(イラスト:戦国武将図鑑)
船と材木の実務家
平助の生まれははっきりしません。信長のもとで伊勢の大湊(いまの三重県伊勢市)の船奉行をつとめたという説と、秀吉が長浜城主だったころに取り立てられた商人だったという説があります。どちらにしても、船と材木と銭のあつかいにくわしい実務家だったことはまちがいありません。
1585年に秀吉が紀州を攻めたあと、紀伊は秀長の領地になります。平助は秀長の家臣として紀伊の湊(いまの和歌山市あたり)に入り、七千石をあたえられたと伝わります。紀伊の湊は、熊野の山から切り出した材木が集まる場所でした。平助はここで、材木の切り出しと売り買いを取りしきる「山奉行」をまかされたのです。


熊野の川を下る材木の筏と、紀伊の湊(イメージ)
秀長の家臣団の中での平助
秀長の家臣団には、数万石クラスの重臣がそろっていました。和歌山城をあずかった桑山重晴、大和の寺社との交渉役だった横浜一庵、宇陀の城をまかされた羽田正親、そして築城の名人として知られる藤堂高虎などです。



秀長の重臣たち:桑山重晴・横浜一庵・羽田正親(イラスト:戦国武将図鑑)
この中で、七千石の平助は重臣というより、特別な腕を持った「専門職の奉行」でした。けれど、その腕は豊臣家にとって欠かせないものでした。秀吉は1586年ごろから、京都の東山に巨大な大仏をつくる工事を始めていたからです。
| 家臣 | 役目 | のちの道 |
|---|---|---|
| 桑山重晴 | 和歌山城をあずかる重臣 | 秀保の死後、豊臣家の直臣の大名に |
| 横浜一庵 | 大和の寺社や村との交渉役 | 伏見の大地震で亡くなったと伝わる |
| 羽田正親 | 宇陀の城をまかされた重臣 | 豊臣秀次の事件に連座して切腹 |
| 藤堂高虎 | 築城・軍事の名手 | 秀吉の直臣となり伊予の大名に。のちに家康につく |
| 吉川平助 | 船奉行・山奉行(七千石) | 1588年に処刑 |
熊野の材木、二万余本
大仏をおさめる大仏殿には、とてつもない量の太い材木が必要でした。1588年には刀狩令が出され、集めた刀は大仏の釘などに使うとされます。大仏は、秀吉の天下を象徴する「天下の工事」だったのです。
そこで目をつけられたのが、秀長の領地・紀伊の熊野の材木でした。平助は秀長の命で、熊野の山から二万本あまりの木を切り出し、大坂で売りさばきます。ところが、その代金を「過分に」受け取り、自分のふところに入れていたとされました。


大和の西大寺で処刑
このことは、主君の秀長を飛びこえて秀吉の耳に入りました。1588年12月5日、平助は大和の西大寺で処刑され、首は京の町にさらされます。ただし、奈良の興福寺の僧が書いた『多聞院日記』によると、妻や子どもは罪に問われなかったようです。
責任は秀長にもおよびました。『多聞院日記』は、秀長が「天下の面目を失った」と書いています。翌1589年の正月、秀長は兄の秀吉に年始のあいさつをすることも許されませんでした。
なぜ平助は着服したのか
平助がなぜ代金に手をつけたのかは、記録に残っていません。考えられる理由は三つあります。
- 商人の感覚:大仏の工事で熊野の材木の値段は大きく上がっていた。商人あがりの平助は、高く売れた分の「もうけ」を、当然の取り分と考えていたのかもしれない
- 秀長家のため:秀長は金銀をたくわえることで知られ、亡くなったとき郡山城には大量の金銀が残っていたと『多聞院日記』に書かれている。平助の売り上げが、秀長家の蔵に入る分を多めに取っていた可能性もある
- 天下の工事に手を出した:ふつうなら主君の家の中で片づく話だった。けれど、それが秀吉の大仏の材木だったために、天下の問題になってしまった
私は、1と3がかさなったのだと思います。商人のやり方では「うまい商売」だったことが、天下の工事の材木だったために「天下を相手にした横領」になってしまった。平助は、時代が商人の才覚から「豊臣の天下の決まり」へ変わったことに、気づくのが遅れたのかもしれません。
ですが、もし吉川平助が生きていたら
ここからが「もしも」です。平助が熊野の材木の代金に手をつけず、あるいは秀長がうまく取りなして、平助が処刑されずにすんだとします。船と材木と銭にくわしい平助は、その後どんな道を歩いたでしょうか。

私の考え:平助は「家老」ではなく「天下の奉行」に向いていた
平助の強みは、兵をひきいる力でも、領地をおさめる力でもありません。船を集め、材木を運び、銭を勘定する力です。こうした力は、秀長の家の中よりも、天下全体を動かす豊臣政権の中でこそ生きるものでした。
だから私は、平助は秀長の筆頭家老にはならず、むしろ秀吉に引きぬかれて、豊臣家の「天下の奉行」になっていったと考えます。
こうなったかもしれない
では、平助が生きていたら、その後はどう変わっていたのか。みなさんが気になる「筆頭家老」「石高」「まかされた場所」「五奉行」の順に考えていきます。
1. 筆頭家老にはなれなかった
秀長の家には、桑山重晴や横浜一庵、羽田正親といった数万石の重臣がいました。彼らは兵をひきい、城をあずかり、領地をおさめる「家の柱」です。七千石の専門職の奉行だった平助が、彼らを追いこして筆頭家老になるのはむずかしかったでしょう。
そもそも秀長は、1591年1月に52歳で亡くなります。平助が処刑されていなかったとしても、筆頭家老に上りつめるほどの時間はありませんでした。
2. 秀長の死後、秀吉の直臣へ
秀長が亡くなると、家は養子の秀保がつぎます。けれど秀保も1595年に17歳で亡くなり、秀長の家はとだえてしまいます。家臣たちは散らばり、腕のある者は秀吉の直臣として取り立てられました。藤堂高虎や桑山重晴がそうです。
平助も、その一人になったはずです。しかも平助には、秀吉がのどから手が出るほどほしい腕がありました。1592年から始まる朝鮮出兵です。

3. 石高は2〜3万石、まかされたのは「船と材木」
朝鮮出兵では、十数万の兵を海の向こうへ運ぶ船が必要でした。そして秀吉は、出陣の拠点として肥前(いまの佐賀県)に名護屋城を、さらに京には伏見城を築きます。どちらにも、大量の船と材木がいりました。
もしもの平助は、熊野の材木と紀伊の湊を知りつくした「船奉行・材木奉行」として、名護屋と大坂のあいだの船と材木をまかされたでしょう。手柄に応じて加増され、2〜3万石ほどの大名になっていたと私は考えます。同じように実務の腕で取り立てられた大名に、近江水口5万石の長束正家がいます。平助はそれより少し下、というのが私の見立てです。

4. 五奉行にはなれなかった
五奉行は、浅野長政・石田三成・増田長盛・長束正家・前田玄以の五人です。彼らの多くは、秀吉のそばで長く仕えてきた側近でした。とくに長束正家は、もとは丹羽長秀の家臣で、算用(お金の計算)の腕を秀吉に見こまれて取り立てられた人物です。平助と、とてもよく似た道を歩いています。



長束正家・増田長盛・藤堂高虎(イラスト:戦国武将図鑑)
けれど、五奉行の席はたった五つです。しかも1595年、秀長の家がとだえたあとの大和郡山には、五奉行の増田長盛が20万石で入りました。秀長の旧臣だった平助が、その上に立つことはなかったでしょう。平助は、五奉行の下で船と材木を動かす「奉行衆の一人」として、豊臣政権を支えたと思います。
5. 関ヶ原では、高虎と同じ道を選ぶ
1600年の関ヶ原の戦いで、五奉行のうち石田三成・長束正家・増田長盛は西軍の側に立ち、戦いのあとに命や領地を失いました。奉行衆の一人だった平助も、本来なら西軍に引きこまれる立場です。
けれど、平助には商人の勘がありました。そして、同じ秀長の家臣だった藤堂高虎は、いち早く家康に近づいていました。高虎とともに秀長の家で働いた平助は、高虎の誘いにのって東軍についたのではないかと私は考えます。戦いのあと、平助は家康のもとで、江戸や駿府の城づくりの材木と船を差配する役目についていたかもしれません。
| 史実 | もしも | |
|---|---|---|
| 1588年 | 熊野の材木の代金着服で処刑 | 処刑されず、秀長のもとで山奉行を続ける |
| 秀長の家 | ― | 筆頭家老にはなれず、専門職の奉行のまま |
| 1595年以降 | ― | 秀長の家がとだえ、秀吉の直臣に |
| 朝鮮出兵 | ― | 船奉行・材木奉行として名護屋と大坂を結ぶ |
| 石高 | 七千石 | 2〜3万石 |
| 五奉行 | ― | なれない。奉行衆の一人として支える |
| 関ヶ原 | ― | 藤堂高虎とともに東軍へ |
平助が五奉行になれなかった、と私が考える理由
- 平助は兵をひきいる重臣ではなく、船と材木の専門職だった
- 五奉行の席は五つしかなく、秀吉の古くからの側近でうまっていた
- 秀長の旧臣という立場では、大和郡山に入った増田長盛の上に立つことはむずかしかった
まとめ
- 吉川平助は、船と材木と銭にくわしい秀長の山奉行で、七千石をあたえられていた
- 1588年、大仏の材木として熊野の木二万余本を大坂で売り、代金を着服したとして処刑された
- 生きていても筆頭家老や五奉行にはなれなかったが、秀吉の直臣として朝鮮出兵の船奉行になり、2〜3万石の大名になれた
- 関ヶ原では、同じ秀長の家臣だった藤堂高虎とともに東軍につき、家康のもとで生きのびた
平助の腕は、秀長の家の中では少し大きすぎたのかもしれません。船と材木と銭をあつかう力は、本来なら天下を動かす力です。けれど平助は、その力を使う場所と使い方をまちがえてしまいました。もし平助がもう少し長く生きて、天下の決まりの中で腕をふるっていたら、藤堂高虎や長束正家とならぶ「実務で成り上がった大名」として、名前が残っていたかもしれません。
あなたは、平助が生きていたら、どこまで出世できたと思いますか?
よくある質問
吉川平助と吉川平介は同じ人?
同じ人物です。当時の記録では「吉川平介」と書かれていて、大河ドラマ『豊臣兄弟!』では「吉川平助」と表記されています。読みはどちらも「へいすけ」です。名字は毛利家の吉川元春や吉川広家と同じ字ですが、別の家の人物です。
平助はどこで処刑されたの?
1588年12月5日、大和の西大寺(いまの奈良市)で処刑され、首は京の町にさらされました。妻や子どもは罪に問われなかったと『多聞院日記』に書かれています。
秀長は平助の着服を知っていたの?
記録がなく、わかっていません。ただ、秀長は家臣の監督責任を問われ、「天下の面目を失った」と言われ、翌年の正月には秀吉にあいさつすることも許されませんでした。秀長にとっても大きな痛手だったことはたしかです。
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