1590年、豊臣秀吉は20万をこえる大軍で小田原城を囲みました。奥州の伊達政宗は、参陣するか、北条とともに秀吉に逆らうか、ぎりぎりまで迷いに迷います。結局、政宗が小田原に着いたのは6月のはじめ。白装束で秀吉の前に出たとも伝わる、首の皮一枚の参陣でした。
では、もし政宗が最後まで参陣せず、秀吉に逆らい続けていたら? 先に私の答えを書きます。伊達家は小田原のあとに攻め滅ぼされ、仙台の町は生まれなかった。そして奥州の地図が変われば、10年後の関ヶ原で上杉が動ける形も変わっていたと思います。

通説:政宗はぎりぎりで小田原に参陣した

1589年、政宗は摺上原の戦いで蘆名氏を破り、会津の黒川城(のちの会津若松城)を手に入れました。南奥州の大半を従え、23歳にして奥州一の大名になったのです。
ところが秀吉は、大名どうしの勝手な戦を禁じる「惣無事」の命令を出していました。政宗の会津攻めは、この命令に背くものです。秀吉は小田原の北条を攻めると同時に、政宗にも参陣を命じました。
伊達家の中では、意見が割れました。伊達成実らは「北条と組んで秀吉と戦うべきだ」と言い、片倉小十郎は「秀吉の大軍には勝てない。今すぐ参陣すべきだ」と説いたと伝わります。政宗は小十郎の言葉を受け入れ、小田原へ向かいました。
小田原に着いた政宗は、しばらく箱根の底倉に閉じこめられ、秀吉の怒りを受けます。それでも命は助けられ、会津などの新しい領地を取り上げられただけで、伊達家は生き残りました。
ですが、もし政宗が小田原に参陣しなかったら
政宗が小十郎の言葉を退け、成実の言うとおり秀吉と戦う道を選んでいたら。北条が小田原で降伏したあと、秀吉の大軍は、奥州の伊達へ向かうことになります。
こうなったかもしれない
1. 小田原のあと、20万の大軍が奥州へ

7月5日、北条氏直が降伏して小田原城は開きました。秀吉はそのまま兵を北へ向け、宇都宮から白河をこえて会津へ進みます。史実でも秀吉は8月に会津の黒川城まで来て、奥州の大名たちの領地を決め直しています(奥州仕置)。このもしもでは、それが伊達攻めの戦になります。
伊達が集められる兵は、多くても3万ほど。秀吉の大軍は、北条攻めに加わった全国の大名をそのまま連れています。数の差は、ひと目でわかります。
2. まわりは、すべて敵になる

伊達をとり囲む大名も、次々と秀吉の側につきます。西の越後からは上杉景勝、北西の出羽からは政宗の伯父・最上義光、南の常陸からは佐竹義宣。政宗が蘆名を滅ぼしたことで恨みをかっていた奥州の大名たちも、ここぞとばかりに秀吉の先手として攻めかかります。
頼みの北条は、もう降伏しています。政宗は、奥州でたった一人、天下を相手に戦うことになるのです。
3. 黒川城は落ち、政宗は米沢へ
政宗は、手に入れたばかりの黒川城で秀吉を迎え撃とうとします。けれど、会津は伊達にとってまだなじみの薄い土地です。蘆名の旧臣たちは、秀吉の大軍が来ると知れば、次々と城を開いて寝返ったでしょう。
黒川城を守りきれないとさとった政宗は、伊達家の本拠・米沢へ引きます。秀吉の大軍は米沢を囲み、伊達家の命運はここで尽きることになります。
4. 伊達家は取りつぶされる
米沢を囲まれた政宗には、降伏か、城を枕に死ぬかしか残されていません。たとえ降伏しても、史実のように領地を少し減らされるだけではすみません。最後まで逆らった大名として、伊達家は取りつぶされ、政宗は切腹を命じられたと思います。
史実で北条氏政が切腹させられたように、秀吉は、逆らった者には容赦しませんでした。奥州の大名たちへの見せしめとして、政宗は厳しく裁かれたはずです。
5. 奥州は、蒲生と上杉でかためられる
伊達の領地は、秀吉の信頼する大名たちに分けられます。史実でも、会津には蒲生氏郷が入り、92万石の大大名になりました。伊達がいなくなれば、米沢や仙台平野も含めて、南奥州はまるごと蒲生や上杉、最上らのものになったでしょう。
伊達政宗がいない奥州。それは、仙台の町が生まれない奥州でもあります。政宗が1601年から築いた仙台城と城下町は、のちに東北一の都市になりました。その仙台が、この日本地図にはないのです。
※兵力や日付には諸説あります。
10年後の関ヶ原で、上杉が動きやすくなる
伊達がいなくなった影響は、10年後の関ヶ原にもおよびます。
1600年、会津の上杉景勝は家康の上杉征伐を受けました。家康が西へ引き返したとき、上杉が追撃しなかった大きな理由のひとつは、北の伊達政宗に背後を突かれるおそれがあったからだと言われます。
伊達がいなければ、上杉はその心配をせずにすみます。家康が小山から西へ引き返したとき、上杉は思いきって関東へ攻めこめたかもしれません。そうなれば、関ヶ原のゆくえも大きく変わっていたでしょう(「もし上杉軍が西上する徳川軍を追撃していたら?」)。
筆者の感想
政宗といえば「遅れてきた英雄」と言われます。もう20年早く生まれていれば天下を取れたかもしれない、と。でも小田原の参陣を見ると、政宗の本当のすごさは、ぎりぎりのところで引きどころを見きわめたことにあったのだと思います。
そして、その判断の陰には片倉小十郎がいました。若い政宗に「今は頭を下げるときです」と言える家臣がいたからこそ、伊達家は生き残り、仙台62万石の基礎ができた。小十郎の一言が、東北の歴史を変えたと言ってもいいのではないでしょうか。
あなたは、政宗が小田原に参陣しなかったら、奥州はどうなっていたと思いますか?
よくある質問
伊達政宗はなぜ小田原に遅れて参陣したの?
秀吉に従うか、北条とともに戦うか、伊達家の中で意見が割れていたためです。また、秀吉の命令に背いて蘆名氏を攻め、会津を奪っていたため、参陣すれば処罰されるおそれもありました。
奥州仕置とは?
1590年、小田原の北条を降した秀吉が、奥州の大名たちの領地を決め直したことです。小田原に参陣しなかった大名は領地を取り上げられ、伊達政宗も会津などを没収されました。
片倉小十郎とはどんな人?
伊達政宗の側近で、知恵袋として知られる家臣です。小田原への参陣を政宗にすすめたのは小十郎だったと伝わります。のちに白石城主となり、片倉家は代々伊達家を支えました。





