もし真田幸村が家康を討ち取っていたら?大坂城は落ち、天下は「こわい二代目」秀忠のものに

もし真田幸村が家康を討ち取っていたら

1615年5月7日、大坂夏の陣の最後の決戦。真田信繁(幸村)は赤備えの軍勢をひきいて、徳川家康の本陣に何度も突っこみました。家康の馬印は倒れ、家康自身も本陣から逃げるほどだったと伝わります。信繁の刃は、あと少しで家康に届くところまで来ていたのです。

では、もしあの日、信繁が家康を討ち取っていたら? 十勇士がいたらどうなったかは前の記事で考えたので、今回は「討ち取ったそのあと」に話をしぼります。

先に私の答えを書きます。大坂城はその日のうちに落ち、豊臣家は助かりません。そして天下は、家康よりずっときびしい二代目・秀忠の手にわたり、豊臣とゆかりのある大名たちが、次々とつぶされていったと思います。

真田信繁(幸村)

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目次

通説・史実:家康の本陣が崩れた5月7日

年 出来事
1614年12月 大坂冬の陣。真田丸で徳川方を撃退するが、和睦が結ばれ、大坂城の堀が埋められる
1615年4月 大坂夏の陣が始まる。堀を失った豊臣方は、城の外で戦うしかなくなる
1615年5月6日 道明寺・誉田の戦い、八尾・若江の戦い。後藤又兵衛、木村重成らが討死する
1615年5月7日 天王寺・岡山の戦い。毛利勝永と信繁が家康の本陣に迫り、本陣が崩れる。信繁は力尽きて討死。その夕方、大坂城が燃える
1615年5月8日 秀頼と淀殿が自害し、豊臣家が滅びる
1615年7月 武家諸法度が出され、大名を取りしまる決まりができる
1616年4月 家康が駿府で亡くなる(75歳)

この日の家康の本陣は、旗本たちが逃げまどうほどの大混乱になりました。家康の旗が倒れたのは、若いころに武田信玄に大敗した三方ヶ原の戦い以来だった、とも言われます。敵だった島津家の側にも、信繁を「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とたたえた記録が残っています。

それでも、信繁は家康を討てませんでした。まわりの徳川方が立て直して押し返し、信繁は茶臼山の近くの安居神社のあたりで討たれたと伝わります。

徳川家康
豊臣秀頼
徳川秀忠

ですが、もし信繁が家康を討ち取っていたら

もし信繁の槍が、あと一歩で家康に届いていたら。大御所・家康が戦場で討たれるという、とんでもない事件が起きていたことになります。

ここで大事なのは、このとき家康はすでに将軍ではなかったことです。1605年から、将軍は息子の秀忠でした。しかも秀忠は、この日も岡山口に自分の本陣をかまえて戦っています。家康が倒れても、徳川の大軍には、すぐ上に立つ人がいたのです。

こうなったかもしれない

1. その日の戦は、それでも徳川が勝つ

夏の陣の徳川方は15万ほど、豊臣方は5万ほどと言われます。家康の本陣が崩れても、まわりにはまだ何万もの徳川方の軍勢がいました。信繁の兵も、朝から戦い続けてぼろぼろです。家康の首を取ったとしても、そこから大坂城まで引き上げる力は残っていなかったでしょう。

そして堀を埋められた大坂城は、もう守れる城ではありません。史実と同じように、その日の夕方には城に火の手が上がったと思います。

2. 秀頼と淀殿は、もっと助からない

史実では、大野治長が秀頼の妻・千姫を城から出し、秀頼と淀殿の命ごいをしました。千姫は秀忠の娘です。それでも願いはかなわず、二人は自害しました。

家康の死を知り、大坂城への総攻撃を命じる秀忠
父の死を知り、総攻撃を命じる秀忠(イメージ)

家康が討たれた世界では、豊臣家は秀忠にとって「父のかたき」になります。命ごいが聞き入れられる見こみは、まったくなくなるでしょう。秀頼の幼い息子・国松も、史実と同じように探し出されて処刑されたはずです。

3. 家康の寿命は、あと1年だった

見落としがちなのが、家康の年齢です。このとき家康は74歳。史実でも、大坂の陣のわずか1年後、1616年4月に亡くなっています。

つまり信繁が家康を討っても、家康の死が1年早まるだけなのです。一国一城令や武家諸法度といった、大名を取りしまる仕組みも、すでに家康と秀忠のもとで準備が進んでいました。家康がいなくなっても、秀忠がそのまま出したでしょう。

4. 徳川は、豊臣とゆかりのある大名を疑いはじめる

大坂の陣のとき、福島正則のように豊臣家と縁の深い大名は、江戸に留め置かれて戦に出させてもらえませんでした。徳川は、最後まで彼らを信じきってはいなかったのです。

福島正則
伊達政宗
真田信之

家康が豊臣方に討たれたとなれば、その疑いは一気にふくらみます。「大坂と裏でつながっていた者はいないか」。秀忠はそう考えて、豊臣恩顧の大名を一人ずつ調べ上げたはずです。史実でも福島正則は、1619年に広島城を許しなく直したことをとがめられ、領地を取り上げられました。家康を討たれた世界では、それがもっと早く、もっと多くの大名に起きていたと思います。

5. 秀忠は「こわい二代目」になる

史実の秀忠は、まじめでおとなしい二代目というイメージがあります。でも実際には、弟の松平忠輝や、父の側近だった本多正純まで処分し、多くの大名を取りつぶした、きびしい将軍でした。

そこに「父を戦場で討たれた」という怒りが加わったら。秀忠は、まわりの大名に一切のすきを見せない、もっとこわい将軍になっていたでしょう。家康は、敵だった大名にも逃げ道を残すしたたかさを持っていました。その家康がいなくなることは、大名たちにとって、むしろ不幸だったかもしれません。

6. 真田家は「大御所を討った家」になる

いちばん苦しい立場に立たされるのは、徳川方の真田家です。兄の信之は徳川に仕え、大坂の陣にも息子たちを出陣させていました。それでも、弟が大御所を討ったとなれば、ただではすみません。

信之がそれまで積み上げてきた忠義で、家そのものは残せたかもしれません。けれど、領地を大きく減らされるか、遠くへ移されることは覚悟しなければならなかったはずです。真田家が松代藩として明治まで続いたのは、信繁が家康を「討てなかった」からでもあるのです。

まとめ

  • 家康を討っても、徳川方の大軍は崩れず、大坂城はその日のうちに落ちる
  • 秀頼と淀殿の命ごいは、家康が討たれた世界では、もっと通らない
  • 家康の寿命はあと1年。討っても死が1年早まるだけ
  • 秀忠は豊臣恩顧の大名を疑い、取りつぶしがもっと早く、もっと多くなる
  • 真田家は「大御所を討った家」として、存続があやうくなる

信繁が家康を討てば、歴史はたしかに動きます。でもそれは、豊臣家が救われる方向ではなく、徳川の世がよりきびしくなる方向だったと思います。

筆者の感想

安居神社の入口(真田幸村戦歿の地)
安居神社の真田幸村像
安居神社の「真田幸村戦歿地」の碑
安居神社の本殿

安居神社(大阪市天王寺区・筆者撮影)

信繁が最期をむかえたと伝わる安居神社には、腰をおろした信繁の像と「真田幸村戦歿地」の碑が立っています。家康の本陣があったあたりからも、そう遠くない場所です。あと少しだった、と思わずにはいられません。

でも、この「もしも」を考えてみて、私は信繁が家康を討てなかったことに、どこか救いを感じました。討っていれば、豊臣家はもっとむごい形で滅び、兄の信之が守った真田家も危うくなっていたからです。届かなかったからこそ、信繁は「日本一の兵」として語りつがれ、真田の家も残った。歴史の皮肉だと思います。

あなたは、信繁が家康を討ち取っていたら、その後の日本はどうなったと思いますか?

よくある質問

真田幸村は家康をどこまで追いつめたの?

1615年5月7日の天王寺・岡山の戦いで、家康の本陣に何度も突撃し、家康の馬印を倒させました。家康自身も本陣から逃げるほどだったと伝わります。

真田幸村はどこで亡くなったの?

大坂夏の陣の5月7日、今の大阪市天王寺区にある安居神社のあたりで討たれたと伝わります。境内には「真田幸村戦歿地」の碑と像があります。

徳川家康はいつ亡くなったの?

大坂の陣の翌年、1616年4月に駿府(今の静岡市)で亡くなりました。75歳でした。

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