もし「鬼半蔵」服部正成が大坂の陣にいたら?家康の本陣は崩れず、「日本一の兵」は生まれなかった

もし服部半蔵が大坂の陣にいたら

忍者の物語には、徳川方の忍びとして服部半蔵がよく登場します。真田の忍びたちの前に立ちはだかる、最強の敵というわけです。

ところが、史実の服部半蔵は、大坂の陣のときにはもうこの世にいませんでした。「鬼半蔵」と呼ばれた服部正成は、大坂の陣の18年ほど前に亡くなっています。そして意外なことに、跡を継いだ息子の正就は、大坂夏の陣の5月7日、真田信繁と同じ天王寺口の戦場で姿を消しました。

では、もし鬼半蔵・正成が生きていて、大坂の陣で家康のそばにいたら? 先に私の答えを書きます。戦の勝ち負けは変わりません。でも、あの日、家康の本陣が崩れることはなかったと思います。

服部半蔵(正成)

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目次

通説・史実:「服部半蔵」は一人ではなかった

年 出来事
1542年 服部正成が生まれる。父・保長は伊賀の出身で、松平家(のちの徳川家)に仕えていた
1572年 三方ヶ原の戦いで手柄を立てる。伊賀の者たちを預けられる
1582年 本能寺の変。堺にいた家康が伊賀を越えて三河へ逃げ帰るのを助ける(伊賀越え)
1590年 家康の関東移封にしたがい、伊賀同心をひきいて江戸の守りにつく
1596年(慶長元年) 正成が亡くなる。長男の正就が跡を継ぐ
1604〜05年ごろ 正就が配下の伊賀同心をまとめきれず、役を取り上げられる
1615年5月7日 大坂夏の陣の天王寺口の戦いで、正就が討死したと伝わる(逃げのびたという言い伝えもある)

「半蔵」は、服部家の当主が代々名乗った呼び名です。いちばん有名な二代目の正成は、実は忍者ではなく、槍を手に戦う武将でした。三方ヶ原などで手柄を立て、「鬼半蔵」と呼ばれています。そのうえで、伊賀出身の家柄をいかし、伊賀の者たちを家来としてまとめる役目を任されていました。

ところが息子の正就は、父ほど伊賀の者たちに慕われていませんでした。配下とのもめごとがもとで役を外され、名誉を取り戻そうと大坂の陣に加わったものの、天王寺口の戦いで行方がわからなくなります。服部家はその後、弟の家筋が桑名藩の重臣として続いていきました。

服部正就
徳川家康
真田信繁(幸村)

ですが、もし鬼半蔵が大坂の陣にいたら

もし正成が長生きし、大坂の陣のときも伊賀の者たちをしっかり束ねていたら。そのとき正成は70歳をこえています。自分で槍をふるうのは難しくても、家康のそばで伊賀同心を指図することはできたはずです。

伊賀越えで家康の命を救った半蔵が、ふたたび家康の命を守る。そんな「もしも」を考えてみます。

こうなったかもしれない

1. 九度山の見張りを固める

信繁は、見張りのいる九度山をあっさり抜け出し、大坂城に入りました。もし半蔵の配下が九度山のまわりを見張っていたら、信繁の動きはもっと早くつかまれていたでしょう。

とはいえ、九度山は紀伊の浅野家の領地で、見張りも浅野家の役目でした。半蔵が口を出せるのは、家康から特に命じられた場合だけです。信繁の脱出を完全に止めるのは、難しかったと思います。

2. 大坂城の中のようすを探る

半蔵の本当の強みは、伊賀の者たちを使った情報集めです。冬の陣のあいだ、伊賀者を浪人にまぎれこませ、城の中のようすを家康に知らせる。誰が強気で、誰が和睦に傾いているのか。

ただ、家康はもともと、城の中にいる人たちとの交渉で和睦に持ちこんでいます。情報の面では、半蔵がいなくても徳川方は十分に強かったのです。

3. 5月7日、家康の本陣を守り抜く

半蔵がいちばん役に立つのは、ここです。史実のこの日、信繁と毛利勝永の突撃で、家康の本陣は旗本たちが逃げ出すほどの混乱におちいりました。

真田勢の突撃から家康の本陣を守る服部半蔵と伊賀者
家康の本陣を守る鬼半蔵と伊賀者(イメージ)

もし鬼半蔵が、伊賀同心をひきいて本陣の守りについていたら。半蔵配下の伊賀者は、もともと家康の身辺や江戸城の門を守る役目を持っていました。伊賀越えのときのように、何があっても家康のそばを離れない者たちです。彼らが崩れずに踏みとどまれば、旗本が逃げても、家康のまわりに壁が残ります。家康が馬印を倒されて逃げ回る、という場面はなかったでしょう。

4. 正就が天王寺口で消えることもなかった

父の正成が健在なら、正就が伊賀同心ともめて役を外されることもなかったかもしれません。名誉を取り戻すために無理な戦いに加わる必要もなく、父のもとで伊賀者をまとめる二代目として、家康の本陣を一緒に守っていたはずです。

5. 落城のあと、秀頼を逃がさない

大坂城が落ちたあと、徳川方は豊臣の残党をきびしく探しました。秀頼の息子・国松も見つけ出されて、京で処刑されています。

もし半蔵の配下が城のまわりの道を押さえていたら、「秀頼は薩摩へ逃げた」という言い伝えも、生まれる余地がなかったかもしれません。秀頼を逃がす十勇士の話はこちらの記事で考えています。半蔵はちょうどその反対側に立つ人物です。

6. それでも変わらないもの

半蔵がいても、大坂の陣の勝ち負けは変わりません。豊臣家は滅び、徳川の世が続きます。変わるのは、5月7日の家康の本陣のようすだけです。

でも、その「だけ」が大きいのです。家康の本陣が崩れなければ、信繁は「家康をあと一歩まで追いつめた武将」ではなく、「本陣の守りにはね返された武将」として記録されたでしょう。「日本一の兵」という言葉も、生まれなかったかもしれません。

まとめ

  • 有名な服部半蔵(正成)は、大坂の陣の前に亡くなっていた
  • 跡を継いだ正就は、夏の陣の天王寺口で姿を消した
  • 鬼半蔵がいれば、伊賀者で家康の身辺を固め、本陣は崩れなかった
  • それでも大坂の陣の勝敗は変わらない
  • 変わるのは、信繁の「日本一の兵」という伝説のほう

筆者の感想

服部半蔵といえば忍者、というイメージがありますが、調べてみると、正成は槍で手柄を立てた武将で、伊賀の者たちを束ねる「まとめ役」でした。そして、そのまとめ役がいなくなったとき、息子の代で伊賀者との関係がこじれてしまいます。人をまとめる力が、どれほど大事だったかがよくわかります。

それにしても、正就が姿を消したのが、信繁が討死したのと同じ5月7日の天王寺口だったというのは、なんとも不思議なめぐりあわせです。名誉を取り戻したかった半蔵の息子と、最後の夢をかけた信繁。同じ戦場で、それぞれの思いが消えていったのだと思います。

あなたは、鬼半蔵が大坂の陣にいたら、信繁の突撃を止められたと思いますか?

よくある質問

服部半蔵は忍者だったの?

有名な服部正成は、伊賀出身の家柄で伊賀の者たちをまとめていましたが、本人は槍で戦う武将でした。三方ヶ原などでの働きから「鬼半蔵」と呼ばれています。

服部半蔵は何人いたの?

「半蔵」は服部家の当主が代々名乗った呼び名で、正成の父・保長、正成、その息子の正就なども半蔵を名乗りました。服部家はその後、桑名藩の重臣として幕末まで続いています。

伊賀越えとは?

1582年の本能寺の変のとき、堺にいた家康が、伊賀の山道を越えて三河へ逃げ帰った出来事です。服部正成が伊賀の者たちに働きかけ、家康の道案内や護衛を助けたと伝わります。

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