1614年の冬、大坂冬の陣は和睦で終わりました。けれど翌1615年の春、徳川家康は豊臣秀頼にふたつの道を突きつけます。大坂城に集まった牢人たちを追い出すか、それとも大坂城を出て、大和か伊勢へ国替えするか。秀頼と淀殿はどちらも受け入れず、豊臣家は大坂夏の陣で滅びました。
では、もし秀頼が大坂城を出て、大和に移っていたら? 先に私の答えを書きます。大坂夏の陣は起きず、豊臣家は大和の大名として生き残れたと思います。ただし、それは「天下人の家」をあきらめ、徳川の大名のひとつになるという道でした。

通説:秀頼は国替えを拒み、大坂夏の陣で滅びた

冬の陣の和睦で、大坂城は外堀だけでなく内堀まで埋められ、本丸だけの裸の城になりました。それでも城の中には、真田幸村や後藤又兵衛、毛利勝永といった牢人たちが残っていました。
家康はこれを見て、豊臣家にふたたび戦の用意があると責めました。そして、牢人を追い出すか、大坂城を出て大和や伊勢に移るか、どちらかを選べと迫ります。
秀頼と淀殿にとって、大坂城は秀吉が築いた豊臣家そのものです。城を出ることは、天下人の家であることをやめるのと同じでした。豊臣家はこの求めをはねつけ、1615年5月、大坂城は落ちて秀頼と淀殿は自害しました。
ですが、もし秀頼が大坂城を出て大和に移っていたら

もし秀頼が「城を出ても、豊臣の家が残ればよい」と決め、淀殿もそれを受け入れていたら。豊臣家は大坂城を徳川に明け渡し、大和の郡山城へ移ることになります。
こうなったかもしれない
1. 牢人たちは大坂を去る

豊臣家が大和へ移れば、大坂城に集まった牢人たちの居場所はなくなります。大和の小さな領国で、何万人もの牢人を養うことはできません。真田幸村も後藤又兵衛も、また行き場を求めて散っていったでしょう。
牢人がいなくなれば、家康が豊臣家を攻める理由もなくなります。大坂夏の陣は起きず、真田幸村が家康の本陣に突撃する場面も生まれなかったのです(「もし真田幸村が九度山を出なかったら?」)。
2. 大坂城は徳川の城になる

秀頼が去ったあとの大坂城には、徳川の城代が入ります。史実でも夏の陣のあと、大坂城は徳川の手で埋め立てられ、まったく新しい城に築き直されました。このもしもでも、徳川は豊臣の城をそのままには残さず、西日本を見張る徳川の拠点に作り変えたと思います。
大坂の町は、豊臣の城下町から、徳川の「天下の台所」へと姿を変えていきます。これは史実とほとんど変わりません。
3. 豊臣家は「大和の大名」になる
大和は、かつて秀吉の弟・豊臣秀長が治めた国です。郡山城は、秀長が大きく築き直した城でした。豊臣家にとって、まったくなじみのない土地ではありません。
ただし石高は、大坂で治めた摂津・河内・和泉の65万石ほどから、大きく減ったはずです。大和一国でも40万石ほど。家康はおそらく、それよりさらに小さな領地しか与えなかったでしょう。豊臣家は、天下人の家から、ほかの大名と同じ「徳川の大名のひとつ」になるのです。
4. 秀頼は生き延び、子の国松も助かる
史実では、大坂城が落ちたあと、秀頼の子・国松は捕らえられて処刑されました。娘は尼寺に入れられ、豊臣の血はここで絶えます。
秀頼が大和へ移っていれば、秀頼も国松も生き延びます。秀頼はまだ23歳。大和の郡山で静かに家を守り、国松がそのあとを継いでいったでしょう。家康は翌1616年に亡くなりますから、豊臣家はまず、家康の目の届く時期をのりこえることができたのです。
5. それでも、安心はできない
ただし、大和に移ったからといって、豊臣家がずっと安泰だったとは言いきれません。家康のあとを継いだ秀忠は、大名の取りつぶしをためらわない将軍でした。1619年には、豊臣恩顧の福島正則でさえ、城の修理を理由に改易されています。
豊臣家は、ほんの小さな落ち度でも見とがめられる立場だったでしょう。大和の豊臣家が生き残れるかどうかは、秀頼と家臣たちが、どこまで慎重に徳川とつき合えるかにかかっていました。
※石高や日付には諸説あります。
まとめ:城を出ることが、家を残す道だった
秀頼が大坂城を出て大和に移っていれば、大坂夏の陣は起きず、秀頼も国松も生き延びたと思います。豊臣家は天下人の家ではなくなりますが、「豊臣」の名は大名として残ったでしょう。
淀殿が江戸に下る道(「もし淀殿が江戸へ下っていたら?」)と同じく、大坂城を出る道も、豊臣家が生き残るためのひとつの答えでした。どちらも「天下人の家」という誇りを手放すことが、条件だったのです。
筆者の感想
秀頼と淀殿が大坂城を出られなかった気持ちは、よくわかる気がします。大坂城は、秀吉が天下人として築いた城です。そこを出ることは、秀吉の家を自分たちの代で終わらせることでもありました。
でも、家を残すということは、ときに誇りを手放すことでもあります。前田家は母のまつを江戸に送り、加賀百万石を守りました。秀頼が大和へ移っていれば、豊臣家もまた、別の形で続いていたのかもしれません。
あなたは、秀頼が大坂城を出て大和に移っていたら、豊臣家はどこまで生き残れたと思いますか?
よくある質問
家康は豊臣家に何を求めたの?
1615年の春、家康は豊臣家に、大坂城に集まった牢人たちを追い出すか、大坂城を出て大和か伊勢へ国替えするかを求めました。豊臣家はどちらも受け入れず、大坂夏の陣が始まりました。
大坂城の堀はいつ埋められたの?
大坂冬の陣の和睦のあと、1614年の暮れから翌年の初めにかけてです。和睦では外堀を埋める約束でしたが、徳川方は内堀まで埋めてしまい、大坂城は本丸だけの裸の城になりました。
秀頼の子・国松はどうなったの?
大坂城が落ちたあと、8歳の国松は捕らえられ、京都の六条河原で処刑されました。秀頼の娘は助けられ、鎌倉の東慶寺に入って天秀尼と呼ばれました。





