もし淀殿が江戸へ下っていたら?大坂の陣は起きず、豊臣家は「前田家」になれた

もし淀殿が江戸へ下っていたら

1614年の夏、京の方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」の文字が、大きな騒ぎになりました。徳川方は、家康の名前を二つに分けてのろうものだと問題にします。豊臣家の家老・片桐且元は、家康のいる駿府へ弁明に向かいました。

大坂に戻った且元が持ち帰ったのは、豊臣家が生き残るための三つの案でした。秀頼が江戸に参勤するか、淀殿が人質として江戸に下るか、大坂城を出てほかの国へ移るか。淀殿たちはどれも受け入れず、且元を裏切り者と疑って、大坂城から追い出してしまいます。こうして大坂の陣が始まりました。

では、もし淀殿が江戸に下ることを受け入れていたら? 先に私の答えを書きます。大坂の陣は起きず、豊臣家は滅びなかったと思います。加賀の前田家と同じように、徳川の世を生きる大大名として続いていけたはずです。

淀殿

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

姉妹サイト「日本の歴史ガイド」がデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※姉妹サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

目次

通説・史実:方広寺の鐘から大坂の陣へ

年 出来事
1614年4月 秀頼が再建を進めていた方広寺で、大きな鐘ができあがる
1614年7月 家康が、鐘の銘文と棟札に問題があるとして、大仏の開眼供養を延期させる
1614年8月 片桐且元が駿府へ弁明に向かう。別に、淀殿の側近の大蔵卿局も駿府へ向かう
1614年9月 且元が大坂に戻り、三つの案を伝える。淀殿や大野治長らは且元を疑う
1614年10月 且元が大坂城を去る。家康が大名たちに出陣を命じ、大坂冬の陣へ
1615年5月 大坂夏の陣で大坂城が落ち、秀頼と淀殿が自害する

且元が持ち帰った三つの案は、家康から直接言われたものではなく、且元が家康の考えを読んで、自分から示したものとも言われます。一方、同じころ駿府へ向かった大蔵卿局は、家康にやさしくもてなされ、きびしい話は聞かされずに帰ってきました。

二人の報告がまったくちがったため、淀殿たちは「且元は徳川の味方をしている」と疑いました。豊臣家と徳川家をつなぐ最後の交渉役を、豊臣家は自分から手放してしまったのです。

片桐且元
豊臣秀頼
徳川家康

ですが、もし淀殿が江戸に下っていたら

三つの案のうち、いちばん豊臣家の痛みが少ないのは、実は「淀殿が江戸に下る」案でした。秀頼は大坂城に残れますし、領地も変わりません。豊臣家の当主が、徳川の家来のように江戸へ参勤する必要もないのです。

もし淀殿が「秀頼のためなら」と、江戸行きを受け入れていたら。

大坂城を出て江戸へ向かう淀殿の行列
秀頼のために江戸へ向かう淀殿(イメージ)

こうなったかもしれない

1. 前田家という「お手本」があった

実はこの道には、先にお手本がありました。加賀の前田家です。秀吉の死後、前田利長は家康から謀反を疑われました。そのとき利長の母・まつ(芳春院)が、人質として江戸に下ったのです。

前田家はこれで疑いを晴らし、関ヶ原では東軍について、のちに「加賀百万石」と呼ばれる大大名になりました。まつはおよそ15年ものあいだ江戸で暮らし、前田家を守り抜いたのです。淀殿が同じ道を選んでいれば、豊臣家も同じように守れたはずです。

2. 家康は、戦を始める理由を失う

淀殿が江戸に下れば、豊臣家は徳川に従う姿勢をはっきり示したことになります。家康がそれでも大坂を攻めれば、大名たちの目には「約束を守った相手を攻める」と映ります。家康は、戦を始める大義名分を失うのです。

家康はこのとき73歳。自分が生きているうちに豊臣家の問題を片づけたかったはずですが、理由のない戦は起こせません。そうこうしているうちに、家康の寿命が尽きていきます。

3. 且元が残り、交渉の窓口がつながる

淀殿が江戸行きを受け入れるということは、且元の案を信じたということです。且元は大坂城に残り、豊臣家と徳川家をつなぐ交渉役を続けます。

家康がさらに条件を出してきても、且元がいれば話し合いで落としどころを探れます。史実のように、交渉役を追い出したことで話し合いの道が断たれ、いきなり戦になることはありません。

4. 浪人を集めないから、徳川に疑われない

史実の豊臣家は、大坂の陣の前に全国から浪人を集めました。これが徳川方に「戦の準備をしている」と見られる大きな理由になります。

淀殿が江戸にいれば、豊臣家が浪人を集める理由もなくなります。むしろ、浪人を抱えないことで、徳川に従う姿勢をはっきり示せます。

5. 家康の死後は、千姫がつなぐ

史実の家康は、大坂の陣の翌年、1616年に亡くなりました。戦が起きなければ、家康が亡くなったあとの将軍は秀忠です。秀忠の娘・千姫は、秀頼の妻。秀忠にとって、娘が嫁いだ家を攻める理由はなくなっていきます。

江戸にいる淀殿は、秀忠の妻・江の実の姉でもあります。姉妹がそろって江戸にいることで、徳川と豊臣のつながりは、むしろ強くなったかもしれません。

6. 最後は、天下人の家から大名の家へ

ただし、豊臣家が天下人の家に戻ることはありません。秀頼は、摂津・河内・和泉を治める一大名として、徳川の世の中で生きていくことになります。いずれは大坂城を出て、別の国へ移ることも求められたでしょう。

それでも、家は残ります。前田家が加賀百万石として明治まで続いたように、豊臣家も大大名として続いていけた。私は、淀殿の決断ひとつで、それができたと思います。

まとめ

  • 且元の三つの案のうち、淀殿の江戸行きがいちばん痛みが少なかった
  • 前田家は、まつが人質として江戸に下ることで生き残った
  • 淀殿が江戸に下れば、家康は戦を始める理由を失う
  • 且元が残り、浪人も集めず、話し合いの道が続く
  • 豊臣家は天下人には戻れないが、大大名として続いていけた

筆者の感想

方広寺の大仏
秀頼が再建した方広寺の大仏(イメージ)

淀殿は、浅井長政の娘として生まれ、小谷城と北ノ庄城で二度も城を失い、父と母を亡くしています。その淀殿にとって、敵の城下へ人質として下ることは、たえがたいことだったのでしょう。秀吉の跡継ぎの母としての誇りもあったはずです。

でも、前田家のまつは、同じ道を選んで家を守りました。誇りを守るか、家を守るか。淀殿が選んだのは誇りのほうで、その結果、豊臣家は大坂城とともに消えてしまいます。方広寺の大仏は、父・秀吉を弔うために秀頼が再建したものでした。その鐘が豊臣家の終わりのきっかけになったと思うと、なんとも皮肉です。

あなたが淀殿だったら、三つの案のうちどれを選びますか?

よくある質問

方広寺鐘銘事件とは?

1614年、秀頼が再建した京の方広寺の鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文字を、徳川方が家康をのろうものだと問題にした事件です。これがきっかけで大坂の陣が起こりました。

片桐且元はその後どうなったの?

大坂城を去ったあと、徳川方に加わって大坂の陣を戦いました。そして豊臣家が滅びたわずか20日ほどあとに、亡くなっています。

淀殿と江(ごう)はどういう関係?

どちらも浅井長政とお市の方の娘で、淀殿が長女、江が三女の姉妹です。江は将軍・徳川秀忠の妻で、家光の母にあたります。

関連記事

大河『豊臣兄弟!』IF特集
目次