『豊臣兄弟!』の終盤では、茶々の懐妊と鶴松の誕生が大きく描かれます。第45回では、茶々の懐妊をからかう落書が聚楽第で見つかり、第46回では鶴松が生まれて豊臣家がわきたちます。
茶々は、浅井長政とお市の方の娘です。秀吉の側室となって鶴松と秀頼を産み、豊臣家の運命を大きく動かしました。もし秀吉が茶々を側室にしなかったら、豊臣家はどうなっていたのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

👑 豊臣政権と一門の「もしも」シリーズ(全14本)
先に結論:秀次が跡を継ぎ、豊臣政権は続いた可能性が高い
先に私の答えを書いておきます。茶々が側室にならなければ、鶴松も秀頼も生まれません。秀吉の跡継ぎは甥の秀次に決まり、秀次事件も起きなかったでしょう。
1598年に秀吉が亡くなったとき、跡を継ぐのは6歳の秀頼ではなく、31歳の関白・秀次です。成人した関白が政治を動かせば、家康が天下をとるのはずっと難しくなります。家康が動くには、三成を討つのではなく、関白に兵を向ける「謀反」をおこさなければならないからです。
史実:茶々と豊臣家の跡継ぎ
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1569年ごろ | 浅井長政とお市の方の長女として生まれる |
| 1583年 | 母・お市が柴田勝家とともに北庄城で自害。茶々ら三姉妹は秀吉に保護される |
| 1588年ごろ | 秀吉の側室となる |
| 1589年5月 | 鶴松を産む。淀城を与えられ「淀の方」と呼ばれる |
| 1591年8月 | 鶴松が3歳で亡くなる。12月に秀次が関白になる |
| 1593年8月 | 秀頼を産む |
| 1595年7月 | 秀次事件 |
| 1598年8月 | 秀吉が亡くなる。秀頼は6歳 |
| 1615年5月 | 大坂夏の陣で秀頼とともに自害 |
秀吉には、正室のねねとのあいだにも、多くの側室とのあいだにも、子がほとんど生まれませんでした。茶々だけが二人の男子を産んだことで、豊臣家の跡継ぎ問題は大きくゆれ動きます。

秀頼の誕生が秀次を追いつめた
1591年、鶴松を失った秀吉は、甥の秀次に関白をゆずり、跡継ぎとしました。ところが1593年に秀頼が生まれると、秀次の立場は急にあやうくなります。秀吉は秀次と秀頼が両立する道も考えましたが、1595年、秀次は謀反の疑いをかけられて切腹し、妻子も処刑されました。
秀頼が生まれなければ、秀吉が秀次を追いつめる理由はほとんどありません。秀次事件は、秀頼の誕生がなければ起きなかったといってよいと思います。
もしも:秀吉が茶々を側室にしなかったら
第1段階:茶々は別の大名に嫁ぐ(1588年ごろ)
秀吉が茶々を側室にしなければ、茶々は妹たちと同じように、秀吉の養女として大名に嫁いだはずです。史実では、次女の初は京極高次に、三女の江は最後に徳川秀忠に嫁いでいます。茶々も、豊臣家に近い大名の正室になっていたでしょう。
第2段階:秀次が早くから跡継ぎに(1591年〜)
秀吉に実子がいなければ、秀次は関白になった時点で、ゆるぎない跡継ぎです。秀吉は、秀次に政治を少しずつまかせ、自分は朝鮮出兵などに力を注いだでしょう。秀次が関白として朝廷や大名と向き合う時間が、史実よりずっと長くなります。
第3段階:秀吉の死と関白秀次(1598年)
1598年、秀吉が亡くなります。跡を継ぐのは31歳の関白・秀次です。五大老・五奉行の合議にたよる必要はなく、秀次が自分で大名たちに命令を出せます。秀次の弟・秀保は1595年に亡くなっていますが、秀次には子どもたちがおり、豊臣一門はまだ残っています。

その先:家康はどう動くか
家康は、関白秀次の家臣という立場になります。天下をとるには、関白に兵を向けなければなりません。史実の関ヶ原は「豊臣家のために三成を討つ」という形をとれたからこそ、豊臣恩顧の大名たちが家康についたのです。
相手が成人した関白なら、加藤清正や福島正則らが家康につく理由はありません。家康は、秀次が亡くなるのを待つか、秀次の失政をきっかけにするしかなかったでしょう。家康は1616年に亡くなりますから、秀次が長生きすれば、徳川の天下はなかったかもしれません。

まとめ:秀吉が茶々を側室にしなかったら
| 問い | 答え(予想) |
|---|---|
| 跡継ぎは | 甥の秀次に決まる |
| 秀次事件は | 起きない |
| 秀吉の死後は | 31歳の関白秀次が政治を動かす |
| 家康は | 関白に兵を向けなければ天下をとれず、関ヶ原の形は生まれにくい |
| 茶々は | 秀吉の養女として、別の大名の正室に |
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筆者の感想
秀吉が茶々を側室にしたことは、豊臣家に跡継ぎをもたらした一方で、秀次事件という悲劇も生みました。跡継ぎを望む気持ちが、かえって一門をほろぼしてしまう。歴史の皮肉を感じます。
もちろん、秀次が名君になれたかはわかりません。それでも、成人した関白がいれば、家康もあれほど自由には動けなかったはずです。あなたは、秀頼が生まれなければ、豊臣家は続いたと思いますか?
よくある質問
茶々はいつ秀吉の側室になったの?
はっきりした時期はわかっていませんが、1588年ごろと考えられています。1589年に鶴松を産みました。
茶々と淀殿は同じ人?
同じ人です。鶴松を産んだあと淀城を与えられたことから「淀の方」と呼ばれ、のちに淀殿の名で知られるようになりました。
浅井三姉妹はそれぞれだれに嫁いだの?
長女の茶々は秀吉の側室、次女の初は京極高次の正室、三女の江は何度かの結婚をへて徳川秀忠の正室となり、三代将軍家光の母になりました。

















