大河ドラマ『豊臣兄弟!』第41回「家康の野望」では、秀吉の母・大政所(なか)が人質として岡崎に入ります。このとき岡崎の留守をあずかっていたのが、「鬼作左」と呼ばれた本多作左衛門重次です。作左は、もし大坂で家康に何かあればすぐに火をかけられるよう、大政所の宿所のまわりに薪を積んだと伝わります。
この薪が秀吉の怒りを買い、作左はやがて表舞台から退きます。徳川家の古くからの重臣でありながら、最後は3000石の隠居で終わりました。では、もし作左が薪を積んでいなかったら、大名になれたのでしょうか?
先に私の答えを書いておきます。作左は大名になれた。それも1万〜2万石の大名に。けれど、作左は大名でいることに向いていなかったとも思います。そして、薪を積んだ作左の家を大名にしたのは、手紙の中で「泣かすな」と気づかった息子の「お仙」でした。
通説・史実:薪を積んだ「鬼作左」
まずは、作左がどんな人で、薪の一件のあとにどうなったのかを見ておきます。大政所の人質の流れは「もし家康が上洛の夜に秀長を討っていたら」でも書いているので、ここでは作左本人を中心にします。



本多重次・徳川家康・大政所(イラスト:戦国武将図鑑)
家康の父の代から仕えた三河武士
本多重次は1529年(享禄2年)の生まれで、家康より13歳年上です。家康の父・松平広忠の代から松平家に仕えた、古い三河武士の一人でした。相手がだれでも遠慮なくものを言う性格から、「鬼作左」と呼ばれます。
家康は三河一向一揆をおさめたあと、作左を高力清長・天野康景とともに三河の奉行に任じました。三人の人柄を表した「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野」という言葉が伝わっています。やさしい高力、こわい作左、どちらにもかたよらない天野。作左は戦場の武将であると同時に、岡崎の町と領地をおさめる役人でもありました。
妻にあてた「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」という手紙は、日本一短い手紙として有名です。「お仙」は息子の仙千代、のちの本多成重のことです。用件だけを短く書く。作左の人柄がよく出た手紙です。
数正が去ったあとの岡崎をあずかる
1585年(天正13年)11月、岡崎城をあずかっていた重臣の石川数正が、突然秀吉のもとへ去りました。徳川の内情を知りつくした数正がいなくなり、家中は大きくゆれます。そのあとの岡崎城代についたのが作左でした。
つまり1586年の時点で、作左は徳川家の本拠・岡崎を任される重臣です。家康が大坂へ上洛するあいだ、留守を守り、秀吉の母をあずかる。それは、家康がだれよりも信用していた家臣だという証でもありました。
大政所の宿所に積まれた薪
1586年10月、大政所が岡崎に入りました。娘の朝日姫(家康の正室)の見舞いという名目でしたが、家康が無事に帰るまでの、事実上の人質です。
作左は、大政所の宿所のまわりに薪を積ませたと伝わります。もし大坂で家康の身に何かあれば、すぐに火をかけるかまえです。この話は後の時代の記録に伝わるもので、どこまで本当かはわかりません。けれど、作左ならやりかねない、と思わせる話です。

井伊直政との「二つのもてなし」
同じとき、大政所の身のまわりに細かく気を配ったのが、若い井伊直政です。直政のていねいな応対は、大政所にも秀吉にも好まれたといわれます。
同じ人質に、片方はやわらかく、片方はきびしく接しました。どちらも家康を守るための働きです。けれど、その後の二人の運命は大きく分かれます。


本多重次・井伊直政(イラスト:戦国武将図鑑)
| 本多重次(作左) | 井伊直政 | |
|---|---|---|
| 大政所への接し方 | 宿所のまわりに薪を積む | 身のまわりに気を配り、ていねいにもてなす |
| 1586年の年齢 | 58歳 | 26歳 |
| 秀吉の評価 | 怒りを買う | 気に入られる |
| 1590年の関東移封 | 上総の古井戸で3000石。隠居 | 上野の箕輪で12万石。家臣の中で最大 |
上総・古井戸での隠居
1590年(天正18年)、小田原の北条家がほろび、家康は関東へ移ります。このとき、家臣たちに新しい領地が割りふられました。井伊直政は12万石、本多忠勝と榊原康政は10万石。徳川家の重臣たちが次々に城持ちの大名になっていきます。
ところが作左に与えられたのは、上総の古井戸(いまの千葉県君津市)で3000石。しかも役をとかれての隠居でした。秀吉の求めに応じた処分だったといわれます。薪の一件だけでなく、作左が秀吉に対してたびたび強い態度をとったことも、秀吉の怒りの理由に数えられています。人質として秀吉のもとにいた仙千代を、うそをついて呼びもどしたという話も伝わります。
作左はその後、下総の井野(いまの茨城県取手市)に移り、1596年(文禄5年/慶長元年)7月に68歳で亡くなりました。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1529年 | 本多重次が生まれる |
| 1565年ごろ | 三河一向一揆のあと、三河三奉行の一人になる |
| 1572年 | 息子・仙千代(のちの成重)が生まれる |
| 1575年 | 長篠の戦い。この陣中で「一筆啓上」の手紙を書いたとされる |
| 1584年 | 小牧・長久手の戦い。仙千代が於義丸(のちの結城秀康)について大坂へ行ったといわれる |
| 1585年 | 石川数正が出奔。作左が岡崎城代になる |
| 1586年 | 大政所が岡崎へ。宿所のまわりに薪を積む |
| 1590年 | 家康の関東移封。作左は上総・古井戸で3000石の隠居 |
| 1596年 | 作左が68歳で亡くなる |
| 1613年 | 成重が松平忠直の付家老として越前・丸岡城に入る |
| 1624年 | 成重が丸岡4万6000石の大名になる |
| 1695年 | 丸岡の本多家が改易される |
ですが、もし作左が薪を積まなかったら
ここからが「もしも」です。作左が大政所をおだやかに迎え、秀吉の怒りを買わなかったとします。1590年の関東移封で、作左はどれくらいの領地をもらえたのでしょうか。
私の考え:ものさしは「三河三奉行」の同僚
手がかりになるのは、同じ三河三奉行だった高力清長と天野康景です。三人は同じ役目をつとめ、年も近い。関東移封での扱いを並べてみます。
| 生まれ | 1590年の関東移封 | その後 | |
|---|---|---|---|
| 高力清長(仏高力) | 1530年 | 武蔵の岩槻で2万石の大名 | 孫の代に肥前・島原の大名になる |
| 天野康景(どちへんなし) | 1537年 | 5000石 | 1601年に1万石の大名(駿河・興国寺)。1607年に領地を捨てて出奔 |
| 本多重次(鬼作左) | 1529年 | 上総の古井戸で3000石。隠居 | 1596年に死去 |
高力清長は作左とほぼ同い年で、1590年に2万石の大名になっています。60歳をこえていても、大名になれたわけです。年齢は理由になりません。
しかも作左は、数正が去ったあとの岡崎城代です。三奉行の中でも、いちばん重い役目をまかされていました。薪の一件がなければ、高力と同じ2万石前後、少なくとも1万石の大名になっていたと私は考えます。
薪だけが原因だったのか
ただし、ひとつ気になることがあります。作左が秀吉ににらまれた理由は、薪だけではなかったことです。仙千代を呼びもどした話のように、作左は秀吉に対して、だれにでもそうだったように遠慮なくふるまいました。
薪を積まなかったとしても、作左は作左です。どこかで秀吉の気にさわることを言い、同じように遠ざけられた可能性はあります。だからこの「もしも」は、正確には「作左が秀吉の前でだけ、おとなしくしていられたら」と言いかえたほうがいいのかもしれません。
こうなったかもしれない
それでも、作左が秀吉の怒りを買わずにすんだとして、その先を考えてみます。私は次の三つの変化を考えました。
1. 関東の小さな城の主になる
1590年、作左は関東のどこかで1万〜2万石の城を与えられます。高力清長が岩槻に入ったように、江戸を囲む城の一つを任されたでしょう。岡崎で町をおさめた奉行の腕は、新しい関東の領地づくりで大いに役に立ったはずです。

ひらがなで「これにそむく者は作左がしかる」と書いた高札を立てたという作左です。新しい領民にも、わかりやすく、きびしく、筋の通ったお触れを出したことでしょう。
2. それでも、大名の家は長続きしなかったかもしれない
作左は1596年に亡くなります。大名になっても、殿さまだったのは6年ほどです。
気になるのは、同じ三奉行の天野康景のその後です。天野は1万石の大名になりましたが、1607年、家臣が幕府領の百姓を斬った件で、家臣を引きわたせという幕府の命令をこばみ、領地を捨てて出奔しました。筋を通すあまり、主君の側の幕府ともぶつかってしまったのです。
作左も同じ型の人です。いや、天野よりもっと激しい人でした。大名として長生きしていたら、天下人が秀吉から家康に変わっても、どこかで幕府とぶつかったかもしれません。作左は、部下として仕えるには頼もしくても、上に立つ「大名」の器ではなかった。私はそんな気がしています。
3. 「お仙」の行き先が変わる
いちばんおもしろいのは、息子の成重(仙千代)の人生です。
史実の成重は、於義丸、のちの結城秀康とのつながりから秀康の家に仕え、秀康の子・松平忠直の付家老として越前の丸岡城に入りました。1624年には丸岡4万6000石の大名になります。父が3000石で終わったのに、息子は父の15倍をこえる大名になったのです。
もし作左が関東の大名になっていたら、成重は父のあとをついで、その1万〜2万石の家の殿さまになっていたでしょう。そうなれば、越前へ行くことはなかったかもしれません。丸岡城にある「一筆啓上」の碑も、福井県坂井市が続けている手紙のコンクール「一筆啓上賞」も、生まれていなかったかもしれないのです。

| 史実 | もしもの世界 | |
|---|---|---|
| 作左の最後 | 上総・古井戸で3000石の隠居 | 関東で1万〜2万石の大名 |
| 成重 | 結城秀康の家に仕え、丸岡4万6000石の大名に | 父の小さな家をつぐ |
| 本多家の大きさ | 4万6000石(1695年に改易) | 1万〜2万石 |
| 「一筆啓上」の碑 | 丸岡城に建つ | 丸岡とのつながりがなくなる |
大名になれても、私が「向いていなかった」と考える理由
- 秀吉ににらまれた理由は薪だけではなく、作左の遠慮のない性格そのものだった
- 同じ三奉行で同じ型の天野康景は、大名になったあと幕府とぶつかって領地を失った
- 作左がいちばん力を発揮したのは、家康の下で町をおさめる奉行や、留守を守る城代としてだった
まとめ
- 作左は岡崎城代として大政所をあずかり、宿所のまわりに薪を積んだと伝わる
- 秀吉の怒りを買い、1590年の関東移封では3000石の隠居で終わった
- 同僚の高力清長が2万石の大名になったことから、薪がなければ作左も1万〜2万石の大名になれたと考えられる
- ただ、作左の頑固さは大名向きではなく、家を大きくしたのは息子・成重の丸岡4万6000石だった
作左が薪を積んだのは、主君の家康を守るためでした。そのせいで自分は大名になれなかった。それでも作左は、たぶん後悔しなかったと思います。「一筆啓上」の手紙と同じで、作左にとって大事なことは短くはっきりしていたからです。主君を守る。家を守る。息子を泣かせない。そして、その息子が父をこえる大名になったのですから、作左の薪はけっしてむだではなかったのかもしれません。
あなたは、作左が薪を積まなかったら、大名として成功したと思いますか?
よくある質問
本多作左衛門は、なぜ「鬼作左」と呼ばれたの?
気性が激しく、相手がだれでも遠慮なくものを言ったからです。三河三奉行の三人を表した「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野」という言葉から、この呼び名が広まりました。きびしいけれど筋の通った奉行として、領民からおそれられ、たよりにもされていました。
「一筆啓上 火の用心」の手紙は、いつ書かれたの?
1575年の長篠の戦いの陣中で、妻にあてて書いたとされるのが一般的です。小牧・長久手の戦いのときとする説もあります。福井県坂井市の丸岡城には、この手紙を刻んだ碑があります。
本多重次は大名だったの?
大名ではありません。1万石以上の領地を持つのが大名ですが、作左が最後に与えられたのは3000石でした。大名になったのは息子の成重で、1624年に越前・丸岡4万6000石の大名になっています。
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