もし武田信玄があと5年生きていたら?京に旗は立てても、天下は取れなかった

もし武田信玄があと5年生きていたら

1572年10月、武田信玄は大軍をひきいて甲府を出ました。いわゆる西上作戦です。12月には遠江の三方ヶ原で徳川家康を打ち破り、家康は命からがら浜松城へ逃げ帰りました。

ところが翌1573年、三河の野田城を落としたころから信玄の病が重くなり、武田軍は甲斐へ引き返します。そして4月、信濃の駒場で信玄は亡くなりました。53歳でした。

では、もし信玄があと5年生きていたら? 先に私の答えを書きます。信長は大苦戦し、家康は大名でいられなかったかもしれません。信玄が京に武田の旗を立てることもありえたでしょう。それでも、武田家が天下を取ることはできなかったと私は考えます。

武田信玄
目次

通説・史実:西上作戦のさなかに病に倒れた信玄

年月 出来事
1572年10月 信玄が甲府を出陣。別の部隊が東美濃の岩村城を落とす
1572年12月22日 三方ヶ原の戦い。徳川・織田の連合軍を破る
1573年2月 三河の野田城を落とす。将軍・足利義昭が信長に対して兵を挙げる
1573年4月12日 信玄が信濃の駒場で亡くなる。武田軍は甲斐へ引き返す
1573年7〜8月 信長が義昭を京から追い出し、朝倉義景と浅井長政を滅ぼす
1575年5月 長篠の戦い。武田勝頼が信長・家康の連合軍に大敗する
1582年3月 武田家が滅びる

信玄が甲府を出たころ、信長は四方を敵に囲まれていました。越前の朝倉、近江の浅井、大坂の本願寺、そして京の将軍・足利義昭。いわゆる「信長包囲網」です。そこへ東から信玄が攻めこんできたのですから、信長にとってはいちばん苦しい時期でした。

ところが信玄が亡くなると、包囲網は一気に崩れます。信長は半年もたたないうちに義昭を追い出し、朝倉と浅井を滅ぼしました。信玄の死が、信長の天下取りを大きく早めたのです。

1573年はじめの信長包囲網の関係図
1573年はじめの「信長包囲網」(筆者作成)

ですが、もし信玄があと5年生きていたら

もし信玄の病が持ち直し、1578年ごろまで生きていたら。三方ヶ原で家康を破った勢いのまま、信玄は西へ進み続けたはずです。

武田信玄の西上作戦とその先の進路図
信玄の西上作戦と、その先の進路(イメージ図)

こうなったかもしれない

1. 家康は三河を失う

三方ヶ原で大敗した家康には、すでに信玄を正面から止める力はありませんでした。信玄が三河の岡崎や吉田(豊橋)まで攻めこめば、家康は浜松に閉じこめられます。

家康が選べる道は二つ。信長を頼って最後まで戦うか、信玄に頭を下げるか。どちらにしても、のちに天下を取る「徳川家康」の姿は、ここで大きく変わっていたでしょう。

三方ヶ原で武田軍に敗れて逃げる徳川家康
三方ヶ原から逃げる家康(イメージ)

2. 東美濃から岐阜をうかがう

信玄は西上作戦の前に、東美濃の岩村城を手に入れていました。ここを足場にすれば、信長の本拠地・岐阜まではすぐです。三河から尾張へ、東美濃から岐阜へ。信長は自分の足もとを二方向から攻められることになります。

3. 信長包囲網が崩れない

史実で包囲網が崩れたのは、信玄という一番大きな柱が倒れたからでした。信玄が生きていれば、朝倉も浅井も本願寺も、そして将軍・義昭も、信長に負けずに踏んばれます。

信長は、東の武田と、北の朝倉・浅井、西の本願寺を同時に相手にしなければなりません。どこか一方に兵を集めれば、別の方面が手薄になります。

4. 京に武田の旗が立つ

将軍・義昭は、信玄に信長を討つよう何度も呼びかけていました。信玄が京へ上れば、義昭はよろこんで迎え入れたはずです。私は、1574〜75年ごろ、京に武田の旗が立つ場面もありえたと思います。

京へ向けて進む武田の大軍
京へ向けて進む武田の大軍(イメージ)

5. それでも天下は取れない

ただし、武田家が天下を治めるには、大きな弱点がありました。一つは、甲斐から京までが遠すぎることです。山国の甲斐から兵糧を運び続けるのは大変でした。二つめは、北の上杉謙信です。信玄が西に出れば、謙信が背後を突いてきます。

そして三つめが、信玄の体です。5年長く生きたとしても、病を抱えたままでは、自分で軍をひきいられる時間はかぎられていました。信玄が亡くなったあと、跡を継ぐ勝頼が、父と同じように家臣や同盟相手をまとめられたかどうか。私は難しかったと思います。

6. 結末:信長の天下は5年遅れ、家康の運命が変わる

信長は、京や堺のお金と鉄砲の力で、長い戦いをしのいだでしょう。信玄が亡くなれば、包囲網は史実と同じように崩れていきます。天下統一は5年ほど遅れても、最後に天下へ近づくのは、やはり信長だったと思います。

ただ、いちばん大きく変わるのは家康です。三河を失った家康が、信長の下で天下人への道を歩めたかどうか。信玄の5年は、信長よりも家康の人生を大きく変えたはずです。

まとめ

  • 三方ヶ原のあと、家康は三河を失い、浜松に閉じこめられる
  • 東美濃の岩村城から、信長の岐阜をうかがう
  • 信玄が生きている限り、信長包囲網は崩れない
  • 京に武田の旗が立つ場面もありえた
  • それでも甲斐の遠さ、上杉謙信、信玄の病で、武田の天下は続かない

筆者の感想

武田神社(躑躅ヶ崎館跡)の社号標
武田氏館跡の説明板

武田神社(躑躅ヶ崎館跡・山梨県甲府市・筆者撮影)

甲府の武田神社は、信玄が暮らした躑躅ヶ崎館の跡に建っています。信玄は「人は城、人は石垣、人は堀」と言ったと伝わり、大きな城を築かずに、この館から甲斐を治めました。

信玄の強さは、戦の上手さだけでなく、人をまとめる力にありました。だからこそ、信玄がいなくなったとき、武田家はゆっくりと崩れていったのだと思います。上杉謙信があと10年生きていたらの記事と同じく、戦国最強と言われた二人の早すぎる死が、信長の天下を後押ししたのかもしれません。

あなたは、信玄があと5年生きていたら、家康はどうなっていたと思いますか?

よくある質問

武田信玄はなぜ亡くなったの?

西上作戦の途中で病が重くなり、1573年4月12日、信濃の駒場(今の長野県阿智村)あたりで亡くなりました。病名は胃の病や肺の病などの説があります。

三方ヶ原の戦いとは?

1572年12月22日、遠江の三方ヶ原(今の浜松市)で、武田信玄が徳川家康と織田の援軍を破った戦いです。家康は大敗し、浜松城へ逃げ帰りました。

信玄の死はすぐに知れわたったの?

信玄は「自分の死を3年隠せ」と遺言したと伝わります。ただ、信長や家康は、武田軍が急に引き返したことから、信玄の死に早くから気づいていたとも言われます。

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