もし真田信繁の九度山脱出が失敗していたら?捕まれば兄・信之の家まで危うく、九度山に残るよりずっと悪い結末だった

もし信繁の脱出が失敗していたら

ドラマ『真田十勇士 SHADOWS OF THE TEN NINJA』の第3話では、幸村(信繁)と十勇士がついに九度山を脱出します。けれど大坂城への道には、橋のない濁流の大河と、徳川方の刺客が待ちかまえていました。

史実の信繁も、紀州の浅野家の見張りをくぐりぬけて九度山を抜け出しました。家族や家臣、地元の侍、高野山の僧などを合わせて300人ほどが、いくつかに分かれて大坂へ向かったとみられています。紀ノ川を舟で下ったという見方もあり、ドラマの「大河」の場面と重なります。

では、もし脱出が失敗し、浅野家に捕まっていたら? 先に私の答えを書きます。信繁は「徳川の命令を破って逃げた者」として重く罰せられ、兄・信之の真田家まで疑いの目を向けられたでしょう。九度山に静かに残るよりも、ずっと悪い結末です。だからこそ信繁は、脱出を周到に準備したのだと思います。

真田信繁

■ 豊臣秀吉・秀長 オリジナルグッズ ■

姉妹サイト「日本の歴史ガイド」がデザインした秀吉・秀長グッズ。Tシャツ・マグカップ・トートバッグに加え、スマホケース・フェイスタオル・タンブラーなどもあります

秀吉・秀長グッズを見る ▶

※姉妹サイト「日本の歴史ガイド」のオリジナル商品です。NHK・大河ドラマの公式グッズではありません。

目次

通説・史実:見張りをくぐりぬけた九度山脱出

年月日 出来事
1600年 関ヶ原のあと、父・昌幸とともに九度山へ流される
1611年 昌幸が赦されないまま九度山で亡くなる
1614年夏 方広寺の鐘の銘をめぐって、豊臣と徳川の関係が悪くなる
1614年10月9日 信繁が九度山を出る(高野山の蓮華定院の記録による)
10月10日ごろ 信繁が大坂城に入る
10月13日 高野山の僧が、信繁がいなくなったことを京都の所司代に知らせる
1614年12月 大坂冬の陣。信繁は出城「真田丸」で徳川方を撃退する

九度山のある紀伊を治めていたのは、浅野長晟です。長晟は、高野山の僧や九度山の村人、紀見峠のあたりの百姓に、信繁を大坂へ行かせないよう命じていたと伝わります。紀伊と大和の国境は、大和の松倉重政も見張っていました。

それでも信繁は抜け出しました。村人に酒をふるまって酔わせ、そのすきに逃げたという話がよく知られていますが、これはのちの書き物の脚色とみられています。実際は、村人たちが見て見ぬふりをした、という見方もあります。高野山から京都への知らせが3日も遅れたことも、信繁を本気で止める気がなかったことを示しているのかもしれません。

真田信之
真田昌幸
徳川家康

ですが、もし信繁が浅野家に捕まっていたら

300人もの人が動けば、どうしても目立ちます。家族を連れた組、高野山の僧の組、地元の侍の組。どれか一つでも浅野家の見張りに見つかれば、ほかの組の動きも知られてしまいます。

もし紀ノ川の舟が止められ、あるいは峠で浅野の兵に囲まれ、信繁が捕まっていたら。信繁本人と、真田家と、九度山の人々に何が起きたのかを考えます。

こうなったかもしれない

1. 紀ノ川か峠で、浅野の網にかかる

九度山から大坂へ向かうには、紀見峠をこえて河内へ出るのがいちばんの近道です。けれど、そこは浅野家がもっとも厳しく見張っていた道でした。信繁はこの道をさけ、紀ノ川を舟で西へ下ってから、北の山をこえて中高野街道へ出たのではないか、という見方があります。

遠回りでも見張りの少ない道を選ぶ。脱出の成功は、この道選びにかかっていました。もし浅野家が紀ノ川の舟まで見張っていたら、信繁は川の上で逃げ場を失ったはずです。

九度山から大坂城への脱出の道すじのイメージ図
九度山から大坂城への道すじ(イメージ図、諸説あり)

2. 信繁は「命令を破って逃げた者」になる

九度山での暮らしは、徳川の命令による蟄居でした。それを破って大坂へ向かおうとしたことが明らかになれば、信繁はもう許されません。死罪か、もっと遠くへの流罪か。いずれにしても、九度山に戻って静かに暮らす道は閉ざされます。

父の昌幸は、兄の信之を通じて何度も赦しを願いましたが、最後まで許されませんでした。命令を破った信繁に、赦しの道が残るとは思えません。

3. 兄・信之の真田家が疑われる

いちばん苦しい立場に立たされるのは、兄の信之です。信之は徳川方の大名で、大坂の陣では息子たちを徳川方として出陣させることになっていました。その弟が大坂へ走ろうとして捕まれば、「兄は知っていたのではないか」と疑われかねません。

信之は、関ヶ原のあと父と弟の命乞いをして、二人を九度山送りにとどめた人です。その弟が命令を破れば、信之の取りなしそのものが問われます。信之は、自分から弟の重い処分を願い出て、徳川への忠義を示すしかなかったかもしれません。

4. 九度山の村人と高野山の僧も罰を受ける

信繁の脱出には、九度山の村人や地元の侍、高野山の僧たちが加わっていたとみられます。脱出が失敗すれば、手を貸した人々も罰を受けます。見て見ぬふりをした村人も、見張りの役目を果たさなかったとして責められたでしょう。

14年のあいだ、信繁とともに暮らしてきた九度山の人々にとって、それはあまりに重い結末です。信繁が大勢を巻きこむ脱出に踏み切ったのは、失敗したときの重さを分かったうえでのことだったはずです。

5. 大坂城は「真田」の看板を失う

大坂方にとっても、信繁が来ないことは大きな痛手でした。全国から集まった浪人の中で、徳川の大軍を二度も退けた昌幸の子という信繁の名は、特別な重みを持っていました。真田が大坂城に入ったと聞いた家康が「親か子か」と尋ね、子と知ってほっとしたという逸話も伝わりますが、それだけ真田の名は恐れられていたのです。

信繁がいなければ、冬の陣の真田丸もありません。それがどういう意味を持ったかは、もし真田幸村が九度山を出なかったら?の記事で考えています。そのうえ、信繁が捕まったという知らせは、大坂城に集まった浪人たちの心を大きくゆさぶったでしょう。

6. 九度山に残るより、ずっと悪い

九度山に残ることを選んでいれば、信繁は豊臣家が滅んだあとに赦され、兄のもとへ帰れたかもしれません。息子の大助も生きのびたでしょう。

けれど、脱出に失敗すれば、そのどちらも失います。信繁本人は罰せられ、兄の家は疑われ、九度山の人々も責めを負う。そして「日本一の兵」の名も残りません。脱出は、成功すれば伝説に、失敗すればすべてを失う、まさに命がけの賭けでした。

まとめ

  • 信繁は1614年10月9日、浅野家の見張りをくぐりぬけて九度山を出た。同行者は300人ほどで、いくつかに分かれて大坂へ向かったとみられる
  • 捕まっていれば、信繁は徳川の命令を破った者として重く罰せられた
  • 兄・信之の真田家も疑われ、九度山の村人や高野山の僧も罰を受けた
  • 大坂方は「真田」の看板を失い、冬の陣の真田丸もなかった
  • 九度山に残るよりもずっと悪い結末で、脱出は命がけの賭けだった

筆者の感想

三光神社(大阪市天王寺区)(筆者撮影/日本の歴史旅ガイドより)

大阪城の南、真田丸があったとされるあたりには、三光神社が立っています。境内には信繁の像と、大坂城へ通じていたという「真田の抜け穴」が残ります。九度山にも同じように「真田の抜け穴」の言い伝えがあり、信繁はそこから大坂へ抜けたと語られてきました。実際の九度山の抜け穴は古墳の石室だったと分かっていますが、人々はそれほどまでに、信繁の脱出を劇的な物語として語りつぎたかったのだと思います。

本当の脱出は、抜け穴のような一発の奇策ではなく、道を選び、人を分け、見張りの目をそらす、地道な準備の積み重ねだったはずです。もし一つでもまちがえていれば、私たちの知る「真田幸村」はいませんでした。ドラマの幸村たちが濁流の大河をどう渡るのか、第3話の見どころの一つです。

あなたは、信繁の脱出が失敗していたら、真田家はどうなったと思いますか?

よくある質問

信繁はどうやって九度山を抜け出したの?

村人に酒をふるまって酔わせたすきに逃げたという話が知られていますが、のちの脚色とみられています。家族や家臣、地元の侍、高野山の僧など300人ほどが、いくつかに分かれて大坂へ向かったという見方があります。

九度山の真田家を見張っていたのは誰?

紀伊を治めていた浅野長晟です。高野山の僧や九度山の村人、紀見峠のあたりの百姓に、信繁を大坂へ行かせないよう命じていたと伝わります。

「真田の抜け穴」は本当にあったの?

九度山の「真田の抜け穴」は、昭和28年(1953)の調査で古墳の石室だと分かりました。大坂城へ通じる地下道ではありません。

合わせて読みたい記事

大河『豊臣兄弟!』IF特集
目次