もし秀吉が方広寺の大仏を建てなかったら?鐘銘事件は起きず、家康は「時間」を失ったか【豊臣兄弟!】

方広寺の大仏

『豊臣兄弟!』では、第43回で秀長が大仏建立を大義名分に刀狩りの衝突を避け、第44回では大仏建立の大号令で京がわきたつなか、秀長が熊野の材木集めを命じられます。この大仏が、京都の方広寺の大仏です。

じつはこの大仏は、のちに豊臣家の運命を大きく変えることになります。秀頼が再建した大仏の鐘に刻まれた「国家安康」の文字が、大坂の陣のきっかけになったからです。もし秀吉が方広寺の大仏を建てなかったら、大坂の陣は防げたのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

豊臣秀頼
父の夢だった大仏の再建に力を注いだ豊臣秀頼(イメージ)
目次

先に結論:大坂の陣は防げない。ただし、家康は「時間」を失ったかもしれない

先に私の答えを書いておきます。大仏がなく、鐘銘事件が起きなかったとしても、家康は別の口実を見つけて豊臣家を追いつめたと思います。家康にとって、大坂城に秀頼がいること自体が、徳川の世の不安のたねだったからです。

ただ、口実を見つけるまでに時間がかかれば、話は変わります。家康は1616年に75歳で亡くなりました。大坂の陣が数年遅れていれば、家康が先に亡くなり、豊臣家は大名として残る道があったかもしれません。大仏は、家康に「ちょうどよい時期の口実」を与えてしまったのです。

史実:方広寺の大仏の歩み

年 出来事
1586年(天正14年) 秀吉が東大寺にならい、京に大仏をつくり始める
1588年 刀狩令で集めた刀を大仏の釘などにすると定める
1595年 高さ約19メートルともいわれる木造の大仏が完成
1596年 慶長伏見地震で大仏がこわれる
1598年 秀吉が亡くなる
1602年 秀頼が銅で再建中、火事で大仏殿ごと焼ける
1612年 秀頼が銅の大仏を完成させる
1614年7月 鐘の銘「国家安康」「君臣豊楽」を家康が問題にする(方広寺鐘銘事件)
1614年冬 大坂冬の陣

秀頼は、父の夢だった大仏の再建に、豊臣家の莫大な金銀をつぎこみました。家康がこの再建をすすめたのは、豊臣家の財力をけずるためだったともいわれます。そして完成まぢかの1614年、鐘の銘が「家康の名を二つに切って呪い、豊臣の繁栄を願っている」と問題にされました。

方広寺の大仏から大坂の陣への年表図
秀吉が始めた大仏は、地震、火事、再建をへて、大坂の陣のきっかけになった(年表図)

鐘銘事件は「言いがかり」だったのか

「国家安康」「君臣豊楽」の文字について、家康側は、家康の名を切り離し、豊臣を君として楽しむ意味だと責めました。いまでは言いがかりだったという見方が多い一方、家康の名を断りなく使ったことは当時の作法として問題があった、という見方もあります。

いずれにしても、この事件で豊臣家の家老・片桐且元が交渉に走り、家康の要求を伝えたことで豊臣方から疑われ、大坂城を出ることになります。豊臣家は、家康との交渉役を失い、戦へと進んでいきました。

片桐且元
鐘銘事件の交渉にあたり、豊臣方から疑われて大坂城を去った片桐且元(イメージ)

もしも:秀吉が方広寺の大仏を建てなかったら

第1段階:刀狩りの名目が変わる(1588年)

大仏がなければ、刀狩令に「大仏の釘にする」という名目は書けません。秀吉は「一揆を防ぐため」と正面から言うか、別の寺社づくりを名目にしたでしょう。ドラマで秀長が使った大義名分も、別のものになっていたはずです。

第2段階:豊臣家の金銀が残る(1598〜1614年)

史実の秀頼は、大仏のほかにも多くの寺社を再建し、莫大な金銀を使いました。大仏がなければ、その分の金銀が大坂城に残ります。大坂の陣で豊臣方が集めた浪人は10万ともいわれますが、さらに多くの兵や兵糧を用意できたかもしれません。

第3段階:家康は別の口実をさがす

家康は、秀頼を大坂城から出すか、豊臣家を一大名として従わせたいと考えていました。鐘銘事件がなくても、浪人を集めていること、大坂城の修理、秀頼の上洛拒否など、口実になりそうなことはいくつもあります。

けれど、鐘銘事件ほど「豊臣家が徳川をのろった」と世間に言える口実は、そう簡単には見つかりません。家康が口実を整えるのに、1年、2年とかかっていたら。

家康に残された時間のイメージ図
家康は1616年4月に亡くなった。大坂の陣が数年遅れていたら、結果は変わったかもしれない(イメージ図)

その先:家康が先に亡くなっていたら

家康が大坂の陣の前に亡くなっていれば、徳川家の当主は秀忠になります。秀忠は関ヶ原に遅れた経験もあり、豊臣恩顧の大名たちの前で、太閤の子に兵を向けるのは簡単ではありません。豊臣家は、大坂城を出て大和などに移り、一大名として残る道を選べたかもしれません。

一方で、秀忠が家康以上にきびしく豊臣家に当たった可能性もあります。豊臣家が生き残れるかどうかは、そのとき淀殿と秀頼が城を出る決断ができるかにかかっていたと思います。

老いた秀吉
晩年の秀吉。大仏は、秀吉が豊臣の世の繁栄を願って始めたものだった(イメージ)

まとめ:秀吉が方広寺の大仏を建てなかったら

問い 答え(予想)
鐘銘事件は 起きない
大坂の陣は 防げない。家康は別の口実をさがす
豊臣家の金銀は 大仏の再建に使わず、大坂城に残る
いちばんの変化 口実さがしに時間がかかれば、家康が先に亡くなる可能性
刀狩りは 名目が変わるが、刀狩り自体は行われる

筆者の感想

秀吉が豊臣の世の繁栄を願って始めた大仏が、めぐりめぐって豊臣家をほろぼすきっかけになる。歴史の皮肉を感じずにはいられません。ドラマで秀長が材木集めに奔走した大仏が、のちにこんな運命をたどると思うと、見え方が変わってきます。

ただ、鐘銘事件がなくても、家康は豊臣家を放っておかなかったでしょう。豊臣家に足りなかったのは大仏ではなく、時間と、城を出る決断だったのかもしれません。あなたは、大仏がなければ豊臣家は生き残れたと思いますか?

よくある質問

方広寺の大仏はいまもあるの?

ありません。秀頼が再建した銅の大仏は1662年の地震でこわれ、のちに木造で再建されましたが、1798年の落雷による火事で焼けました。方広寺には、問題になった鐘がいまも残っています。

方広寺鐘銘事件とは?

1614年、秀頼が再建した方広寺の鐘の銘に「国家安康」「君臣豊楽」とあり、家康側が家康の名を切って呪い、豊臣の繁栄を願うものだと問題にした事件です。これが大坂冬の陣のきっかけになりました。

大仏の高さはどれくらいだったの?

秀吉の木造の大仏は、約19メートルともいわれ、奈良の東大寺の大仏より大きかったと伝わります。

大河『豊臣兄弟!』IF特集
目次