もし秀吉の妹・あさひが長生きしていたら?家康の天下取りは止められず、それでも大坂の陣はためらわせた【豊臣兄弟!】

母なかと四人のきょうだい

『豊臣兄弟!』第46回では、茶々が鶴松を産んで豊臣家がわくなか、病がおもくなっていくあさひの姿が描かれるようです。故郷を恋しがるあさひのために、家族が庭に田んぼをつくり、あさひは豊臣の家族のあたたかさに包まれながら息を引き取ります。

秀吉の妹・あさひは、家康を臣従させるため、44歳で家康の正室として嫁がされました。そして嫁いでわずか4年、48歳で亡くなります。もしあさひが長生きしていたら、徳川と豊臣の関係は変わったのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

秀吉と家康
あさひの輿入れは、秀吉が家康を臣従させるための大きな一手だった(イメージ)
目次

先に結論:家康の天下取りは止められない。けれど豊臣家を「滅ぼす」ことはためらわせた

先に私の答えを書いておきます。あさひが長生きしても、関ヶ原の戦いで家康が天下をにぎる流れは止められなかったと思います。家康は、情で天下をあきらめる人ではありません。

ただ、大坂の陣は別です。家康の正室であり、秀頼の叔母でもあるあさひが生きていれば、豊臣家を攻めほろぼすことは、家康にとって「妻の実家を滅ぼす」ことになります。あさひは、北政所とならんで両家の和睦をとりもつ役になり、豊臣家が大名として残る道が開けたかもしれません。

史実:あさひの生涯

年 出来事
1543年(天文12年) 尾張中村で生まれる。秀吉・秀長の妹
(年は不明) 尾張の武士に嫁ぐ。夫の名は佐治日向守とも副田甚兵衛ともいわれる
1586年5月(天正14年) 夫と離縁させられ、浜松の家康のもとへ嫁ぐ。44歳
1586年10月 秀吉が母・なかを人質として岡崎へ送り、家康が上洛して臣従
1586年末〜 家康が駿府に移り、あさひは「駿河御前」と呼ばれる
1588年 母・なかの病気見舞いで上洛し、そのまま京にとどまる
1590年1月 聚楽第で亡くなる。48歳。この年、秀吉は小田原攻めへ

あさひは、家康のもとにいたのは実質2年ほどで、晩年は母のいる京で過ごしました。家康との夫婦仲がどうだったのかは、くわしくはわかっていません。ただ、家康はあさひの死後、長く正室をおいていません。

徳川家康
あさひの夫となった徳川家康(イメージ)

あさひは「かすがい」だった

あさひは、秀吉の妹であると同時に、家康の正室でした。家康の跡継ぎ・秀忠にとっては、形の上では「母」にあたります。秀忠は1590年に上洛し、秀吉に会っていますが、これはあさひが亡くなった直後のことでした。

あさひをめぐる人びとの関係図
あさひは、豊臣家と徳川家をつなぐ位置にいた(関係図)

もしも:あさひが長生きしていたら

第1段階:関東移封と江戸(1590年〜)

あさひが元気なら、1590年に家康が関東に移るとき、あさひも江戸に入ったはずです。江戸城の奥をとりしきるのは、秀吉の妹。豊臣と徳川の結びつきは、史実よりずっと強く見えたでしょう。

第2段階:秀吉の死と関ヶ原(1598〜1600年)

1598年に秀吉が亡くなったとき、あさひは55歳です。家康が大名たちと勝手に縁組を進め、天下取りに動き出すと、あさひの立場は苦しくなります。夫の野心と、兄の遺児・秀頼のあいだで板ばさみです。

けれど、あさひに家康を止める力はなかったと思います。関ヶ原の戦いは、表向きは「石田三成を討つ戦い」でした。家康が豊臣家に弓を引く形ではないので、あさひも強くは反対できなかったでしょう。

聚楽第
あさひが晩年を過ごし、亡くなった聚楽第(イメージ)

第3段階:大坂の陣の前に(1614年)

大坂の陣のころ、あさひは71歳です。生きていれば、北政所とともに、淀殿と秀頼に「城を出て一大名として生きるように」と説いたはずです。そして家康には、兄の子を攻めほろぼさないよう願ったでしょう。

家康にとって、正室の実家を攻めほろぼすことは、世間の目もあって簡単ではありません。秀頼を大和や四国などに移し、豊臣家を一大名として残す。そんな落としどころが見つかった可能性はあると思います。

もしあさひが長生きしていた場合の関係図
あさひは、豊臣家と徳川家の両方に話ができる数少ない人物になったはず(関係図)

その先:豊臣家が残るとしたら

豊臣家が大名として残れば、秀頼はあさひの縁で徳川家の親戚となり、江戸時代の大名の一つとして続いたかもしれません。秀頼の妻は秀忠の娘・千姫で、あさひから見ればその千姫も形の上で孫にあたります。豊臣と徳川は、二重三重の縁でむすばれていたのです。

まとめ:あさひが長生きしていたら

問い 答え(予想)
関ヶ原は 止められない。表向きは三成との戦いで、あさひも反対しにくい
大坂の陣は あさひと北政所の仲立ちで、和睦の道が残る可能性
豊臣家は 城を出て一大名として残れたかもしれない
あさひ自身は 夫と兄の家のあいだで、苦しい立場が続く

筆者の感想

あさひの人生をたどると、兄の天下取りのために夫と別れさせられ、44歳で見知らぬ土地に嫁がされた、つらい一生に見えます。ドラマで家族が庭に田んぼをつくる場面は、そんなあさひへのせめてもの救いとして描かれているのでしょう。

もしあさひが長生きしていたら、豊臣家の最後はちがう形になっていたかもしれません。豊臣家を支えたのは、秀長のような男たちだけでなく、ねね、とも、あさひ、そして母のなかといった女性たちでもあったのだと思います。あなたは、あさひが生きていたら大坂の陣は防げたと思いますか?

よくある質問

あさひ(朝日姫)とはどんな人?

豊臣秀吉・秀長の妹で、1543年生まれです。1586年、家康を臣従させるため家康の正室として嫁ぎ、1590年に聚楽第で亡くなりました。

あさひはなぜ家康に嫁いだの?

小牧・長久手の戦いのあとも臣従しない家康を従わせるため、秀吉が妹を嫁がせました。さらに母・なかも人質として送り、ようやく家康は上洛しました。

あさひのお墓はどこにあるの?

京都の東福寺の塔頭・南明院にあると伝わります。また、静岡市の瑞龍寺にも供養塔があります。

大河『豊臣兄弟!』IF特集
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