もし佐々成政が肥後で一揆を起こさせなかったら?3年検地をがまんすれば、成政は肥後の大名として残れたか【豊臣兄弟!】

佐々成政(イメージ)

『豊臣兄弟!』第43回「殿下の刀狩り」では、肥後の大名となった佐々成政が、急いで進めた検地で一揆を招き、切腹させられる場面が描かれます。成政は、本能寺の変のあと秀吉と戦い、雪の立山を越えて家康に会いに行ったことでも知られる、気骨のある武将でした。

その成政が、九州で大名として生まれ変わる機会を手にしながら、わずか1年で命を落とします。もし成政が肥後で一揆を起こさせず、うまく治めていたら。成政は肥後の大名として生き残れたのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

太閤検地と刀狩
秀吉は全国で検地を進めた。成政はその検地を、肥後で急ぎすぎた(イメージ)
目次

先に結論:成政は肥後の大名として残れた。ただし、それは「秀吉の約束を守りきれたら」の話

先に私の答えを書いておきます。秀吉が出した条件どおり、国衆の領地を認め、3年は検地をせずにじっと待っていれば、成政は肥後の大名として生き残れたと思います。

けれど、それは成政にとって、とてもむずかしいことでした。越中から大勢の家臣を連れてきた成政は、彼らに与える土地をすぐにでも用意しなければならなかったからです。成政の失敗は、性格だけでなく、置かれた立場そのものから生まれたものでした。

史実:成政が肥後で過ごした1年

年月 出来事
1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦いで秀吉と敵対。冬に立山を越えて家康に会いに行く(さらさら越え)
1585年 秀吉に降伏。越中の新川郡だけを残され、のちに秀吉のそばに仕える
1587年5月(天正15年) 九州平定のあと、球磨・天草をのぞく肥後一国を与えられる
1587年7月 検地に反発した国衆が一揆をおこす(肥後国人一揆)。隈部親永が中心
1587年末 小早川隆景・立花宗茂らの援軍で一揆を鎮める
1588年閏5月14日 摂津尼崎で切腹を命じられる
1588年 肥後は北半国を加藤清正、南半国を小西行長に分けて与えられる

秀吉は成政に肥後をまかせるとき、条件をつけていました。国衆がもともと持っていた領地はそのまま認めること、3年のあいだは検地をしないこと、一揆をおこさせないこと、です。成政はこの条件を守れず、一揆を招いてしまいました。安国寺恵瓊が助命を願いましたが、許されなかったと伝わります。

加藤清正
成政のあと、肥後の北半国に入った加藤清正(イメージ)

なぜ成政は検地を急いだのか

成政が条件を破った理由として、よく言われるのは「せっかちな性格」です。けれど、成政の立場を考えると、急がざるをえない事情もありました。

事情 中身
家臣の土地がない 越中を失ってから家臣たちは土地をもらえず、肥後で早く知行を与える必要があった
国衆が強い 肥後は小さな領主が多く、それぞれが自分の土地をしっかりにぎっていた
土地の広さがわからない 検地をしなければ、どれだけの年貢がとれ、家臣に何石わたせるかがわからない
秀吉のもとで出直し 一度は秀吉と戦った身。早く成果を見せたかったとも考えられる

国衆の土地をそのまま認めれば、成政が家臣に分ける土地は残りません。家臣に土地を与えるには、検地で国衆の土地を洗い出すしかない。成政は、秀吉の条件と家臣の暮らしのあいだで、板ばさみになっていたのです。

佐々成政の板ばさみ(秀吉・家臣・国衆の関係図)
秀吉の条件、家臣の暮らし、国衆の土地。成政は三つの板ばさみになっていた(関係図)

なお、秀吉ははじめから、成政に強引な統治をさせて国衆をまとめて片づけ、そのあと成政も処分するつもりだったのではないか、という見方もあります。

もしも:成政が3年間、検地をがまんしていたら

第1段階:家臣を「蔵入地」でしのがせる(1587年)

成政が条件を守るには、家臣に土地を与えるかわりに、成政の直轄地(蔵入地)からとれた米を給料として配る方法があります。家臣たちは不満でも、3年がまんしてくれと頭を下げる。越中の時代から苦楽をともにした家臣たちなら、ついてきてくれたかもしれません。

第2段階:国衆を味方にする

3年のあいだに、成政は隈部親永ら国衆の家をたずね、縁組や役目を与えて、少しずつ自分の家臣に組みこんでいきます。成政は信長の時代から、越中で一向一揆や国衆と向き合ってきた経験があります。力でおさえるだけでなく、話し合いで治める力も持っていたはずです。

第3段階:3年後の検地(1590年)

1590年、秀吉が小田原の北条を攻めるころ、成政はようやく肥後で検地を始めます。このころには太閤検地が全国で進み、国衆も「検地は天下の決まり」と受け入れやすくなっています。一揆をおこさずに検地を終えられれば、成政は名実ともに肥後の大名になります。

その先:肥後に成政がいたら、九州はどう変わったか

成政が肥後に残れば、史実で肥後に入った加藤清正と小西行長は、別の土地へ行くことになります。

人物 史実 もしも(予想)
佐々成政 1588年に切腹 肥後の大名として残る
加藤清正 肥後北半国19万石。熊本城を築く 九州の別の土地か、上方で秀吉のそばに
小西行長 肥後南半国14万石 瀬戸内など、水軍を生かせる土地に
熊本城 清正が築いた名城 成政が隈本城を広げるが、いまの熊本城とはちがう城に
成政のあとの肥後の分割(イメージ図)
成政のあと、肥後は北を加藤清正、南を小西行長に分けられた(イメージ図)

清正が肥後に来なければ、いまの熊本城は生まれていなかったかもしれません。熊本の町そのものの形が、大きく変わっていたことになります。

朝鮮出兵では

1592年の朝鮮出兵では、九州の大名が先頭に立たされました。成政も肥後の大名として、渡海を命じられたはずです。このとき成政は50代半ばとされます。年齢を考えると、渡海は家臣にまかせ、自分は名護屋や肥後で後方を支える役になったかもしれません。

関ヶ原では

成政がもし関ヶ原まで生きていれば、60代の半ばです(生まれた年には諸説あります)。家督を子や養子にゆずっていたかもしれません。かつて家康のもとへ雪の立山を越えた成政の家なら、関ヶ原では東軍につくのが自然です。九州で東軍の大名がひとつ増えることになります。

まとめ:成政が肥後で一揆を起こさせなかったら

問い 答え(予想)
成政は生き残れたか 秀吉の条件を守り、3年検地をがまんすれば残れた
なぜ守れなかったのか 家臣に与える土地がなく、検地を急ぐしかない立場だった
肥後はどうなる 清正と行長は肥後に入らず、熊本城もいまとはちがう城に
関ヶ原では 家康と縁のある佐々家は東軍につく可能性が高い

筆者の感想

成政というと、さらさら越えのような熱い話が有名ですが、肥後での失敗を調べると、家臣を食べさせなければならない大名のつらさが見えてきます。秀吉の「3年は検地をするな」という条件は、守れるものなら守ってみろ、という試験だったのかもしれません。

もし成政が肥後に残っていれば、熊本城も、清正の名も、いまとはちがう形で語られていたはずです。あなたは、成政が肥後の大名として生き残れたと思いますか?

よくある質問

佐々成政はなぜ切腹したの?

肥後で検地を急いだことで国衆の一揆(肥後国人一揆)を招き、その責任を問われたためです。1588年閏5月14日、摂津尼崎で切腹しました。

秀吉は成政にどんな条件を出したの?

国衆がもともと持っていた領地を認めること、3年のあいだは検地をしないこと、一揆をおこさせないこと、などの条件を示したと伝わります。

成政のあと、肥後はだれのものになったの?

北半国を加藤清正(19万石)、南半国を小西行長(14万石)が治めることになりました。清正はのちに熊本城を築いています。

さらさら越えとは?

1584年の冬、成政が越中から雪の立山連峰を越えて浜松の家康のもとへ向かい、秀吉との戦いを続けるよう説いたとされる出来事です。

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