もし仙丸(藤堂高吉)が秀長の跡を継いでいたら?鍋丸と同じ「血のつながらない養子」が当主になった豊臣秀長家

藤堂高吉(仙丸)(イメージ)

『豊臣兄弟!』で秀長と慶の養子になった鍋丸は、秀長と血のつながりのない少年として描かれています。そして史実の秀長にも、血のつながらない養子がいました。丹羽長秀の三男・仙丸、のちの藤堂高吉です。

仙丸は秀長の養子となりながら、一門から跡継ぎを立てることになり、藤堂高虎の養子に出されました。もし仙丸がそのまま秀長の跡を継いでいたら、秀長の家はどうなったのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

丹羽長秀
仙丸の父・丹羽長秀。織田家の重臣で、秀吉にとって大事な味方だった(イメージ)
目次

先に結論:秀次事件に巻きこまれず、秀長の家は残った。ただし豊臣一門からは外れる

先に私の答えを書いておきます。仙丸が跡を継いでいれば、秀長の家は1595年に絶えることはなかったと思います。史実の跡継ぎ・秀保は秀次の弟だったため、秀次事件の年に家が途切れましたが、仙丸は秀次と血のつながりがありません。

ただし、秀吉は豊臣の血を引かない者に、大和の大領と郡山城を任せ続けることはしなかったでしょう。秀長が亡くなったあと、仙丸の家は「秀長の名を継ぐ一大名」として領地をけずられ、豊臣一門の柱からは外れていったはずです。それでも仙丸は92歳まで生きた人です。長生きの当主のもとで、秀長の家は江戸時代まで続いたかもしれません。

鍋丸と仙丸はよく似ている

くらべるもの ドラマの鍋丸 史実の仙丸(藤堂高吉)
生まれ 直が救った娘の子 丹羽長秀の三男。1579年生まれ
秀長との血縁 なし なし
養子になった理由 直との縁を大切にしたいという慶の思い 秀吉が丹羽家との結びつきを強めるため
反対・障害 秀次が「血のつながらぬ者」と反対 秀吉が一門の甥(秀保)を跡継ぎに選ぶ

ドラマで秀次が口にした「血のつながらぬ者を」という言葉は、史実の仙丸がたどった運命そのものです。血のつながらない養子は、一門の子があらわれれば、跡継ぎの座からはずされる。仙丸の人生は、鍋丸のこれからを考えるうえでも大きな手がかりになります。

藤堂高吉(仙丸)
のちの藤堂高吉(仙丸)(イメージ)

史実:仙丸の生涯

年 出来事
1579年(天正7年) 丹羽長秀の三男として生まれる。秀保と同じ年の生まれ
1582年 本能寺の変のあと、秀吉のはからいで秀長の養子となる
1585年 父・丹羽長秀が亡くなる。丹羽家は大きく領地をけずられる。秀長は仙丸に1万石を与える
1588年 秀吉の甥・秀保が秀長の婿養子に。仙丸は藤堂高虎の養子となる
1600年代はじめ 高虎に実子・高次が生まれ、高吉は藤堂家の家臣の立場になる
1608年以降 藤堂家が伊勢・伊賀に移ると、今治城を預かる。のちに伊賀名張に移る
1670年(寛文10年) 92歳で亡くなる。子孫は名張藤堂家として続く

仙丸は、秀長の跡継ぎからも、藤堂家の跡継ぎからも、実子があらわれるたびに外されました。それでも腐ることなく藤堂家を支え、名張の町の基礎を築いています。いまの三重県名張市には、名張藤堂家の屋敷跡が残っています。

なぜ秀吉は仙丸を外したのか

仙丸が秀長の養子になった1582年、丹羽長秀は織田家の重臣で、秀吉にとって大事な味方でした。仙丸を秀長の養子にしたのは、丹羽家と羽柴家を結びつけるためだったと考えられます。

ところが1585年に長秀が亡くなると、丹羽家は領地を大きくけずられ、もう秀吉が気をつかう相手ではなくなりました。そして1588年、秀吉は自分の姉の子・秀保を秀長の跡継ぎにします。丹羽家との縁より、豊臣の血を優先したのです。

郡山城で政務をとる豊臣秀長
郡山城で政務をとる秀長。仙丸は幼いころからそのそばで育った(イメージ)

もしも:仙丸が秀長の跡を継いでいたら

第1段階:秀吉を説き伏せる(1588年)

仙丸が跡継ぎのまま残るには、秀長が秀吉を説き伏せる必要があります。「仙丸は幼いころから手もとで育てた子。丹羽家の旧臣も仙丸を慕っている」。秀長がそう言えば、秀吉も弟の願いをむげにはできなかったかもしれません。秀保には別の家を立てさせる、という形です。

第2段階:秀長の死と家督(1591年)

1591年、秀長が亡くなり、13歳の仙丸が家を継ぎます。秀保が継いだ史実と同じ年齢です。ちがうのは、秀吉から見て「身内」ではないことです。

秀吉は、豊臣の血を引かない仙丸に、大和・紀伊などの大領をそのまま任せはしないでしょう。郡山城は取り上げ、紀伊などをけずって、仙丸の家を十数万石ほどの大名にすると思います。家老は史実で仙丸の養父になった藤堂高虎です。高虎が仙丸を支え、秀長の家臣団をまとめます。

第3段階:秀次事件を素通りする(1595年)

ここが史実との一番大きなちがいです。史実の秀保は、秀次の弟でした。秀保は事件の3か月前に十津川で亡くなり、秀長の家はそこで絶えています。

仙丸は秀次と血のつながりがありません。秀次事件が起きても、仙丸の家が疑われる理由はほとんどありません。秀長の家は、豊臣一門が次々と消えていくなかで、静かに生き残ります。

築城を指揮する藤堂高虎
仙丸の養父となった藤堂高虎。仙丸が秀長の家を継げば、その家老として支えたはず(イメージ)

第4段階:関ヶ原(1600年)

関ヶ原で、仙丸はむずかしい立場に立ちます。実家の丹羽家の当主で兄の丹羽長重は、加賀で前田家と戦い、戦いのあと領地を取り上げられました。いっぽう、家老の藤堂高虎は東軍の中心人物の一人です。

仙丸は高虎とともに東軍につくでしょう。実家ではなく、秀長の家を守る道を選ぶわけです。戦いのあと、仙丸の家は東軍の大名として残ります。史実では、長重もやがて許されて大名に返り咲き、丹羽家は二本松藩として明治まで続きました。仙丸が大名として残っていれば、兄の復帰に力を貸したかもしれません。

その先:92歳の当主

仙丸は1670年まで生きました。もし秀長の家の当主だったら、関ヶ原から70年、大坂の陣から55年もの間、家を率いたことになります。秀長の家は「豊臣の家」ではなく、「秀長の名を伝える家」として、江戸時代に根を下ろしたのではないでしょうか。

まとめ:仙丸が秀長の跡を継いでいたら

問い 答え(予想)
秀長の家は続いたか 続く。秀次と血のつながりがなく、秀次事件に巻きこまれない
郡山は守れたか 守れない。豊臣の血を引かないため、大領はけずられる
関ヶ原では 家老の藤堂高虎とともに東軍。実家の丹羽家とは別の道
その先 92歳まで生きた当主のもと、秀長の名を伝える家として江戸時代に残った可能性

筆者の感想

仙丸の人生を追ってみると、二度も跡継ぎの座から外されながら、92歳まで藤堂家を支え続けたことに驚きます。血のつながりがすべてだった時代に、それでも自分の場所を見つけて生きた人だったのだと思います。

ドラマの鍋丸も、秀次から「血のつながらぬ者」と言われました。鍋丸が仙丸と同じように跡継ぎの座から外されるのか、それとも別の道を歩むのか。これからの放送で注目したいところです。あなたは、仙丸が秀長の跡を継いでいたら、秀長の家は豊臣家より長く続いたと思いますか?

よくある質問

仙丸(藤堂高吉)とはどんな人?

丹羽長秀の三男で、1579年生まれです。秀長の養子となったのち、藤堂高虎の養子となり、藤堂高吉と名乗りました。高虎に実子が生まれると家臣の立場になり、今治城を預かったのち伊賀名張に移りました。1670年に92歳で亡くなっています。

なぜ仙丸は秀長の跡継ぎから外されたの?

1588年、秀吉が自分の姉の子・秀保を秀長の跡継ぎに選んだためです。丹羽長秀が亡くなり、丹羽家との結びつきの意味が小さくなったことも背景にあったと考えられます。

ドラマの鍋丸のモデルは仙丸なの?

ドラマの鍋丸はオリジナルの人物と考えられ、モデルは豊臣秀保だとする見方が多いようです。ただ、血のつながらない秀長の養子という点では、仙丸と重なるところがあります。

名張藤堂家とは?

藤堂高吉の子孫の家で、津藩藤堂家の一門として伊賀名張を治めました。いまの三重県名張市に屋敷跡が残っています。

大河『豊臣兄弟!』IF特集
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