もし伊達政宗があと10年早く生まれていたら、1587年の惣無事令のとき、政宗は陸奥・出羽をのみこむ約150万石の「奥羽の王」になっていたのではないか。1本目の記事では、そう予想しました。2本目の記事では、その政宗が北条と組んで秀吉と戦っていたら、を考えました。
今回は、もう一つの道です。奥羽の王となった政宗が、秀吉と戦わずに、1590年の小田原攻めで降伏していたら、どこまで領地を残せたのでしょうか。
先に結論:150万石から約80万石へ。豊臣の大名に囲まれる
先に私の答えを書いておきます。政宗が小田原に参陣して降伏すれば、伊達家そのものは生きのこります。けれど、会津や仙道、大崎・葛西、南部の旧領は取り上げられ、残るのは米沢・福島・二本松・小浜と、今の宮城県の中南部あたり。石高は約150万石から約80万石まで、ほぼ半分にけずられたのではないでしょうか。
そして取り上げられた土地には、蒲生氏郷や木村吉清といった豊臣の家臣が入り、伊達家をまわりから見はる形になります。従っていた大名たちも、みな秀吉の直臣として伊達家から切りはなされます。「奥羽の王」は、豊臣政権の中の一大名になるのです。

前提:1587年の時点で、政宗が持っていたもの
まず、1本目の記事で予想した、惣無事令のときの伊達領をふり返っておきます。
| 区分 | おもな領地・大名 | 石高(目安) |
|---|---|---|
| 伊達家の直轄 | 米沢・伊達・信夫、会津、仙道(二本松・小浜・須賀川など)、大崎・葛西、南部の旧領 | 約130万石 |
| 伊達家に従う大名 | 相馬、田村、石川、津軽、小野寺、戸沢、九戸 | 約20万石 |
| まだ従っていない | 最上(山形)、安東(秋田)、大宝寺(庄内) | ― |

史実で政宗がいちばん大きくなったのが約114万石ですから、それよりひとまわり大きな大名です。秀吉から見れば、関東の北条よりも先に、なんとかしておきたい相手だったはずです。
第1段階:小田原へ参陣する(1590年)
1590年、秀吉は20万をこえる大軍で、小田原の北条家を囲みます。そして奥羽の大名たちにも、小田原へ来て従うよう命じました。
史実の政宗は、ぎりぎりまで迷ったすえに、6月になってようやく小田原に着きます。遅れたことをとがめられた政宗は、死を覚悟した白装束で秀吉の前にあらわれ、なんとか許されました。この場面は、10年早い政宗でも、きっと同じだったと思います。150万石の大名ともなれば、北条と組むか、秀吉に従うか、家臣の意見も大きくわかれていたはずだからです。
ちがうのは、このときの政宗が24歳ではなく、34歳だということです。若さで押し切るのではなく、遅れたぶんの土地を差し出す覚悟を決めて、小田原へ向かったのではないでしょうか。
第2段階:秀吉は「大きすぎる伊達」をけずる
秀吉は、降伏した大名をそのまま残すとはかぎりません。九州の島津家も、降伏したあとに領地を大きくけずられています。まして150万石の伊達家は、そのまま残すにはあまりに大きすぎます。
秀吉がつかう理屈は、二つあったと思います。一つは、小田原に遅れてきたこと。もう一つは、力ずくで奪った土地は、もとの家に返させるということです。史実でも秀吉は、惣無事令のあとに政宗が取った会津を、遅参の罰として取り上げています。10年早い政宗の場合は、もっと前に取った土地まで、まとめて差し出させられたのではないでしょうか。
奥州仕置:どこを取られ、だれが入るのか
小田原の北条家が降伏すると、秀吉は宇都宮、そして会津へと進み、奥羽の大名たちの領地を決めていきます。これが奥州仕置です。10年早い政宗の場合、次のようになったと予想します。
| 土地 | どうなる? | 入る大名 |
|---|---|---|
| 会津 | 伊達家から取り上げる | 蒲生氏郷(豊臣の家臣) |
| 仙道の諸家 | もとの家に返す | 白河家(白河)、二階堂家(須賀川)、石川家(石川)、田村家(三春)など |
| 大崎・葛西 | 小田原に来なかったので改易 | 木村吉清(豊臣の家臣) |
| 南部の旧領 | 二つに分け、どちらも安堵 | 南部信直(三戸)、九戸政実(九戸)。どちらも秀吉の直臣 |
| 従っていた大名 | 伊達家から切りはなし、領地は安堵 | 相馬、津軽、小野寺、戸沢、蠣崎(秀吉の直臣) |
| 最上・安東・岩城 | 小田原に参陣したので安堵 | 最上義光、秋田実季(安東から秋田に改める)、岩城常隆 |
| 庄内(大宝寺) | 小田原に来なかったので没収 | 大谷吉継(豊臣の家臣) |

会津には蒲生氏郷
会津は、奥羽と関東をつなぐ要の土地です。史実でも秀吉は、ここに信長の娘婿でもある名将・蒲生氏郷を入れ、伊達家ににらみをきかせました。10年早い政宗の場合も、会津は真っ先に取り上げられ、氏郷が入ったのではないでしょうか。
会津の東のはし、猪苗代湖のほとりにある猪苗代城も、会津の一部として蒲生領になります。猪苗代から峠をこえれば、すぐに二本松です。猪苗代城は、伊達家と向き合う蒲生方の最前線になったのではないでしょうか。
仙道の諸家は、もとの土地へ
白河の関から北へのびる仙道(今の福島県の中通り)には、白河・二階堂・石川・田村といった家がならんでいました。10年早い政宗は、この家々を攻め取ったり、従えたりしていました。秀吉は、これらの家をもとの土地にもどし、秀吉の直臣として独立させます。伊達家と会津の蒲生のあいだに、小さな大名をならべて、クッションにするのです。
史実では、白河・石川・田村の家は、小田原に来なかったとして、逆に領地を取り上げられています。けれど、伊達家の力をけずりたい秀吉にとっては、もとの家を立てなおすほうが都合がよかったのではないでしょうか。
大崎・葛西は改易、木村吉清へ
北の大崎家と葛西家は、10年早い政宗に従っていました。ところが、小田原へは挨拶に来ませんでした。伊達家に従っているのだから、と考えたのかもしれません。けれど秀吉は、これを許しません。両家は改易され、その土地には、秀吉の家臣・木村吉清が入ります。史実でも、大崎・葛西の両家は小田原に来なかったとして取りつぶされ、木村吉清が30万石を与えられています。
南部の旧領は、南部信直と九戸政実に
10年早い政宗は、われていた南部家をのみこんでいました。秀吉は、この南部の旧領を伊達家から取り上げ、二つに分けます。三戸の南部信直と、九戸の九戸政実です。
史実では、信直だけが南部家の当主として認められ、これに反発した九戸政実が1591年に兵をあげて、豊臣の大軍にほろぼされました(九戸政実の乱)。けれど、ここでは九戸も秀吉の直臣として、約3万石ほどを認められます。南部家を二つに分けておけば、どちらも大きくなりすぎない。秀吉らしいやり方ではないでしょうか。
最上・秋田・津軽などは安堵、大宝寺だけは没収
小田原に参陣した奥羽の大名たちは、そのまま領地を認められます。山形の最上義光、津軽為信、三戸の南部信直、九戸政実、角館の戸沢、横手の小野寺。どれも秀吉の直臣として、伊達家とは肩をならべる立場になります。浜通りの南、磐城の岩城常隆も小田原に参陣し、領地を安堵されます。佐竹家と縁の深い岩城家は、伊達家の南を見はる役目もになったのではないでしょうか。蝦夷地の蠣崎家も、のちに上洛して秀吉に従い、蝦夷地の支配を認められます。史実でも蠣崎慶広は1590年の暮れに上洛し、秀吉から蝦夷地の主として認められています。
秋田の安東家も、ここで領地を安堵されます。そしてこのころ、安東実季は名字を「秋田」に改めました。史実でも、秋田家として豊臣政権の大名になっています。10年早い政宗に攻められていた安東家にとっては、秀吉のおかげで生きのこれた形です。
ところが、庄内の大宝寺家だけは、小田原に参陣しませんでした。家臣どうしの争いをかかえ、最上ともにらみ合っていたため、動けなかったのかもしれません。秀吉はこれを許さず、庄内を取り上げて、豊臣の家臣・大谷吉継を入れます。吉継は史実でも、奥州仕置のときに出羽の検地をまかされた武将で、庄内のことをよく知っていました。史実でも庄内は、このあと大宝寺家の手をはなれ、上杉家の領地になっています。
伊達家に残るのは、米沢・福島・二本松・小浜と宮城
こうして多くの土地を差し出したあと、伊達家に残るのは、次の土地です。
| 地域 | おもな城 |
|---|---|
| 置賜(長井) | 米沢城。伊達家の本拠 |
| 伊達・信夫 | 大森城(福島) |
| 安達 | 二本松城 |
| 塩松 | 小浜城 |
| 宮城の中南部 | 白石城(刈田)、ほか柴田・伊具・亘理・名取・宮城など |
史実でも、小田原のあとの政宗には、ほぼ同じ範囲が残され、石高は約72万石でした。10年早い政宗は、宮城の北の志田・遠田あたりまで早くから家臣をおいていたと考えると、80万石ほどは残してもらえたのではないでしょうか。
80万石といえば、まだ天下で指おりの大大名です。けれど、北は木村吉清、西は会津の蒲生氏郷、南は仙道の諸家と、まわりをすべて秀吉の息のかかった大名に囲まれます。150万石の「奥羽の王」から見れば、手足をしばられたような形です。
政宗は、境目の城に重臣をおく
まわりを豊臣方に囲まれた政宗は、しかたなく、境目の城に信頼できる重臣を入れて守りを固めたのではないでしょうか。とくに南の福島・二本松・小浜は、会津の蒲生氏郷と仙道の諸家に向き合う、いちばんの最前線です。
| 城 | 城主 | 役目 |
|---|---|---|
| 米沢城 | 伊達政宗 | 本拠。全体をまとめる |
| 大森城(福島) | 伊達成実 | 一族の猛将。信夫・伊達をおさえ、米沢への道を守る |
| 二本松城 | 片倉小十郎景綱 | 政宗の右腕。会津の蒲生ににらみをきかせる |
| 小浜城 | 留守政景 | 政宗の叔父。仙道の田村・石川に向き合う |
| 白石城 | 白石宗実 | 刈田をおさえ、米沢と宮城をつなぐ |
史実でも、政宗は摺上原の戦いのあと、大森城に片倉小十郎を、二本松城に伊達成実をおいて、南の守りをまかせています。ここでは入れかえて、成実を福島、小十郎を二本松においてみました。どちらにしても、伊達家の一番の切り札を、境目にならべるしかなかったのではないでしょうか。

その後:葛西大崎一揆が、次の火種に
史実では、奥州仕置のすぐあと、1590年の秋に、大崎・葛西の旧領で大きな一揆がおこります。新しく入った木村吉清の家臣たちが、土地の人びとに乱暴なふるまいをくり返したためです。
このとき、政宗は一揆をうらであおっていたのではないかと、うたがわれました。政宗は上洛して申しひらきをし、なんとか許されましたが、翌年には米沢をふくむ本領を取り上げられ、一揆のあとの大崎・葛西の地へ移されています。
大崎・葛西は、もとは10年早い政宗に従っていた土地です。旧家臣たちが「伊達家にもどりたい」と一揆をおこすことは、史実よりもずっとありそうに思えます。もし政宗がこれをあおっていたとしたら、秀吉はそれを口実に、伊達家をさらにけずろうとしたのではないでしょうか。降伏した政宗にとって、本当の勝負はここからだったのかもしれません。
まとめ:戦った政宗と、降伏した政宗
2本目の記事と今回の予想を、くらべてみます。
| 戦った場合 | 降伏した場合 | |
|---|---|---|
| 伊達家の領地 | 奥羽をすべて従え、北条と東日本をおさえる | 米沢・福島・二本松・小浜と宮城の中南部 |
| 石高 | 約150万石と、従う大名たち | 約80万石 |
| まわりの大名 | 伊達方の大名たち | 蒲生・木村など豊臣の家臣と、秀吉の直臣たち |
| 秀吉は | 天下統一を果たせずに世を去る | 奥州仕置で天下統一を果たす |
1本目の記事で、家康は小牧・長久手で一度戦って強さを見せたからこそ、大きな領地を残せた、と書きました。戦わずに降伏した10年早い政宗は、生きのこることはできても、「奥羽の王」の座は手放すことになったのではないでしょうか。






