もし豊臣政権が続いていたら、里見家は生き残れたか?家康を見張る「安房の番人」と浅野家との縁組

もし里見家が生き残っていたら

房総半島の南の端、安房の国を治めた里見家。『南総里見八犬伝』の舞台として名前を知っている人も多いと思います。戦国時代には北条家と何十年も戦い続けた名門ですが、江戸時代のはじめ、1614年にあっけなく取りつぶされてしまいました。

では、もし豊臣政権がそのまま続いていたら、里見家は生き残れたのでしょうか。先に私の答えを書いておきます。生き残れたと思います。関東の家康をずっと見張る役目として、豊臣政権にとって必要な家だったからです。さらに豊臣の一族と縁組をしていれば、もっと長く続いたでしょう。

目次

通説・史実:房総の里見家と、その終わり

まずは、里見家がどんな家で、どうして消えてしまったのかを見ていきます。

里見義堯のイラスト
里見義弘のイラスト
里見義康のイラスト

里見義堯・里見義弘・里見義康(イラスト:戦国武将図鑑)

北条と戦い続けた房総の名門

里見家は、上野の新田一族の流れをくむと伝わる家です。戦国時代に安房を本拠とし、義堯・義弘の父子の代に上総へと勢力を広げました。

最大の敵は、小田原の北条家でした。下総の国府台では二度にわたって北条と戦い、1564年の二度目の合戦では大敗しています。それでも1567年の三船山の合戦では北条軍を打ち破り、房総を守りぬきました。関東の大大名・北条家を相手に、何十年も一歩も引かなかった家です。

里見家の強みは、海でした。房総半島は三方を海に囲まれています。里見家は水軍を持ち、江戸湾(今の東京湾)をはさんで、対岸の三浦半島の北条水軍と争いました。江戸湾の制海権をにぎる家。これが、このあとの「もし」にとって大事なポイントになります。

小田原攻めで上総を失う(1590年)

1590年、秀吉の小田原攻めが始まると、里見義康も秀吉のもとへ参陣しました。ところが、秀吉が禁じていた大名どうしの勝手な戦をしたことなどをとがめられ、上総の領地を取り上げられてしまいます。里見家に残ったのは、安房一国、およそ9万石だけでした。

このとき、北条の旧領には家康が入りました。家康は重臣の本多忠勝を、安房のすぐ北、上総の大多喜に10万石で置いています。里見家は、家康の家臣にすぐ隣から見張られる立場になったのです。

本多忠勝のイラスト
大久保忠隣のイラスト

本多忠勝・大久保忠隣(イラスト:戦国武将図鑑)

関ヶ原で東軍につき、加増される(1600年)

1600年の関ヶ原の戦いでは、義康は家康の東軍につきました。宇都宮で会津の上杉景勝に備える役目を受けもち、その功で常陸の鹿島に3万石を加えられて、12万石あまりの大名になります。ここまでは順調でした。

大久保忠隣の失脚に巻きこまれる(1614年)

1603年、義康は31歳の若さで亡くなり、10歳の忠義が跡を継ぎます。忠義の妻は、家康の重臣・大久保忠隣の孫娘でした。徳川の重臣と縁組をする。外様の小大名が生き残るには、これ以上ない安全策に見えたはずです。

ところが1614年、その大久保忠隣が家康の怒りを買って失脚します。そして里見忠義も、忠隣の縁者として巻きこまれました。安房は取り上げられ、忠義は伯耆の倉吉へ移されます。名目は3万石でしたが、実際にはわずかな捨て扶持だったとも言われます。館山城は取り壊されました。

1622年、忠義は倉吉で29歳で亡くなり、跡継ぎもなく里見家は断絶します。このとき忠義に殉じた8人の家臣が、のちに『南総里見八犬伝』の八犬士のモデルになったとも伝わっています。

年 出来事
1564年 第二次国府台合戦。里見義弘、北条に大敗
1567年 三船山合戦。里見義弘、北条軍を破る
1590年 小田原攻め。里見義康、上総を取り上げられ安房9万石に。家康は本多忠勝を大多喜に置く
1600年 関ヶ原の戦い。義康は東軍として宇都宮を守り、常陸鹿島3万石を加えられる
1603年 義康が31歳で死去。10歳の忠義が継ぐ
1614年 大久保忠隣の失脚に連座し、忠義は安房を取り上げられ伯耆倉吉へ。館山城は取り壊し
1622年 忠義が倉吉で死去。里見家は断絶
1814年 曲亭馬琴『南総里見八犬伝』の刊行が始まる

館山城を訪れて

館山城(筆者撮影/日本の歴史旅ガイド)

私は館山城を訪れたことがあります。眼下に海が見えて、とても眺望がよかったのを覚えています。お城も堅固そうでした。今は水堀や空堀といった遺構はあまり残っていませんでしたが、山の上から海を見下ろすと、ここが房総の要だったことがよくわかります。自分がもし大名でも、ここを支配したい。そう思ったお城の二つのうちの一つでした。

ですが、もし豊臣政権が続いていたら

里見家がつぶされたのは、徳川の天下になったからです。では、もし秀吉の死後も豊臣政権が続き、家康が天下を取れなかったとしたら。里見家の立場は、まったく違ったものになったはずです。

領地は安房だけ。それでも十分に役に立つ

豊臣政権が続く世界でも、1590年に上総を取り上げられたことは変わらないと思います。里見家は安房一国、9万石ほどの大名のままです。

それでも、里見家には大きな価値があります。家康のすぐ南、江戸湾の入り口を押さえる場所にいるからです。豊臣政権にとって一番の心配は、関東250万石の家康です。その家康を見張るために、里見家は欠かせない家になります。

家康を見張る三方の目

家康を見張る三方の目(浅野・里見・佐竹)の図
家康を見張る三方の目(イメージ図)

家康の領地を地図で見ると、豊臣方の大名がまわりを囲んでいるのがわかります。私が大事だと思うのは、次の三家です。

家 場所 役目
浅野家 甲斐(甲府) 家康の西側を山から押さえる。甲州街道で江戸をにらむ
里見家 安房(館山) 家康の南、江戸湾の入り口を水軍で押さえる
佐竹家 常陸(水戸) 家康の北東を押さえる。北関東の大大名
浅野長政のイラスト
浅野幸長のイラスト
佐竹義宣のイラスト

浅野長政・浅野幸長・佐竹義宣(イラスト:戦国武将図鑑)

里見家の役目は二つです。一つは水軍で江戸湾を押さえること。家康が江戸から船で兵を動かそうとしても、湾の入り口で里見水軍が待ちかまえます。もう一つは、家康の背後をおびやかすこと。家康が西へ兵を出せば、房総から江戸の背中をつける位置にいます。そして北の佐竹と協力すれば、家康は南と北の両方に気をつかわなければなりません。

縁組の相手は浅野家

ここで大事になるのが縁組です。史実の里見家は、家康の重臣・大久保家と縁を結んだことで、かえって取りつぶされました。縁組の相手しだいで、家の運命は大きく変わるのです。

豊臣政権が続く世界なら、私は里見家の縁組の相手には浅野家がいいと思います。浅野長政の妻は、ねねの妹です。浅野家は豊臣の一族と言っていい家です。そして浅野家は甲府にいます。西の甲府と南の安房。家康を見張る二つの家が親類になれば、豊臣政権にとってこれほど心強い組み合わせはありません。

実は史実では、浅野幸長の娘・春姫は、家康の九男・義直に嫁いでいます。浅野家ですら、徳川の世では徳川と縁を結んで生き残りをはかったのです。もし豊臣の世が続いていたら、その娘が嫁いだ先は、里見家だったかもしれません。

こうなったかもしれない

江戸湾を押さえる里見水軍のイラスト
江戸湾を押さえる里見水軍(イメージ)

江戸湾を押さえる番人として

局地の話にしぼって考えてみます。豊臣政権のもとで、家康がもし兵を動かそうとしたら。甲府の浅野が甲州街道を押さえ、常陸の佐竹が北からにらみ、そして里見水軍が江戸湾の入り口に船を並べる。家康は、陸からも海からも見張られた形になります。

里見家だけでは、もちろん家康には勝てません。9万石の小大名ですから。けれど、里見家に求められるのは勝つことではなく、見張ること、そして家康に「うかつに動けない」と思わせることです。その役目なら、江戸湾の入り口にいる里見家ほどふさわしい家はありません。

取りつぶされる理由がなくなる

史実の里見家がつぶされたのは、徳川の家臣どうしの争いに巻きこまれたからでした。豊臣政権が続いていれば、里見家は徳川の外にいる大名です。大久保家と縁を結ぶ必要もありません。浅野家と縁を結び、豊臣の一族の輪の中にいれば、里見家は「家康を見張る大事な家」として守られたはずです。

そうなれば、館山城が取り壊されることもなく、八人の家臣が主君に殉じることもなかった。『南総里見八犬伝』は生まれなかったかもしれませんが、そのかわり、里見家は房総の大名として、江戸時代のあいだずっと続いていたかもしれません。

まとめ

  • 里見家は房総の名門で、水軍を持ち江戸湾を押さえる家だった
  • 史実では、大久保忠隣の失脚に巻きこまれ、1614年に取りつぶされた
  • 豊臣政権が続いていれば、領地は安房だけでも、家康を見張る役目として欠かせない家になった
  • 縁組の相手は浅野家。甲府と安房で家康を西と南から見張り、北の佐竹と組めば家康はうかつに動けない

里見家の終わり方を見ていると、小さな大名にとって「誰と縁を結ぶか」がどれほど大事だったかがよくわかります。徳川の重臣と結んだことが、かえって命取りになった。もし時代が豊臣のままなら、同じ里見家が、家康を見張る大事な番人として重んじられていたはずです。館山城の上から海を見下ろしたときの、あの眺めを思い出すと、ここに里見家が残っていた世界も見てみたかったと思います。

あなたは、豊臣政権が続いていたら、里見家は生き残れたと思いますか?

よくある質問

里見家はなぜ取りつぶされたの?

1614年、当主・里見忠義の妻の祖父にあたる大久保忠隣が家康の怒りを買って失脚し、忠義もその縁者として巻きこまれたためです。安房を取り上げられて伯耆の倉吉に移され、1622年に忠義が亡くなって断絶しました。

『南総里見八犬伝』は本当の話なの?

里見家は実在した大名ですが、八犬伝そのものは江戸時代後期に曲亭馬琴が書いた物語です。里見忠義に殉じた8人の家臣が、八犬士のモデルになったとも伝わります。

館山城は今どうなっているの?

城跡は城山公園として整備され、山頂には昭和に建てられた模擬天守があります。中は館山市立博物館の分館(八犬伝博物館)になっています。山の上からは館山湾を見わたせます。

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