もし天正地震がなかったら?秀吉は正月に三河へ攻めこみ、家康は駿河一国の大名になっていた

天正14年正月、大垣城から三河へ出陣を命じる秀吉(イメージ)

天正13年11月29日(1586年1月18日)の夜、近畿から東海・北陸にかけて大地震が起きました。天正地震です。このとき秀吉は、年明けに家康を攻める準備を進めていました。ところがこの地震で、家康攻めは取りやめになります。もし、天正地震が起きていなかったら。秀吉は予定どおり三河へ攻めこみ、歴史はまったくちがう道を進んでいたかもしれません。

目次

通説:家康は秀吉と和睦し、上洛して臣従した

よく知られているのは、小牧・長久手の戦いのあと、家康は秀吉と和睦し、やがて上洛して臣従した、という流れです。秀吉は妹の朝日姫を家康に嫁がせ、母の大政所まで人質に出して、家康を大坂に呼び寄せました。武力ではなく、気づかいと根回しで家康を従わせた。秀吉らしい「人たらし」の話として語られることが多い場面です。

史実:秀吉は家康を攻めるつもりだった

ところが、和睦の前の秀吉は、本気で家康を攻めようとしていました。美濃の大垣城に兵糧蔵を建てて米を運びこみ、ここを家康攻めの前線基地にします。天正13年11月19日には、信濃の真田昌幸に書状を送り、家康を成敗するつもりであること、正月15日に三河へ兵を出すことを伝えたとされます。

もし天正地震がなかったら、秀吉の家康攻めの地図(イメージ)
地震がなければ、秀吉は大垣から三河へ、さらに伊勢・信濃・越後から四方を攻めていた(イメージ)
年月 出来事
1584年(天正12年) 小牧・長久手の戦い。家康は局地戦で勝つが、織田信雄が単独で秀吉と和睦
1585年閏8月(天正13年) 第一次上田合戦。徳川軍が真田昌幸に敗れる
1585年11月13日 家康の重臣・石川数正が出奔し、秀吉のもとへ
1585年11月19日 秀吉が真田昌幸に、正月15日に三河へ出兵すると伝える
1585年11月29日(1586年1月18日) 天正地震。大垣城が全壊・焼失し、兵糧も失われる
1586年1月(天正14年) 秀吉が家康攻めを取りやめ、織田信雄を通じて和睦を探る
1586年5月 秀吉の妹・朝日姫が家康に嫁ぐ
1586年10月 大政所が岡崎へ。家康が上洛し、秀吉に臣従する

地震の被害は、秀吉の側に集中していました。前線基地の大垣城は全壊したうえ火が出て焼け落ち、蓄えた兵糧も失われます。長浜城、長島城、蟹江城、越中の木舟城も倒れ、飛騨の帰雲城は山崩れで城ごと埋まりました。秀吉自身も近江の坂本城で揺れにあい、大坂へ急いで移ったと伝わります。

場所 被害 亡くなった人
大垣城(美濃) 全壊し焼失。家康攻めの兵糧も失う ―
長浜城(近江) 倒壊 山内一豊の娘・与祢(6歳)、家老の乾和信夫妻
木舟城(越中) 倒壊 前田利家の弟・前田秀継とその妻
帰雲城(飛騨) 山崩れで城と城下町が埋まる 内ヶ島氏理とその一族。内ヶ島氏は滅亡
長島城・蟹江城(伊勢・尾張) 倒壊 ―

上:家康攻めの前線基地だった大垣城(現在の天守は再建) 下:天正地震で倒れた長浜城(現在は模擬天守)

一方、家康の三河・遠江・駿河では、大きな被害の記録は見当たりません。家康の家臣・松平家忠の日記にも、揺れや余震は書かれていますが、城が崩れたといった話は出てきません。地震は、攻める側の秀吉だけを止めたのです。

詳しい史実は、姉妹サイトの天正地震は歴史をどう変えた?秀吉と家康の被害、亡くなった武将(日本の歴史ガイド)で解説しています。

もし天正地震がなかったら

では、地震が起きなかったとします。大垣城の兵糧蔵は無事で、米は積まれたまま。天正14年の正月、秀吉は予定どおり大垣に大軍を集め、三河へ向けて兵を出します。

こうなったかもしれない

1. 石川数正が去った直後の徳川を、秀吉が攻める

秀吉が攻めこむのは、徳川家がいちばん弱っていた時期です。地震の16日前、家康の重臣・石川数正が秀吉のもとへ出奔しました。数正は長く家康を支えた宿老で、徳川の軍の仕組みも城の守りもよく知る人物です。家康はあわてて軍の仕組みを武田流に改めますが、正月まではわずか1か月半しかありません。

しかも前の年には、上田合戦で真田昌幸に敗れたばかりです。小牧・長久手のころの勢いは、もう徳川にはありませんでした。

2. 秀吉は一方からではなく、四方から攻める

小牧・長久手のとき、秀吉は尾張で家康と向き合い、局地戦で敗れました。同じ失敗はくり返しません。今度は徳川の領国を、まわりから一度に攻めます。

方面 攻める軍 ねらい
美濃・尾張から三河へ 秀吉の本隊(大垣城から) 岡崎城をめざす主力
伊勢・尾張から 織田信雄、豊臣秀長 信雄はすでに秀吉方。かつての家康の味方が敵にまわる
信濃から 真田昌幸、木曽義昌 徳川が取ったばかりの信濃・甲斐をゆさぶる
越後から 上杉景勝 北から信濃をおさえ、徳川を背後からけん制する

小牧・長久手で家康と組んでいた信雄は、もう秀吉の側にいます。信濃では真田に負けたばかり。徳川は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃という広い領国を、すべての方向から守らなければならなくなります。

3. 頼みの北条は動かない

家康の頼みは、娘を嫁がせて同盟を結んでいた関東の北条氏です。しかし北条は、自分の領国を守ることを第一に考える家でした。秀吉と正面からぶつかる覚悟まではなく、援軍を出しても箱根を越えて大きく動くことはなかったでしょう。北条が本気で動くのは、自分が攻められたときだけです。

4. 家康は岡崎・浜松で籠城し、持ちこたえられない

岡崎城から秀吉の大軍をにらむ家康(イメージ)
岡崎城をかこむ秀吉の大軍。家康は籠城で持ちこたえられるのか(イメージ)

野戦で秀吉の大軍とまともにぶつかるのは不利です。家康は岡崎城や浜松城にこもって、秀吉が疲れるのを待つしかありません。けれど秀吉は、城をかこんで兵糧を断ち、まわりの城を一つずつ落としていく戦い方を得意としていました。三木城や鳥取城で見せたやり方です。

家康の生まれた城・岡崎城(現在の天守は復興)

こうなると、徳川の家臣の中から、秀吉に通じる者が次々に出てきます。数正の出奔は、その始まりにすぎません。家康は、小牧・長久手のような「勝ち逃げ」をすることはできなかったはずです。

5. 地震で失われた命と城も残る

地震がなければ、失われずにすんだものもあります。長浜城では山内一豊の娘・与祢が、木舟城では前田利家の弟・秀継が助かります。帰雲城の内ヶ島氏も滅びずにすみ、飛騨の小さな大名として秀吉に仕えつづけたでしょう。秀吉の家康攻めは、こうした家の兵も加えて行われることになります。

結末:家康は秀吉に降り、徳川は小さな大名になる

秀吉の本陣で降伏する家康(イメージ)
天正14年の春、家康は「攻められて負けた大名」として秀吉に降る(イメージ)

天正14年の春、家康は秀吉に降ります。ただし史実のように、朝日姫を妻に迎え、大政所を人質に取ったうえで上洛する「対等に近い臣従」ではありません。攻められて負けた大名としての降伏です。

三河・遠江・甲斐・信濃はすべて取り上げられ、徳川家に残されるのは駿河一国だけです。五か国を治めた大大名が、一国の大名になる。秀吉は家康の命は助けても、二度と逆らえないほどに小さくしたはずです。

そうなれば、4年後の小田原征伐のあとに家康が関東250万石を任されることもありません。関東には、秀吉の一門か、もっと信用できる大名が入ります。豊臣政権の五大老の筆頭として家康が力をふるうこともなく、関ヶ原の戦いも、江戸幕府も生まれなかったでしょう。

まとめ

  • 秀吉は天正14年正月15日に三河へ兵を出すつもりで、大垣城に兵糧を蓄えていた
  • 天正地震で大垣城が焼け落ち、家康攻めは取りやめ。秀吉は朝日姫と大政所を出して家康を従わせる道に切り替えた
  • 地震がなければ、石川数正が去った直後の弱った徳川を、秀吉が四方から攻めていた
  • 家康は籠城しても持ちこたえられず、負けた大名として降伏。徳川に残るのは駿河一国だけ
  • 家康が関東を任されることもなく、関ヶ原も江戸幕府も生まれなかった

家康の天下は、ひとつの大地震に救われたところから始まっていた。そう考えると、歴史の分かれ道は人の決断だけでなく、自然の力にも左右されていたことがわかります。

筆者の感想

戦国武将には、運と不運がつきものです。その最たる例が織田信長でしょう。桶狭間で今川義元を討ち取った強運の持ち主が、天下を目の前にして本能寺で倒れました。家康も、少なからずその運を持っていた武将です。天正地震は、まさに家康を救った運でした。

一方の秀吉は、その運を若いころの出世争いに、すべてささげてしまった感じがします。足軽の身から天下人にまでのぼりつめるには、運がいくつあっても足りなかったはずです。天下をつかんだあとの秀吉には、もう運が残っていなかったのかもしれません。

ここで徳川を攻めきれていれば、秀吉の時代に、天下を相手にした大いくさを起こせる大名はいなくなっていた可能性が高いと思います。関ヶ原の戦いは、家康という大きな力が残っていたからこそ起きた戦いでした。ひとつの大地震が、その力を残したのです。

あなたは、天正地震がなかったら家康はどうなっていたと思いますか?

この続きとして、家康が駿河一国の大名になった世界で、北条を滅ぼしたあとの関東をだれに任せたかを続編の記事で考えています。

よくある質問

天正地震とはどんな地震?

天正13年11月29日(1586年1月18日)の夜に起きた大地震です。近畿から東海・北陸にかけての広い範囲がゆれ、規模はマグニチュード7台後半から8前後と推定されています。震源ははっきりしていません。

秀吉は本当に家康を攻めるつもりだったの?

そう考えられています。天正13年11月19日に真田昌幸へ送った書状で、家康を成敗するつもりであること、正月15日に三河へ兵を出すことを伝えたとされます。美濃の大垣城には、そのための兵糧が運びこまれていました。

家康の領国は地震の被害を受けなかったの?

三河・遠江・駿河では、大きな被害の記録は見当たりません。徳川家臣の松平家忠の日記にも、揺れや余震は書かれていますが、城が崩れたといった記述はありません。

天正地震で亡くなった武将は?

越中の木舟城で前田利家の弟・前田秀継とその妻が、飛騨の帰雲城で内ヶ島氏理とその一族が亡くなりました。長浜城では山内一豊の娘・与祢(6歳)と家老の乾和信夫妻が亡くなっています。

秀吉はなぜ家康と和睦したの?

前線基地の大垣城と兵糧を失い、自分の領内の立て直しも必要になったためです。秀吉は織田信雄を通じて和睦を探り、妹の朝日姫を家康に嫁がせ、母の大政所を岡崎へ送って、家康を上洛させました。

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