もし小栗忠順が長岡で河井継之助と組んでいたら?千代田形と砲台で新潟港を守りぬく

もし小栗忠順が長岡で河井継之助と組んでいたら(イメージ)

飯能で弾がつき、三国峠を越えて越後へ退いた小栗忠順(小栗上野介)。前回の記事では、そこまでを予想しました。今回はその続きです。

もし小栗が長岡で河井継之助と手を組み、北越戦争の作戦を立てていたら、どうなっていたでしょうか。

目次

先に結論:勝負は「新潟港」。小栗は港を守りぬく

先に私の答えを書いておきます。飯能で「補給がなければ勝てない」と思い知った小栗は、長岡に着くなり、戦いの勝ち負けは新潟港で決まると見ぬいたはずです。そして、幕府海軍の軍艦・千代田形を新潟へ呼びよせ、海岸に砲台を築き、裏切りそうな藩を見張って、新政府軍の上陸をはね返したのではないでしょうか。

新潟港を守りぬいたことで、弾薬は届き続けます。そして長岡城を河井継之助が、南の朝日山を小栗が守り、山県有朋のひきいる新政府軍を、雪が降るまで防ぎきった。今回は、そんな流れを予想してみます。

前提:史実の北越戦争

まず、史実の北越戦争の流れを見ておきます。長岡藩の家老・河井継之助は、ガトリング砲などの新しい武器を買い入れ、藩の兵を洋式に変えた人物です。はじめは新政府軍と旧幕府方のどちらにもつかない「武装中立」をめざしましたが、話し合いがやぶれ、奥羽越列藩同盟に加わって戦うことになりました。

1868年 史実の北越戦争
5月2日 小千谷談判。河井継之助と新政府軍の話し合いがやぶれる
5月 旧幕府の輸送船・順動丸が、寺泊の沖で新政府の軍艦に追われて座礁し、自ら焼かれたとされる
5月13日 朝日山の戦い。長岡方が勝ち、新政府軍の時山直八が討死
5月19日 新政府軍が信濃川をひそかに渡り、長岡城が落ちる
7月24日 河井が八丁沖の沼地を夜に渡って奇襲し、長岡城を取り返す
7月25日 新発田藩が新政府方へ寝返り、新政府軍が新潟の近くの太夫浜に上陸する
7月29日 新潟港が落ち、長岡城もふたたび落ちる。河井は傷を負って会津へ退く
8月16日 河井継之助、会津へ向かう途中の塩沢村で亡くなる

この流れで大事なのは、7月25日から29日のわずか5日間です。河井が命がけで長岡城を取り返した次の日に、新発田藩が寝返り、新政府軍が海から上陸して新潟港を奪いました。新潟港は、外国の武器商人スネル兄弟などを通じて、同盟の藩が武器や弾薬を手に入れる命綱でした。その港を失ったことで、長岡は戦う力をなくしてしまったのです。

小栗、長岡に着く:河井継之助との出会い

飯能を離れた小栗たちが三国峠を越え、長岡にたどり着くのは、6月のはじめごろだったでしょう。長岡城はすでに落ち、河井は城の北東、加茂のあたりに陣をかまえて、城を取り返す機会をうかがっていました。

河井と小栗は、どちらも「これからの戦は、洋式の武器と兵でするもの」と考えていた人です。河井は長岡藩の財政を立て直し、その金でガトリング砲や元込め銃を買いそろえました。小栗は幕府の財布をあずかりながら、横須賀製鉄所をつくり、フランス式の陸軍を育てました。藩と幕府というちがいはあっても、二人は同じものを見ていたのです。河井は、小栗を作戦の相談役としてむかえたのではないでしょうか。

小栗の見立て:勝負は長岡城ではなく新潟港で決まる

小栗が真っ先に河井に伝えたのは、飯能で思い知ったことだったと思います。

「長岡城を取り返しても、新潟港を失えば、弾がつきて負ける」

新政府軍は、陸からだけでなく海からもやってきます。新政府方には、薩摩や長州、そして旧幕府から引きついだ軍艦がありました。越後の長い海岸線のどこに上陸してくるかわかりません。しかも史実では、5月に順動丸が寺泊の沖で失われ、同盟方の海の守りは、ほとんどなくなっていました。

そこで小栗は、新潟港を守るために、三つの策を立てます。

小栗の策 中身(予想)
一、海を守る 品川沖にいる榎本武揚の艦隊から、軍艦・千代田形と輸送船・長崎丸を新潟へ呼びよせる
二、浜を守る 太夫浜など、新潟の近くの上陸しやすい浜に砲台を築き、四斤山砲と鉄砲隊を置く
三、裏切りを防ぐ 新政府方に近い新発田藩に、米沢藩と会津藩の兵を置いて見張らせる
もしもの北越戦争:小栗の作戦図
小栗の作戦。千代田形と長崎丸が海を守り、太夫浜の砲台が上陸をはね返し、出雲崎で海道軍を、朝日山で山県の軍を食い止める(イメージ)

一の策:千代田形と長崎丸を新潟へ呼びよせる

千代田形は、幕府が石川島で造らせた、日本で初めての国産の蒸気軍艦です。小さな船ですが、大砲を積み、蒸気で走ることができました。1868年の夏、千代田形は、榎本武揚がひきいる旧幕府艦隊の一隻として、まだ品川沖にいました。榎本たちが北へ向けて品川を出るのは、8月19日のことです。

幕府の勘定奉行として、軍艦や製鉄所にお金をつけてきた小栗にとって、榎本たちは、いわば自分が育てた幕府海軍の後輩です。小栗が「新潟港を守るために、一隻でいいから船を回してほしい」と頼めば、榎本は千代田形を送り出したかもしれません。

じつは千代田形は、史実でも日本海へやってきています。8月19日に榎本艦隊とともに品川を出た千代田形は、仙台に着いたあと、長崎丸とともに庄内藩を助けに向かいました。ところが着いたときには庄内藩はすでに降伏していて、千代田形は酒田の沖の飛島で足止めされてしまいます。日本海に来たのは、すべてが終わったあとだったのです。

では、5月24日に寺泊の沖で失われた順動丸を、千代田形が助けることはできなかったのでしょうか。これは時期も場所もかみ合いません。順動丸がやられた5日後の5月29日、千代田形は房総の館山で、脱走兵を奥州へ運ぶ仕事をしていました。日本海ではなく、太平洋の側にいたのです。しかも順動丸は軍艦ではなく輸送船で、新政府方の軍艦2隻に追われ、たった1隻で戦うしかありませんでした。

もし千代田形が、もっと早く日本海へ回されていたら。順動丸を守り、越後の海を同盟の手に残せたかもしれません。小栗の策は、その「間に合わなかった一隻」を間に合わせる話でもあります。

小栗が呼びよせるのは、千代田形だけではありません。いっしょに来させるのが、輸送船の長崎丸です。長崎丸は、史実でも千代田形とともに脱走兵を奥州へ運び、のちに庄内藩を助けに日本海へ向かった船でした。千代田形が海を守り、長崎丸が兵と荷を運ぶ。この二隻を、2か月早く越後へ回すのです。

長崎丸が運ぶのは、品川や館山に集まっていた旧幕府の脱走兵、そして江戸から持ち出した火薬や弾薬です。新潟港に着いた兵は、長岡へ送られて河井の兵に加わります。寺泊の沖で失われた順動丸のかわりに、越後と旧幕府方を結ぶ海の道が、ふたたびつながります。

千代田形が新潟の沖に入れば、新政府の軍艦も、うかつに海岸へ近づけなくなります。史実で順動丸を失って空っぽになっていた越後の海に、ふたたび旧幕府の軍艦がもどってくるのです。

千代田形、出雲崎と柏崎の沖をおびやかす

千代田形の役目は、新潟港を守ることだけではありません。小栗は、千代田形を越後の海岸ぞいに南へも走らせたのではないでしょうか。ねらいは、出雲崎と柏崎です。

柏崎は、桑名藩の飛び地で、陣屋が置かれていた町です。史実では閏4月27日、桑名藩の立見鑑三郎(のちの立見尚文)らが、柏崎の南の鯨波で新政府軍を迎え撃ちました。けれど桑名方はやがて柏崎を引きはらい、新政府の海道軍が、柏崎から出雲崎、寺泊へと、日本海ぞいの北陸道を北へ進んできます。

この海道軍は、兵糧や弾薬の多くを、船で柏崎や出雲崎の湊へ運びこんでいました。海ぞいの道を進む軍にとって、海はいちばん楽な補給の道だったのです。

そこへ千代田形があらわれます。出雲崎や柏崎の沖を走りまわり、新政府方の輸送船をおびやかせば、海道軍は船で荷を運べなくなります。かわりに、長い陸の道で荷を運ぶしかありません。補給の大切さを知る小栗は、自分たちの補給を守るだけでなく、敵の補給をこわすことも考えたはずです。

海からの補給が細くなった海道軍は、前へ進む力が弱まります。立見鑑三郎ら桑名藩の兵が、出雲崎や柏崎のあたりで反撃に出る機会も生まれたのではないでしょうか。史実でも立見は、5月13日の朝日山の戦いで長岡藩とともに新政府軍を打ち破った、北越きっての戦上手でした。千代田形の動きは、海の上だけでなく、越後の陸の戦いにも影響を与えたことになります。

桑名藩の雷神隊と手を組む

ここで小栗が手を組むのが、立見鑑三郎がひきいる桑名藩の雷神隊です。雷神隊は、桑名藩の若い藩士を集めた精鋭部隊で、北越戦争では、長岡藩とならんで新政府軍をもっとも苦しめた部隊の一つでした。

桑名藩の藩主・松平定敬は、京都所司代をつとめた、旧幕府方の中心人物の一人です。幕府の重臣だった小栗とは、旧幕府方どうしの古い縁があります。小栗にとって、幕府のために最後まで戦おうとする雷神隊は、いちばん信頼できる味方だったのではないでしょうか。

小栗と立見の連携は、こんな形だったと予想します。

役目 小栗の隊 桑名藩の雷神隊
海 千代田形で出雲崎・柏崎の沖をおびやかし、新政府軍の船の補給を止める ―
陸 四斤山砲で後ろから雷神隊を助ける 補給が細くなった海道軍に、山あいから攻めかかる
ねらい 海道軍を出雲崎・寺泊より北へ進ませず、長岡と新潟への道をふさぐ

海からは千代田形が補給を断ち、陸からは雷神隊が攻める。前と後ろから同時に圧力をかけられた海道軍は、出雲崎のあたりで足止めされます。新政府軍が海ぞいの道から長岡や新潟へ回りこむ道が、ここでふさがれるのです。そのぶん、長岡と新潟の守りに兵を回せるようになったのではないでしょうか。

二の策:太夫浜に砲台を築く

次に小栗は、新潟の東の太夫浜(いまの新潟市北区)に目をつけます。遠浅の砂浜で、船から兵を上陸させやすい場所だったからです。史実でも、新政府軍は7月25日、この太夫浜に上陸して新潟港を背中から攻めました。

小栗は、飯能から運んできた四斤山砲2門と、家臣のシャスポー銃隊を太夫浜に置き、砂浜に土を盛った砲台を築かせます。海から上陸してくる兵は、小舟に乗っているあいだ、身をかくす場所がありません。浜で待ちかまえていれば、少ない兵でも大軍を食い止められます。笹井河原の待ちぶせと同じ考え方です。

三の策:新発田藩を見張る

小栗がもう一つ気にかけたのが、新潟港のすぐそばにある新発田藩です。新発田藩は、奥羽越列藩同盟に加わってはいましたが、藩の中には新政府方につこうとする声も強くありました。史実でも、7月25日に新政府方へ寝返り、新政府軍の上陸を手引きしています。

小栗は、同盟の中心だった米沢藩と会津藩にたのみ、新発田の城下に兵を置いてもらいます。表向きは「新発田を守るため」ですが、本当のねらいは見張りです。新発田藩が寝返ろうとしても、すぐそばに米沢と会津の兵がいれば、うかつには動けません。

7月24日:河井、八丁沖を渡って長岡城を取り返す

新潟港の守りを固めているあいだに、河井継之助は、長岡城を取り返す作戦を練っていました。長岡城の北東には、八丁沖とよばれる広い沼地が広がっています。新政府軍は「ここは人が渡れない」と考えて、守りを手うすにしていました。

7月24日の夜、河井は長岡藩の兵をひきいて、この八丁沖をひそかに渡り、長岡城に奇襲をかけます。不意をつかれた新政府軍はくずれ、長岡城はふたたび長岡藩のものになりました。ここまでは、史実と同じです。

八丁沖を渡る河井継之助と長岡藩兵
7月24日の夜、河井継之助と長岡藩の兵は、腰まで泥につかりながら八丁沖を渡り、長岡城へ奇襲をかける(イメージ)

7月25日:太夫浜の戦い。新潟港を守りぬく

そして運命の7月25日。史実では、この日に新発田藩が寝返り、新政府軍が太夫浜に上陸しました。

けれど、小栗の三つの策が整っていれば、話はちがってきます。新発田の城下には米沢と会津の兵がいて、新発田藩は寝返りの合図を出せません。新政府の軍艦が太夫浜の沖にあらわれても、千代田形が近くの海をうろつき、思うように近づけません。それでも小舟で上陸してきた兵を、浜の砲台から四斤山砲が撃ち、シャスポー銃隊が待ちかまえて押し返します。

太夫浜への上陸は、失敗に終わります。新潟港は、同盟の手に残ったのではないでしょうか。

史実 もしも(小栗の策)
越後の海 順動丸を失い、旧幕府方の軍艦がいない 千代田形が新潟の沖を守り、長崎丸が兵と弾薬を運ぶ
出雲崎・柏崎 新政府の海道軍が、船で兵糧や弾薬を運びこむ 千代田形におびやかされ、海からの補給が細くなる
新発田藩 7月25日に寝返り、上陸を手引き 米沢・会津の兵に見張られ、寝返れない
太夫浜 新政府軍が上陸し、新潟港を背中から攻める 砲台と鉄砲隊が上陸をはね返す
新潟港 7月29日に落ちる 同盟の手に残り、武器と弾薬が届き続ける
長岡城 7月29日にふたたび落ちる 河井が城を、小栗が朝日山を守り、山県の軍を防ぎきる
河井継之助 傷を負い、8月16日に亡くなる 傷を負わずに長岡で指揮を続ける

スネル兄弟の補給で、銃も弾薬もじゅうぶんに

新潟港が残れば、武器や弾薬が届き続けます。その中心にいたのが、スネル兄弟です。兄のヘンリー・スネルは会津藩や長岡藩の軍事顧問のような立場で、弟のエドワード・スネルは新潟に店をかまえ、外国から武器を仕入れて同盟の藩に売っていました。史実でも、新潟港には外国船が出入りし、元込め銃や弾薬が運びこまれています。

新潟港を守りぬいた小栗は、このスネル兄弟から、たっぷりと補給を受けたのではないでしょうか。

新潟港で武器と弾薬を陸揚げする
新潟港の陸揚げ。スネル兄弟が運びこんだ新しい銃や弾薬、砲弾、石炭が、次々に陸に揚げられる(イメージ)
補給の中身(予想) 小栗の隊で使い道
シャスポー銃の弾薬 飯能で使いはたした家臣隊の弾を補う
新しい元込め銃 権田村の農兵隊の先込めのミニエー銃を、元込め銃に持ちかえさせる
四斤山砲の砲弾と火薬 太夫浜の砲台と、雷神隊を助ける砲隊に回す
石炭 千代田形を走らせ続けるための燃料

飯能では空っぽの弾薬箱を前にうなだれた小栗の兵たちが、越後では、弾薬箱をいっぱいにして戦えるようになります。農兵隊まで元込め銃を持てば、小栗の隊は、数は少なくても新政府軍に負けない装備をそろえたことになります。飯能で小栗を苦しめた「弾がつきる」という弱みが、越後ではなくなるのです。河井も傷を負わずにすみ、長岡城を守りながら、新政府軍とわたり合います。

長岡城は河井、朝日山は小栗:山県有朋の軍を防ぎきる

弾薬をたっぷりそろえた同盟方は、守りの形を整えます。長岡城には河井継之助が入り、長岡藩の兵で城を固めます。そして小栗は、長岡の南、信濃川をのぞむ朝日山に陣をかまえます。

ここで大きな力になるのが、河井が買い入れたガトリング砲です。ガトリング砲は、いくつもの銃身を束ねて、取っ手を回すと次々に弾を撃ち出す、当時の最新兵器でした。日本にはわずか3門しかなかったといわれ、そのうちの2門を長岡藩が持っていました。河井は、1門を長岡城に残し、もう1門を朝日山の小栗にあずけたのではないでしょうか。どちらも山や城の上から、攻めのぼってくる敵を撃つのにうってつけの兵器です。

朝日山は、史実でも5月13日、長岡藩と桑名藩の雷神隊が新政府軍を打ち破り、新政府軍の時山直八が討死した場所です。山の上からは、小千谷から北へ進んでくる新政府軍の動きが手に取るように見えます。長岡を南から守る、いちばんの要でした。

これを攻めるのが、新政府の北陸道軍をひきいる山県有朋です。山県は長州藩の出身で、のちに明治政府の陸軍をつくり、総理大臣にもなる人物です。史実でも、朝日山で時山直八を失ったことは、山県にとって大きな痛手でした。

陣営 持ち場 指揮 おもな兵と武器(予想) 兵の数(予想)
同盟方 長岡城 河井継之助 長岡藩の兵、ガトリング砲1門 約1,300人
同盟方 朝日山 小栗忠順 小栗の家臣隊と農兵隊(元込め銃)、ガトリング砲1門、四斤山砲2門、桑名藩の雷神隊 約500人(小栗隊150・雷神隊など350)
同盟方 新潟港・新発田 米沢藩・会津藩 太夫浜の砲台、沖の千代田形、長崎丸が運んだ脱走兵 約1,500人
新政府軍 朝日山・長岡城を攻める 山県有朋 長州・薩摩・松代・尾張などの藩兵、大砲多数 約1万人
新政府軍 海ぞいの道(海道軍) 黒田清隆ら 薩摩・長州・高田などの藩兵、輸送船 約5,000人

兵の数は、同盟方があわせて3千人あまり、新政府軍は1万5千人ほどと見ています。数では5倍ちかい差がありますが、山と城にこもり、弾がつきない側は、攻める側よりずっと少ない兵で戦えます。

山県は、何度も朝日山に攻めかかります。けれど、山の上の砲台から四斤山砲が撃ちおろし、斜面の途中にすえたガトリング砲が、のぼってくる新政府軍の列を横からなぎはらいます。元込め銃に持ちかえた小栗の兵も、次々に撃ち返します。新潟港から届く弾があるので、ガトリング砲は弾を惜しまずに撃ち続けられます。立見鑑三郎の雷神隊も、山の横から攻めかかってきた新政府軍を押し返します。弾がつきる心配は、もうありません。新潟港から、弾薬が届き続けているからです。

朝日山の戦い:ガトリング砲で山県の軍を防ぐ小栗
朝日山の戦い。山の上からガトリング砲と四斤山砲が撃ちおろし、横から桑名藩の雷神隊が切りこむ(イメージ)

朝日山をあきらめた山県の別の隊が、信濃川ぞいに長岡城へ迫ることもあったでしょう。けれど長岡城でも、河井が城壁の上にすえたガトリング砲で、近づく敵を寄せつけません。朝日山を抜けない山県の軍は、長岡城に近づくことができません。そうしているうちに、越後には雪が降りはじめます。雪の深い越後で、冬に大軍を動かすのはむずかしい。山県はついに、越後での攻めをあきらめて兵を引いたのではないでしょうか。長岡城を河井が守り、朝日山を小栗が守りぬいて、長岡は新政府軍を防ぎきったのです。

まとめ:城よりも先に、港を守った

飯能では、補給がなくて負けました。だからこそ小栗は、長岡では城よりも先に新潟港を守ろうとした。港を守り、スネル兄弟から弾薬を受け取り続けたからこそ、朝日山で山県の軍を防ぎきることができた。戦いを決めたのは、一つの合戦の勝ち負けよりも、戦いを続ける力そのものだったのではないでしょうか。

幕府の財布をあずかり、横須賀に製鉄所をつくった小栗は、戦場に立っても、やはり「お金と物の流れ」を見る人でした。もし小栗が北越戦争にいたら、越後の戦いは、史実とはまるでちがう結末をむかえていたかもしれません。

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