もし高橋紹運が岩屋城から引いていたら?父子で立花山城を守りぬき、高橋家も立花家も栄えた

もし高橋紹運が生きていたら

1586年(天正14年)7月、筑前の岩屋城で、大友家の重臣・高橋紹運が島津の大軍を迎え撃ちました。城兵はわずか763人。島津勢は2万とも5万ともいわれます。紹運は半月にわたって城を守り、最後は城兵とともに全員が討ち死にしました。39歳でした。

この戦いは「玉砕」の美談として語られます。けれど、もし紹運が最後の段階で岩屋城を捨て、うしろの城へ、さらにうしろの城へと引きながら時間をかせいでいたら?

先に私の答えを書いておきます。紹運は生きのび、息子の立花宗茂とともに立花山城を守りぬけた。島津は史実と同じく引き上げ、豊臣の九州平定のあと、高橋家も立花家もそろって栄えた。私はそう考えています。

目次

通説・史実:岩屋城の玉砕

まずは史実の流れを見ておきます。紹運がなぜ岩屋城にこだわったのか。そこが、この「もしも」のいちばん大事なところです。

高橋紹運のイラスト
立花宗茂のイラスト
高橋統増のイラスト

高橋紹運・立花宗茂・高橋統増(イラスト:戦国武将図鑑)

大友家を支えた「二枚看板」

高橋紹運は、豊後の大友宗麟に仕えた武将です。筑前の岩屋城と宝満城を守り、同じく筑前の立花山城を守る立花道雪とともに、大友家の北九州を支えてきました。

紹運の長男・統虎(のちの立花宗茂)は、道雪にのぞまれて立花家の婿養子になっています。つまり、立花家と高橋家は親子でつながった家でした。紹運の手もとには、次男の統増が残っていました。

1586年 大友家の北九州の守り(城と武将の配置図)
1586年、大友家の北九州の守り(イメージ)。島津軍の兵力は2万とも5万ともいわれる

ところが、1578年の耳川の戦いで大友家が島津に大敗すると、九州の勢力図は大きく変わります。1585年には道雪も陣中で亡くなりました。島津は九州の統一を目前にし、1586年の夏、大軍を筑前へ向けます。追いつめられた宗麟は大坂の秀吉のもとへ出向き、助けを求めていました。

三つの城と、紹運の選択

このとき、筑前の大友方の城は三つありました。

城 守っていた人 特徴
岩屋城 高橋紹運と城兵763人 宝満城の支城。いちばん前に出た小さな城
宝満城 次男の統増、紹運の妻、女性や子どもたち 宝満山の山頂にある、より大きく険しい城
立花山城 長男の立花宗茂 道雪が守りぬいてきた、博多を見下ろす堅城

兵の数を考えれば、小さな岩屋城より、宝満城や立花山城に兵を集めたほうが長く守れます。宗茂も、秀吉の援軍が来るまで堅い城にこもってほしいと父に伝えたといわれます。

それでも紹運は、いちばん前の岩屋城に残りました。城を捨てて逃げたと言われたくなかったからとも、岩屋で島津を足止めし、宝満城の統増と立花山城の宗茂を守ろうとしたからともいわれます。

岩屋城跡(福岡県太宰府市)。「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑が立つ(写真:日本の歴史ガイド)

半月の籠城と、全員の討ち死に

7月12日、島津は降伏をすすめましたが、紹運はことわります。14日に攻撃が始まり、岩屋城は半月にわたって持ちこたえました。島津は何度も降伏をすすめ、宗茂や黒田官兵衛からも城を出るよう使いが来たといいますが、紹運は最後まで応じませんでした。

7月27日、島津の総攻撃で城は落ちます。城兵は全員が討ち死にし、紹運も櫓の上で自害しました。島津方の損害も大きく、数千人に上ったとする説もあります。紹運の首を見た島津の将たちは、惜しい人を死なせたと涙したと伝わります。

島津家の当主・島津義久と、岩屋城を攻めた大将・島津忠長(イラスト:戦国武将図鑑)

宝満城の落城と、立花山城の勝利

岩屋城を落とした島津は、すぐに宝満城を攻めます。宝満城はほどなく城を明けわたし、統増と紹運の妻は島津にとらえられました。

ところが、立花山城は落ちませんでした。宗茂は城を固く守り、島津の攻めをはね返します。そうしているうちに、毛利家など秀吉方の大軍が九州へ向かってきました。島津は8月の下旬に兵を引き、宗茂はそのあとを追って、岩屋城と宝満城を取りもどしました。

翌1587年、秀吉と秀長の大軍が九州に入り、島津は降伏します。九州の領地の割りふりで、宗茂は筑後の柳河で13万2000石の大名となり、弟の統増にも筑後の三池で1万8000石が与えられました。

立花山城跡(福岡県新宮町・久山町・福岡市)(写真:日本の歴史ガイド)

関ヶ原で、兄弟はそろって領地を失う

その後、宗茂は朝鮮出兵でも名をあげ、「西国無双」とたたえられる名将になります。けれど1600年の関ヶ原の戦いでは、秀吉への恩を重んじて西軍につき、兄弟そろって領地を失いました。

宗茂はのちに陸奥の棚倉で大名にもどり、1620年、ついに柳河10万9000石あまりへ返り咲きます。関ヶ原で領地を失った大名が、もとの領地にもどった例はほとんどありません。統増は「立花直次」と名を改め、その子の代に三池1万石の大名として家を立て直しました。

年 出来事
1578年 耳川の戦い。大友家が島津に大敗する
1581年 紹運の長男・統虎(宗茂)が立花道雪の養子になる
1585年 立花道雪が陣中で亡くなる
1586年4月 大友宗麟が大坂で秀吉に助けを求める
1586年7月14日 島津が岩屋城を攻めはじめる
1586年7月27日 岩屋城が落ち、紹運と城兵763人が討ち死にする
1586年7月末 宝満城が開城。統増と紹運の妻がとらえられる
1586年8月下旬 島津が立花山城の囲みをといて引き上げる。宗茂が岩屋・宝満を取りもどす
1587年 秀吉の九州平定。宗茂は柳河13万2000石、統増は三池1万8000石
1600年 関ヶ原の戦い。宗茂は西軍につき、兄弟とも領地を失う
1620年 宗茂が柳河10万9000石あまりに返り咲く

ですが、もし紹運が引いていたら

ここからが「もしも」です。紹運が宗茂のすすめを聞き入れ、戦い方を変えたとします。ただ城を捨てて逃げるのではありません。岩屋城で島津をぎりぎりまで引きよせ、しっかり叩いてから、頃合いを見て宝満城へ退く。宝満城でも同じように引きよせて叩き、最後は立花山城へ退く。叩いては引き、引いてはまた叩く。三つの城を順につかって、時間をかせぐ戦い方です。

もしも紹運が岩屋城から宝満城、立花山城へ引いていたらの地図
もしもの退却路:岩屋城から宝満城、そして立花山城へ(イメージ)

私の考え:島津を帰らせたのは「時間」だった

この「もしも」を考えるときに大事なのは、島津がなぜ立花山城から引き上げたのか、という点です。

島津が兵を引いたのは、立花山城を攻めあぐねたからだけではありません。秀吉方の大軍が九州へ向かってくる。その知らせが決め手でした。つまり島津には、秀吉の軍が来る前に筑前を取りきれるかどうか、という「時間の勝負」がかかっていたのです。

史実の紹運は、岩屋城の半月で、その時間をかせぎました。もしもの紹運は、岩屋・宝満・立花山の三つの城をつかって、時間をかせぐことになります。ひとつの城で死ぬまで戦うのではなく、三つの城でそれぞれ叩いてから引く。城ごとに島津は陣を組み直し、攻め口をさがし直さなければなりません。かせげる時間は、岩屋城ひとつで戦うより、むしろ長くなったはずです。そして、紹運も城兵も生きのこれます。

降伏すると見せかけて、時をかせぐ

もうひとつ、紹運が使えた手があります。降伏の駆け引きです。

史実でも、島津は何度も紹運に降伏をすすめてきました。紹運はそれをきっぱりとことわっています。ですが、ここで「城を明けわたすので、少し待ってほしい」と降伏に応じるふりをしたらどうでしょう。島津は城を無傷で手に入れたいので、すぐには攻めてきません。使いが行き来するあいだに、2日、3日と時間がかせげます。

のちの1600年、真田昌幸は上田城で、徳川秀忠の大軍に対してまさにこの手を使いました。降伏するそぶりを見せて数日をかせぎ、そのあいだに守りを固め、最後は「やはり戦う」と返事をしたのです。秀忠は上田で足止めされ、関ヶ原の戦いに間に合いませんでした。

まっすぐな人柄の紹運が、こうした駆け引きを好んだかはわかりません。けれど、家と息子たちを守るためなら、一度くらい島津をだます知恵を使ってもよかった。私はそう思います。

それでも心配な点

もちろん、引くことには危うさもあります。

ひとつは、島津の損害です。史実では、岩屋城の戦いで島津も大きな損害を出し、そのあとの攻めが鈍ったといわれます。ただ、もしもの紹運はただ逃げるのではなく、それぞれの城で島津を引きよせて叩いてから退きます。岩屋城で一度、宝満城でもう一度。島津は城を落とすたびに兵を失い、立花山城の前に着くころには、史実と同じか、それ以上に疲れていたはずです。

心配なのは、むしろ城を退くときです。島津の大軍を前に、兵を乱さずに次の城へ移るのは簡単ではありません。とちゅうで追いつかれれば、そこで全滅することもありえました。

それでも私は、引いたほうがよかったと考えます。立花山城は道雪が長年守りぬいてきた堅城で、宗茂の兵に紹運の兵が加われば、守りはさらに固くなります。そして、道雪とともに長く筑前を守り、戦のうまさで知られた紹運なら、島津に背を見せずに引くことはできたはずです。

こうなったかもしれない

では、紹運が生きのびた世界では、何が変わったのか。私は次の四つの変化を考えました。

1. 立花山城で、父と子が並んで戦う

1586年8月、立花山城には、紹運と宗茂の父子がそろいます。紹運が40歳近く、宗茂はまだ20歳前後。大友家を支えてきた名将と、のちに「西国無双」と呼ばれる若者が、同じ城を守るのです。

宝満城の統増と紹運の妻も、島津にとらえられる前に立花山城へ移ることができます。家族がひとつの城にまとまれば、島津が人質を使って降伏をせまることもできません。島津は史実と同じく8月の下旬に兵を引き、父子は追い打ちをかけて、筑前の城を次々に取りもどしたでしょう。

2. 九州平定のあと、高橋家が大名として立つ

翌1587年の九州平定で、秀吉は大友家のために戦った者に手厚い領地を与えます。史実でも、宗茂は柳河13万2000石、まだ若い統増でさえ三池1万8000石をもらいました。

紹運が生きていれば、高橋家の当主は紹運です。筑前で最後まで島津と戦い、城を守りぬいた功は、宗茂にも負けません。

史実では、筑前一国は毛利家の小早川隆景に与えられ、隆景は博多の東に名島城を築いて本拠にしました。名島城は、もとは立花家の城のひとつだったともいわれます。ですが、筑前を島津から守りぬいたのが紹運だったなら、秀吉は筑前をその紹運に任せたのではないでしょうか。

私は、紹運が名島城を本拠に、筑前でおよそ23万石を与えられたと考えます。宗茂は史実どおり筑後の柳河13万2000石。統増は紹運のあとつぎとして名島に残ります。博多を押さえる父の高橋家と、その南で筑後を治める息子の立花家。親子の家が、筑前と筑後に並ぶことになります。

3. 関ヶ原で、紹運が息子たちを引きとめる

いちばん大きく変わるのは、1600年の関ヶ原です。

史実の宗茂は、秀吉への恩を重んじて西軍につき、近江の大津城を攻めているあいだに、関ヶ原で西軍が敗れてしまいました。九州にもどったあとは、黒田如水(官兵衛)や加藤清正、鍋島直茂の軍に柳河を囲まれ、城を明けわたしています。

このとき紹運が生きていれば、53歳。大友家がほろびていくのを間近で見てきた紹運は、恩や義理だけで家を危うくすることのこわさを、だれよりも知っていたはずです。しかも黒田如水は、岩屋城のときに城を出るよう使いを送ってくれた相手です。

私は、紹運が宗茂を九州にとどめ、如水や清正と手を組ませたと考えます。そうなれば、柳河が囲まれることはそもそもありません。立花家と高橋家は、如水・清正とともに九州の西軍を攻める側にまわります。兵を向ける先は、西軍の小西行長が治める肥後の宇土城か、西軍についていた鍋島家の佐賀城でしょう。どちらも、柳河と名島のすぐ近くにある城です。そうなれば、両家とも領地を失うことはありません。

もしもの1600年、宇土城を囲む高橋紹運と立花宗茂のイラスト
もしもの1600年:父子で宇土城を囲む紹運と宗茂(イメージ)

4. 江戸時代、筑前に「高橋」の名が残る

史実では、統増は関ヶ原のあとに「立花直次」と名を改め、高橋の名は大名家としては残りませんでした。宗茂も、柳河にもどるまで20年近くを待たねばなりませんでした。

紹運が生きた世界では、その20年の回り道がありません。柳河の立花家は関ヶ原のあともそのまま栄え、北の筑前には高橋家が大名として続きます。道雪が育てた立花家と、紹運が守った高橋家。二つの家が、親子のきずなでむすばれたまま、江戸時代の筑前と筑後を支えていったでしょう。

史実 もしもの世界
高橋紹運 1586年、岩屋城で39歳で討ち死に 立花山城で生きのび、筑前・名島城で約23万石の大名に
高橋統増 宝満城で島津にとらえられる。のち三池1万8000石 立花山城へ逃れ、紹運のあとつぎに
立花宗茂 柳河13万2000石。関ヶ原で西軍につき改易、1620年に返り咲く 柳河13万2000石。関ヶ原では如水・清正とともに宇土や佐賀を攻め、領地を守る
高橋家 統増が「立花直次」と改名し、高橋の名は大名家に残らない 筑前の大名として江戸時代も続く

引いていれば両家が栄えた、と私が考える理由

  1. 島津が兵を引いたのは、秀吉の軍が近づいたから。三つの城で叩いては引けば、岩屋城ひとつより長く時間をかせげる
  2. 降伏すると見せかける駆け引きを使えば、さらに数日をかせげた
  3. 立花山城は道雪の代から落ちなかった堅城で、紹運の兵が加わればさらに固くなる
  4. 関ヶ原で立花家が領地を失ったのは、宗茂を引きとめる年長者がいなかったから。紹運がいれば、その判断は変わった

まとめ

  • 史実の紹運は、763人で岩屋城を半月守り、全員とともに討ち死にした
  • 島津を引き上げさせたのは、秀吉の大軍が近づいたという「時間」だった
  • 紹運が岩屋・宝満・立花山の城ごとに島津を叩いては引き、降伏の駆け引きも使えば、時間をかせぎながら父子そろって生きのこれた
  • 紹運が生きていれば、関ヶ原で息子たちを引きとめ、高橋家も立花家も栄えた

岩屋城の玉砕は、日本の歴史の中でもとりわけ心をうつ話です。けれど、紹運がもし「生きて家を守る」道を選んでいたら、その強さはもっと長く、もっと広く、九州の歴史に残ったのかもしれません。死んで名を残すことと、生きて家を残すこと。どちらがより強いのか、岩屋城跡に立つと考えずにはいられません。

あなたは、紹運は岩屋城に残るべきだったと思いますか?それとも、引くべきだったと思いますか?

よくある質問

岩屋城の戦いとは?

1586年(天正14年)7月、筑前の岩屋城(いまの福岡県太宰府市)で、高橋紹運ら763人が島津の大軍を相手に半月にわたって戦い、全員が討ち死にした戦いです。島津の九州統一を遅らせ、秀吉の九州平定につながったといわれます。

高橋紹運と立花宗茂はどんな関係?

宗茂は紹運の長男です。立花道雪に男子がいなかったため、道雪の娘・誾千代の婿として立花家の養子に入りました。宗茂の弟・統増は高橋家に残り、のちに「立花直次」と名を改めています。

岩屋城跡はどこにあるの?

福岡県太宰府市の四王寺山の中腹にあります。本丸跡には「嗚呼壮烈岩屋城址」の碑が立ち、山道を下ったところに紹運の墓があります。

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