もし大政所なかが長生きしていたら?孫の秀次は救われ、秀次事件は起きなかったか【豊臣兄弟!】

豊臣秀次

『豊臣兄弟!』で、秀吉と秀長、とも、あさひの母として描かれる「なか」。のちの大政所です。秀吉が天下人になっても、母の前では頭が上がらなかったと伝わります。

なかは、秀吉が朝鮮出兵のために九州の名護屋にいた1592年に亡くなりました。その3年後、なかの孫である秀次が切腹させられ、妻子までが処刑される秀次事件が起きます。もしなかが長生きしていたら、秀次事件は防げたのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

母なかと四人のきょうだい
なかと、とも・秀吉・秀長・あさひの四人のきょうだい(イメージ)
目次

先に結論:秀次の命は救えた可能性がある。少なくとも妻子の処刑は止めた

先に私の答えを書いておきます。なかが生きていれば、秀次事件は史実のような悲劇にはならなかったと思います。秀次は、なかの娘・ともの子で、なかにとっては大切な孫です。なかが「孫を殺さないでおくれ」と言えば、秀吉はさからえなかったはずです。

ただ、秀頼が生まれた以上、秀次が関白のままでいることは難しかったでしょう。秀次は関白を降り、高野山に入るか、一大名として生きる。そして、罪のない妻子39人が三条河原で処刑されることは、なかがいれば決して起きなかったと思います。

史実:なかの生涯と、その死のあと

年 出来事
1513年ごろ 尾張に生まれる(生年には諸説あり)
1585年 秀吉が関白になり、なかは「大政所」と呼ばれる
1586年 家康を臣従させるため、人質として岡崎へ行く
1592年4月 朝鮮出兵。秀吉は肥前名護屋城へ
1592年7月 なかが聚楽第で亡くなる。秀吉は急いで京へもどるが、間に合わなかった
1593年8月 茶々が秀頼を産む
1595年7月 秀次が高野山で切腹
1595年8月 秀次の妻子39人が三条河原で処刑される

秀吉は、なかの病の知らせを名護屋で聞き、急いで大坂へもどりましたが、母の死に目には会えませんでした。知らせを聞いた秀吉は、気を失うほど悲しんだと伝わります。秀吉が母を大切にしていたことは、残された多くの手紙からもわかります。

名護屋城の陣
なかが亡くなったとき、秀吉は朝鮮出兵のため肥前の名護屋にいた(イメージ)
大政所なかと孫たちの関係図
なかから見れば、秀次も秀頼も同じ孫だった(関係図)

なかは秀吉を止められる人だった

秀吉のまわりには、意見を言える人がだんだんいなくなっていきました。1591年には弟の秀長が亡くなり、同じ年に千利休も切腹します。そして1592年に母のなかが亡くなると、秀吉を止められる身内は、正室のねねくらいになりました。

そのねねも、秀次事件では助命を願った記録がありません。ねねにとって秀次は夫の甥ですが、なかにとっては血のつながった孫です。秀吉を止める力も、止めたいという思いも、なかのほうがずっと強かったはずです。

なかの死から秀次事件までの年表図
なかが亡くなってから秀次事件までは、わずか3年だった(年表図)

もしも:なかが長生きしていたら

第1段階:秀頼の誕生(1593年)

秀頼が生まれたとき、なかが生きていれば80歳です。ひ孫の誕生を、だれよりも喜んだでしょう。けれど同時に、関白の座にいる孫の秀次の立場が危うくなることにも気づいたはずです。

史実の秀吉は、日本を5つに分けて4つを秀次に、1つを秀頼に与える案や、秀頼と秀次の娘を婚約させる案を考えています。なかは、こうした「秀次と秀頼が両立する道」を強く後押ししたと思います。

第2段階:秀次の謀反の疑い(1595年)

史実では1595年、秀次に謀反の疑いがかけられ、秀次は高野山に追われて切腹しました。秀吉が本当に秀次を死なせるつもりだったのか、秀次が自ら命を絶ったのかは、いまも議論があります。

なかが生きていれば、まず秀吉に面会を求めたでしょう。「秀次は、ともの子だよ。おまえが小さいころから世話をしたあの子の子だよ」。母の言葉に、秀吉は秀次を高野山に入れるだけで、命まではとらなかったのではないでしょうか。

第3段階:妻子の処刑は起きない

史実でいちばんむごいのは、秀次の妻や側室、幼い子どもたち39人が三条河原で処刑されたことです。この中には、東北から嫁いできたばかりの駒姫もいたとされます。なかがいれば、この処刑は起きなかったと思います。

秀次の塚を見つける角倉了以
のちに角倉了以が、三条河原の秀次一族の塚を見つけて瑞泉寺を建てた(イメージ)

その先:豊臣家に一門が残る

秀次や、その子どもたちが生き残れば、豊臣家にはまだ一門が残ります。秀吉が亡くなったとき、秀頼のそばに成人した一門がいれば、家康も簡単には動けません。秀次事件で一門を失ったことが、豊臣家の弱さの一つでした。なかの長生きは、豊臣家の運命そのものを変えたかもしれません。

まとめ:なかが長生きしていたら

問い 答え(予想)
秀次は 関白は降りても、命は助かった可能性
妻子の処刑は 起きない
秀吉は 母の言葉にはさからえない
豊臣家は 一門が残り、秀吉の死後も家康が動きにくくなる

筆者の感想

なかが亡くなってから、秀吉の晩年の判断は、だんだん人の情からはなれていったように見えます。秀長、利休、そしてなか。秀吉を止められる人が次々にいなくなったことが、豊臣家にとっていちばんの不幸だったのかもしれません。

ドラマのなかは、子どもたちをあたたかく見守る母として描かれています。もしなかが秀次事件のときに生きていたら、孫を守るためにどんな言葉をかけたのか。想像すると胸がしめつけられます。あなたは、なかがいれば秀次は救えたと思いますか?

よくある質問

大政所とはだれのこと?

関白の母を指す呼び名で、ふつうは秀吉の母・なかのことをいいます。なかは秀吉・秀長・とも・あさひの母で、1592年に聚楽第で亡くなりました。

秀次となかの関係は?

秀次は、なかの娘・とも(瑞龍院日秀)の子で、なかの孫にあたります。

秀次事件とは?

1595年、関白・豊臣秀次が謀反の疑いをかけられて高野山で切腹し、その妻子39人が京の三条河原で処刑された事件です。

大河『豊臣兄弟!』IF特集
目次