『豊臣兄弟!』の最終回(第47回)では、20万をこえる豊臣の大軍が小田原城を囲み、北条家が降伏するまでが描かれるようです。このとき北条家は、城にこもって戦う「籠城」を選びました。
北条家の重臣たちは、籠城か、打って出るかで話し合いを重ねましたが、なかなか結論が出なかったと伝わります。ここから、長いだけで何も決まらない会議を「小田原評定」と呼ぶようになりました。では、もし北条家が籠城ではなく、打って出る「野戦」を選んでいたら、結果は変わったのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

🐉 伊達政宗と小田原・関東の「もしも」シリーズ(全14本)
先に結論:野戦でも勝てない。むしろ北条家は、もっと早くほろんだ
先に私の答えを書いておきます。野戦を選んでも、北条家が豊臣軍に勝つことはできなかったと思います。兵の数は4倍以上の差があり、しかも豊臣軍は東海道・北国・海の三方から攻めてきました。国境で一度は勝てても、その先が続きません。
むしろ野戦で主力を失えば、北条家は史実よりずっと早く降伏することになったでしょう。籠城は、負けを先にのばすだけの策に見えますが、北条家にとっては「交渉のための時間」を生む、ほかにない選択でもありました。問題は、その時間をうまく使えなかったことにあります。
史実:小田原攻めの流れ(1590年)
| 月日 | 出来事 |
|---|---|
| 3月1日 | 秀吉が京を出陣 |
| 3月29日 | 山中城が半日で落ちる。同じ日に韮山城の包囲も始まる |
| 4月 | 小田原城を包囲。石垣山に城を築きはじめる。北国勢が松井田城を開城させる |
| 5〜6月 | 鉢形城・八王子城など、関東の支城が次々に落ちる |
| 6月 | 伊達政宗が参陣。石垣山城が完成。韮山城の北条氏規が開城 |
| 7月5日 | 北条氏直が城を出て降伏 |
| 7月11日 | 氏政・氏照が切腹。氏直は高野山へ |
小田原城は、町ごと堀と土塁で囲んだ「総構え」の城で、周囲は約9キロにおよびました。上杉謙信や武田信玄に攻められても落ちなかったこの城を、北条家は最後のよりどころにしたのです。

北条家はなぜ籠城を選んだのか
北条家が籠城を選んだ理由は、過去の成功体験にあります。1561年には上杉謙信が10万ともいわれる大軍で小田原を囲み、1569年には武田信玄も攻めてきましたが、どちらも城を落とせず引きあげました。長く守れば、遠くから来た敵は兵糧が続かずに帰っていく。北条家はそう考えたのです。
一方で、北条氏邦らは、箱根の山や駿河の黄瀬川で豊臣軍を迎え撃つべきだと主張したと伝わります。ただ、これは後の時代の軍記物に書かれた話で、どこまで本当かははっきりしません。


もしも:北条家が野戦を選んでいたら
第1段階:箱根・黄瀬川で迎え撃つ(1590年3月)
野戦を選んだ北条軍は、箱根をこえて駿河に出て、黄瀬川のあたりで豊臣軍を迎え撃つことになります。かつて源頼朝が平家との戦いの前に陣をしいた場所です。北条軍は、小田原の兵もふくめて3〜4万ほどを集められたでしょう。
対する豊臣軍の先頭は、北条家の親戚でもある徳川家康です。家康は3万ほどの兵を率いていました。最初のぶつかり合いは、北条と徳川の戦いになったはずです。
第2段階:一度は勝てても、後が続かない
地の利をいかせば、北条軍が先陣の徳川軍に打撃を与えることはできたかもしれません。けれど、そのうしろには秀吉・秀次らの本隊15万以上がひかえています。北条軍が前に出ているあいだに、北国勢が上野から、水軍が海から関東に入ってきます。北条軍は、前と後ろの両方を気にしながら戦わなければなりません。

第3段階:主力を失い、早い降伏
野戦で主力が大きく傷つけば、小田原城にこもる兵も足りなくなります。史実では3か月以上もちこたえた小田原城ですが、野戦で負けたあとなら、1か月ほどで降伏していたかもしれません。
早く降伏すれば、秀吉の怒りは史実より小さかった可能性もあります。氏政の切腹は避けられず、北条家の領地も取り上げられたでしょうが、氏直の扱いは少しゆるやかになったかもしれません。
その先:「小田原評定」という言葉は生まれない
北条家がすばやく野戦を決めていれば、「小田原評定」という言葉は生まれなかったでしょう。ただ、史実の北条家の会議が本当に「決められない会議」だったのかは、議論があります。籠城を決めたうえで、どう守るか、いつ和睦するかを話し合っていたとも考えられるからです。
北条家に足りなかったのは、決断の早さというより、秀吉の力を正しく見きわめる目だったのかもしれません。
まとめ:北条家が野戦を選んでいたら
| 問い | 答え(予想) |
|---|---|
| 豊臣軍に勝てたか | 勝てない。兵の数は4倍以上で、三方から攻められる |
| 最初の相手は | 先陣の徳川家康。北条と徳川の戦いになる |
| 結果は | 主力を失い、史実より早く降伏する |
| 小田原評定は | 言葉そのものが生まれなかった可能性 |
次に読むならこちら
筆者の感想
小田原評定というと、決められない北条家を笑う言葉として使われがちです。けれど、謙信も信玄も落とせなかった城を持っていれば、籠城を選ぶのは自然なことだったと思います。北条家の誤算は、豊臣軍が謙信や信玄とはけたちがいの兵と兵糧を持っていたことでした。
ドラマの最終回、病の床で小田原の知らせを聞く秀長は、北条家の最期をどう受けとめるのでしょうか。あなたは、北条家が生き残るには、どんな道があったと思いますか?
よくある質問
小田原評定とは?
小田原攻めのとき、北条家の重臣たちが籠城か出撃かを話し合い、なかなか結論が出なかったという話から生まれた言葉です。いまでは、長いだけで結論の出ない会議のたとえとして使われます。
小田原攻めの兵の数は?
豊臣軍は約21万ともいわれ、北条軍は小田原城に約5万、支城もふくめると7〜8万ほどだったと考えられています。
最後まで落ちなかった北条方の城はある?
武蔵の忍城は、石田三成らの水攻めにも落ちず、小田原城が開城したあとに城を明け渡しました。伊豆の韮山城も、北条氏規が6月まで守りぬいています。

















