もし名胡桃城事件が起きなかったら?北条氏政が上洛すれば、北条家は関東の大名として残れたか【豊臣兄弟!】

真田昌幸(イメージ)

『豊臣兄弟!』第46回では、名胡桃城事件をきっかけに、秀吉が小田原の北条を攻めると決める場面が描かれるようです。北条家の家臣が、真田家の名胡桃城を奪った事件です。この事件がなければ、北条家は秀吉に従い、大名として生き残れたのではないか。そう考えた人も多いのではないでしょうか。

もし名胡桃城事件が起きていなかったら。北条氏政は上洛して秀吉に頭を下げ、関東の大名として残れたのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

北条氏直
北条家の当主・氏直。妻は家康の娘・督姫(イメージ)
目次

先に結論:北条は残れた可能性が高い。ただし関東すべては守れない

先に私の答えを書いておきます。名胡桃城事件がなく、氏政が約束どおり上洛していれば、北条家は秀吉に従う大名として残れた可能性が高いと思います。島津家が降伏して薩摩・大隅を守ったように、秀吉は頭を下げた大名を、多くの場合残しているからです。

ただし、関東のほとんどをにぎる北条家を、そのままにはしないでしょう。上野などを取り上げてけずり、まわりに豊臣方の大名を置いて見張る。そうなれば、家康の関東移封もなく、江戸の町も生まれなかったかもしれません。

史実:沼田裁定から小田原攻めまで(1589〜1590年)

年月 出来事
1589年7月(天正17年) 秀吉が沼田領の争いを裁く。3分の2を北条に、名胡桃城をふくむ3分の1を真田に(沼田裁定)
1589年秋 北条氏政の上洛を秀吉と約束する方向で話が進む
1589年10〜11月 北条方の沼田城代・猪俣邦憲が、真田方の名胡桃城を奪う(名胡桃城事件)
1589年11月 秀吉が北条に宣戦を告げる書状を送る
1590年3〜7月 小田原攻め。小田原城が開城し、氏政・氏照は切腹、氏直は高野山へ
1590年8月 家康が関東に移され、江戸に入る
沼田裁定と名胡桃城事件の図
沼田裁定で北条と真田に分けられた沼田領。北条方が名胡桃城を奪った(イメージ図)

秀吉は、大名どうしが勝手に戦うことを禁じていました(惣無事)。名胡桃城を奪ったことは、その決まりを破ったことになります。秀吉にとっては、北条を攻めるのにこれ以上ない理由でした。

真田信之
沼田の地をめぐって北条と争った真田家。のちに信之が沼田城主となる(イメージ)

名胡桃城事件はなぜ起きたのか

名胡桃城事件がなぜ起きたのかは、はっきりしていません。北条家が命じたのか、現地の猪俣邦憲が勝手に動いたのか、さまざまな説があります。真田昌幸が北条を挑発したのではないか、という見方もあります。

また、秀吉ははじめから北条を攻めるつもりで、名胡桃城事件は口実にすぎなかった、という考え方もあります。この見方に立つと、事件がなくても、秀吉は別の理由を見つけて北条を攻めたかもしれません。今回は、事件がなく、氏政が上洛したと仮定して考えます。

もしも:名胡桃城事件が起きなかったら

第1段階:氏政の上洛(1589年末〜1590年)

名胡桃城事件がなければ、氏政は約束どおり上洛し、聚楽第で秀吉に頭を下げることになります。家康の上洛からおよそ3年遅れですが、これで北条家は豊臣政権に入ります。

この上洛には、家康のとりなしが大きかったはずです。氏直の妻は家康の娘・督姫で、北条と徳川は親戚の関係でした。家康は、北条を豊臣政権に組みこむ仲立ちとして、秀吉への面目も立てられます。

北条氏政
北条家の実権をにぎっていた氏政。上洛の決断が家の運命を分けた(イメージ)

第2段階:北条の領地はどうなるか

秀吉は、頭を下げた大名を残しながら、領地をけずるのがいつものやり方でした。島津家は九州の大半を取り上げられ、薩摩・大隅などを残されています。北条家も同じように、領地をけずられるでしょう。

地域 もしも(予想)
相模・伊豆・武蔵 北条家に残る。本拠は小田原のまま
上野 沼田をふくめて北条家から取り上げ、真田や豊臣方の大名に
下総・上総など 一部を取り上げ、里見家や豊臣方の大名に

第3段階:家康は東海に残る

北条家が関東に残れば、家康を関東に移す理由はなくなります。家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の五か国をそのまま治め、東海道の大大名であり続けます。

江戸は、北条家の一つの支城のままです。のちに百万都市になる江戸の町は、生まれなかったかもしれません。

史実ともしもの関東・東海の配置
史実では家康が関東へ。もしもでは北条が関東に残り、家康は東海のまま(配置イメージ)

その先:伊達政宗と奥羽は

史実の伊達政宗は、小田原攻めにぎりぎりで参陣して、命をつなぎました。北条が戦わずに従っていれば、政宗も上洛を急がされ、奥羽の仕置きは小田原攻めとは別の形で進んだはずです。

一方で、北条家と家康が親戚のまま関東と東海にならぶ形は、秀吉にとって気がかりな配置でもあります。秀吉の死後、北条と徳川が手を組めば、東日本に大きな勢力ができてしまうからです。関ヶ原の戦いの形も、大きく変わっていたかもしれません。

まとめ:名胡桃城事件が起きなかったら

問い 答え(予想)
北条は残れたか 残れた可能性が高い。ただし上野などは取り上げられる
仲立ちは 親戚の家康。氏直の妻は家康の娘・督姫
家康は 関東に移されず、東海の五か国に残る
江戸は 北条の支城のまま。百万都市は生まれなかった可能性
注意点 秀吉がはじめから北条を攻めるつもりなら、事件がなくても戦は起きた

筆者の感想

名胡桃城という小さな城をめぐる事件が、北条家100年の歴史を終わらせ、家康を関東に送り、江戸の町を生むきっかけになった。そう考えると、歴史の分かれ道の大きさに驚かされます。

ただ、秀吉が北条を攻めたかったのなら、名胡桃城がなくても戦は起きたのかもしれません。北条が生き残るには、事件がないだけでなく、氏政がもっと早く頭を下げる決断が必要だったと思います。あなたは、北条家が生き残れたと思いますか?

よくある質問

名胡桃城事件とは?

1589年(天正17年)、北条方の沼田城代・猪俣邦憲が、秀吉の裁定で真田家のものとされた名胡桃城を奪った事件です。秀吉はこれを惣無事(大名どうしの私戦の禁止)を破ったとして、北条攻めを決めました。

沼田裁定とは?

北条と真田が争っていた上野の沼田領を、秀吉が裁いたものです。沼田城をふくむ3分の2を北条に、名胡桃城をふくむ3分の1を真田に分けました。

小田原攻めのあと、北条家はどうなったの?

氏政と弟の氏照は切腹し、当主の氏直は高野山へ送られました。氏直はのちに許されましたが、翌年に亡くなっています。北条家は、分家が河内の狭山藩として江戸時代を続きました。

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