『豊臣兄弟!』の本編最終回となる第47回では、20万をこえる大軍で小田原攻めが始まるなか、秀長が病のため出陣できない姿が描かれるようです。小田原城は開城し、秀吉の天下統一は成しとげられますが、その翌年の1月、秀長は52歳でこの世を去ります。
四国攻めでも九州攻めでも、最後に講和をまとめてきたのは秀長でした。もし秀長が病をおして小田原攻めに出陣していたら、北条家の運命や、家康の関東移封は変わったのでしょうか。今回はその「もしも」を考えます。

🍵 豊臣秀長の「もしも」シリーズ(全9本)
先に結論:北条家は大名として残り、家康の関東移封は「半分」になった
先に私の答えを書いておきます。秀長が小田原にいれば、四国の長宗我部、九州の島津と同じように、北条家にも「降伏すれば家を残す」道を用意したと思います。氏政の切腹は避けられ、北条家は相模・伊豆あたりを治める大名として残ったはずです。
そうなると、家康は関東すべてではなく、北条の旧領の一部に移されることになります。ただし、病をおしての出陣は秀長の命を縮め、秀長の死はさらに早まったかもしれません。
史実:秀長が講和をまとめた戦い
| 戦い | 秀長の立場 | 相手の扱い |
|---|---|---|
| 1585年 四国攻め | 病の秀吉にかわる総大将 | 長宗我部元親に土佐一国を残して降伏させる |
| 1587年 九州攻め | 日向方面の総大将 | 島津家に薩摩・大隅などを残す |
| 1590年 小田原攻め | 病で出陣できず | 氏政・氏照は切腹、氏直は高野山へ。北条家の領地はすべて取り上げ |
秀長が総大将や中心にいた戦いでは、相手の家は残されています。秀長がいなかった小田原攻めでは、北条家は領地をすべて失い、当主の父と叔父が切腹しました。この差は、偶然とは言い切れないように思います。


小田原攻めの流れ(1590年)
| 月 | 出来事 |
|---|---|
| 3月 | 秀吉が京を出陣。山中城を秀次らが半日で落とす |
| 4月 | 小田原城を包囲。石垣山に城を築きはじめる |
| 6月 | 伊達政宗が参陣。石垣山城が完成し、北条方の城が次々と落ちる |
| 7月 | 小田原城が開城。氏政・氏照は切腹 |
| 8月 | 家康が関東に移され、江戸に入る |
もしも:秀長が小田原攻めに出陣していたら
第1段階:秀長、病をおして出陣(1590年春)
秀長は、1589年の暮れごろから病に伏せていたと伝わります。もし秀長が無理をして出陣していたら、立場は秀吉の副将、そして北条との交渉役です。家康とならんで、北条家と話ができる数少ない人物になります。
第2段階:早い段階で講和を持ちかける
秀長は、包囲が固まった早い段階で、北条家に講和を持ちかけたと思います。四国でも九州でも、秀長は力で押しきるより、相手の家を残して早く戦を終わらせる道を選んできました。
条件は、氏政の隠居と、上野・武蔵などの明け渡し。そのかわり、当主の氏直には相模・伊豆を残す。家康の娘婿である氏直を立てることで、家康の顔も立ちます。

第3段階:北条家は小田原に残る
氏政が講和を受け入れれば、北条家は相模・伊豆の大名として小田原に残ります。氏政と氏照の切腹もありません。
| ことがら | 史実 | もしも(予想) |
|---|---|---|
| 北条氏政・氏照 | 切腹 | 氏政は隠居、氏照も命は助かる |
| 北条氏直 | 高野山へ。翌年に死去 | 相模・伊豆の大名として小田原に残る |
| 徳川家康 | 関東250万石ほどに移る | 武蔵・上総・下総などに移るが、関東すべてではない |
| 江戸 | 家康が入り、のちの将軍の城下町に | 家康の本拠になるが、北条が箱根の西を固める形に |

その先:秀長の死が早まる
ただし、病をおしての長い陣は、秀長の体にこたえたはずです。史実では1591年1月に亡くなった秀長ですが、出陣していれば、小田原の陣中か、帰ってすぐに亡くなっていたかもしれません。北条家を救ったかわりに、秀長が政権を支えられる時間はさらに短くなります。
北条家が残ると、関ヶ原はどうなる
北条家が小田原に残れば、家康の関東での力は、史実よりずっと小さくなります。箱根の東に北条、西に豊臣方の大名がいる形です。関ヶ原のとき、家康は江戸を空けて西へ向かうのがむずかしくなったでしょう。北条家が家康と親戚であることを考えると、北条が東軍につく可能性もあり、そこは読みにくいところです。
まとめ:秀長が小田原攻めに出陣していたら
| 問い | 答え(予想) |
|---|---|
| 北条家は | 相模・伊豆の大名として残る。氏政は隠居、切腹はなし |
| 家康の関東移封は | 関東すべてではなく、北条の旧領の一部に |
| 秀長は | 無理な出陣で死が早まる可能性 |
| その先 | 家康の関東での力が弱まり、関ヶ原の形も変わる |
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筆者の感想
四国の長宗我部、九州の島津、そして小田原の北条。秀長がいた戦いといなかった戦いで、相手の家の運命がこれほど違うことに気づくと、秀長の存在の大きさをあらためて感じます。
ドラマの最終回で、病床の秀長が小田原の知らせをどう聞くのか。北条家の最期に、秀長は何を思ったのか。そんなことを考えながら最終回を見たいと思います。あなたは、秀長が小田原にいたら、北条家は救われたと思いますか?
よくある質問
秀長はなぜ小田原攻めに行かなかったの?
病のためです。1589年の暮れごろから体調をくずし、回復しないまま、1591年1月22日に大和郡山城で亡くなりました。
小田原攻めで北条家はどうなったの?
1590年7月に小田原城が開城し、氏政と弟の氏照は切腹、当主の氏直は高野山へ送られました。北条家の領地はすべて取り上げられ、家康に与えられました。
秀長が講和をまとめた例は?
1585年の四国攻めでは長宗我部元親に土佐一国を残して降伏させ、1587年の九州攻めでは島津家と講和して薩摩・大隅などを残しています。









