1878年5月14日の朝、内務卿の大久保利通は、馬車で東京の赤坂仮皇居へ向かっていました。紀尾井坂にさしかかったところで、石川県の士族ら6人に襲われ、命を落とします。49歳(数え年)でした。
その日の朝、大久保は訪ねてきた福島県令の山吉盛典に、これからの国づくりの計画を語っていたと伝わります。明治のはじめの10年は国の基礎をつくる時期、次の10年は国の中を整えて産業を育てる時期、最後の10年は後の人たちに引きつぐ時期。いわゆる「30年計画」です。大久保は、ちょうど最初の10年を終えたところでした。
では、もし大久保が暗殺されなかったら? 先に私の答えを書きます。大久保は「30年計画」の2つめの10年を、自分の手で進めたと思います。そして日本の初代総理大臣は、伊藤博文ではなく大久保になっていたはずです。

通説・史実:最初の10年を終えたところで倒れた大久保
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1871年 | 廃藩置県。大久保は岩倉使節団の副使として欧米へ |
| 1873年 | 征韓論をめぐる政変。西郷隆盛・板垣退助らが政府を去る。大久保は内務省をつくり、内務卿となる |
| 1877年 | 西南戦争。盟友だった西郷が亡くなる |
| 1878年5月14日 | 紀尾井坂で暗殺される |
| 1881年 | 北海道の開拓使の払い下げが問題となり、大隈重信が政府を追われる(明治十四年の政変)。10年後に国会を開くことが約束される |
| 1885年 | 内閣制度ができ、伊藤博文が初代総理大臣となる |
| 1889〜90年 | 大日本帝国憲法が発布され、帝国議会が開かれる |
大久保は、薩摩の下級武士の家に生まれ、西郷隆盛とともに倒幕を進めました。明治になってからは、廃藩置県や地租改正、殖産興業など、新しい国の仕組みづくりの中心に立ちました。
一方で、そのやり方は強引だと思われることも多く、政府の外からは「独裁」と批判されました。西南戦争で西郷を死なせたことも、大久保をうらむ人を増やしました。暗殺したのは、西郷を慕う士族たちでした。


ですが、もし大久保が暗殺されなかったら
もしあの朝、護衛がもっと多く、馬車が紀尾井坂を無事に通りすぎていたら。大久保は「30年計画」の2つめの10年に、みずから入っていくことになります。

こうなったかもしれない
1. 産業を育てる10年を、みずから進める
大久保は、欧米を見てまわったとき、とくにイギリスの工場や鉄道に強い衝撃を受けました。内務卿として、製糸や紡績、鉄道や港づくりに力を入れていた大久保は、2つめの10年で日本の産業をいっそう大きく育てようとしたはずです。

2. 開拓使の払い下げ事件は起きない
1881年、北海道の開拓使の工場や船などを、同じ薩摩出身の商人に安く払い下げようとした事件が起き、政府は大きな批判をあびました。長官の黒田清隆は、大久保の後輩にあたる人物です。
大久保が生きていれば、黒田がこれほど強引なことをするのを許さなかったでしょう。そうなれば、この事件をきっかけに大隈重信が追われた「明治十四年の政変」も、起きなかったかもしれません。
3. 憲法と国会は、大久保が段どりをつける
大久保は、すぐに国会を開くことには反対でしたが、少しずつ立憲の政治に進むことには賛成していました。1875年には、木戸孝允や板垣退助と話し合い、立憲政治へ進むことを約束しています(大阪会議)。
大久保が生きていれば、憲法づくりは大久保が段どりをつけ、右腕の伊藤博文が実際の作業にあたる形になったでしょう。

4. 初代総理大臣は大久保に
1885年に内閣制度ができたとき、初代総理大臣に選ばれたのは伊藤博文でした。けれど、もし大久保が生きていれば、そのとき50代の半ばです。政府の中心にいた大久保をさしおいて、ほかの人が総理になることは考えにくいでしょう。私は、初代総理大臣は大久保だったと思います。

5. 自由民権運動とは、ぶつかり続ける
ただ、大久保は政府の外からの声にはきびしい人でした。板垣退助らの自由民権運動は、大久保のもとでいっそう強くおさえられたかもしれません。そのぶん、政府と民権派の対立は深まり、国会が開かれるまでの道のりは、かえってけわしくなった可能性もあります。
6. 結末:「30年計画」は、大久保の手で続く
大久保が生きていれば、明治の国づくりは、大久保の「30年計画」にそって、一本の筋の通った形で進んだと思います。初代総理大臣として憲法と国会の段どりをつけ、最後の10年は伊藤博文たちに引きつぐ。大久保が思い描いたとおりの順番です。
一方で、大久保のもとで政府の力が強くなりすぎ、民の声が届きにくい国になっていたかもしれません。大久保の死は悲劇でしたが、そのあとに伊藤や大隈が育ち、さまざまな考えが政府の中でぶつかり合ったことにも、意味があったのだと私は思います。
まとめ
- 大久保は「30年計画」の2つめの10年を、みずから進める
- 黒田清隆をおさえ、開拓使の払い下げ事件や明治十四年の政変は起きにくい
- 憲法づくりは大久保が段どりをつけ、伊藤博文が作業にあたる
- 初代総理大臣は、伊藤博文ではなく大久保になる
- 自由民権運動とはぶつかり続け、政府の力が強い国になった可能性もある
筆者の感想
大久保利通は、西郷隆盛にくらべて人気がない人物だと言われます。冷たい、強引だ、というイメージが強いからでしょう。けれど、暗殺されたとき大久保の家にはほとんどお金が残っておらず、借金まであったと伝わります。国の仕事に自分のお金までつぎこんでいたのです。
暗殺のその朝に、これからの30年の計画を語っていた大久保。もし紀尾井坂を無事に通りすぎていたら、明治の日本はどんな形になっていたのか。大久保自身が描いた設計図の続きを、見てみたかったと思わずにはいられません。
あなたは、大久保利通が生きていたら、明治の日本はどうなっていたと思いますか?
よくある質問
大久保利通はどこで暗殺されたの?
1878年5月14日の朝、東京の紀尾井坂(今の千代田区紀尾井町のあたり)で、馬車に乗っていたところを襲われました。近くの清水谷公園には「贈右大臣大久保公哀悼碑」が立っています。
「30年計画」とは?
大久保が暗殺の当日の朝に語ったと伝わる国づくりの計画です。明治のはじめの30年を10年ずつに分け、国の基礎づくり、国内の整備と産業の育成、後の人への引きつぎに当てるというものです。
初代総理大臣はだれ?
1885年に内閣制度ができたとき、伊藤博文が初代の内閣総理大臣になりました。伊藤は長州出身で、大久保のもとで力をつけた政治家です。






