1598年8月、豊臣秀吉が亡くなりました。残された秀頼はまだ6歳です。秀吉は、徳川家康に伏見で政治をまかせ、前田利家に大坂城で秀頼を守らせました。家康と利家、この二人が並び立つことで、豊臣政権はなんとか形をたもっていたのです。
ところが、そのわずか8か月後の1599年閏3月、利家は大坂で病のため亡くなります。するとその夜、加藤清正や福島正則ら7人の武将が石田三成を襲い、政権は一気に崩れはじめました。
では、もし利家があと5年生きていたら? 先に私の答えを書きます。関ヶ原の戦いは、少なくとも5年は遅れたと思います。そのあいだに秀頼は大きくなり、豊臣家の残り方は変わったでしょう。それでも、天下はやはり家康のもとへ向かったと私は考えます。

通説・史実:利家の死で、豊臣政権の重しが外れた
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1598年8月 | 秀吉が伏見城で亡くなる。家康は伏見で政務を、利家は大坂城で秀頼の守り役をつとめる |
| 1599年1月 | 秀頼が大坂城に移る。家康が伊達政宗・福島正則らと、秀吉の決まりを破って勝手に縁組を進めていたことが問題になる |
| 1599年2〜3月 | 利家を中心に四大老・五奉行が家康を問いただすが、話し合いで和解。病の利家を家康が大坂に見舞う |
| 1599年閏3月3日 | 利家が大坂で亡くなる。その夜、七将が三成を襲う |
| 1599年閏3月 | 三成は伏見へ逃れ、家康の仲立ちで奉行をやめて佐和山城に引きこもる |
| 1599年9月 | 家康が大坂城の西の丸に入る。利家の子・前田利長に謀反の疑いがかけられる |
| 1600年 | 利家の妻・まつ(芳春院)が人質として江戸へ下る。9月、関ヶ原の戦い |
利家は、若いころから信長に仕え、「槍の又左」と呼ばれた武将です。秀吉とは足軽のころからの友人で、秀吉の死後は、豊臣家の大名たちがいちばん頼りにした人物でした。家康に対して、正面から「待った」をかけられるのは利家だけだったのです。
だからこそ、利家が亡くなると、それまで抑えられていた争いが一気に表に出ました。三成をきらう七将が動き、三成が政権から外れると、家康をとめる人はいなくなります。家康が大坂城に入ったのは、利家の死からわずか半年後のことでした。



ですが、もし利家があと5年生きていたら
もし利家の病が回復し、1604年ごろまで生きていたら。そのとき秀頼は12歳です。利家が大坂城にいるあいだ、豊臣政権の力関係はこのようになっていました。

こうなったかもしれない
1. 七将は三成を襲えない
加藤清正や福島正則は、三成をきらってはいましたが、利家には頭が上がりませんでした。利家は、彼らが子どものころから知っている「おじさん」のような存在だったからです。
利家が生きていれば、七将が刀を抜く前に、利家が両者を呼びつけたでしょう。三成も政権から外されず、奉行として大坂城にとどまります。家康にとっては、つけいるすきが一つ減ることになります。

2. 家康は大坂城に入れない
史実で家康が大坂城の西の丸に入ったのは、利家が亡くなったあとでした。秀頼のいる大坂城に利家がいる限り、家康がそこに腰をすえることはできません。
家康は伏見にいて政務をとり、秀頼は大坂で利家に守られる。秀吉が遺言で決めたこの形が、5年間続くことになります。
3. 前田家への疑いも、まつの人質もない
史実では、利家が亡くなるとすぐ、跡を継いだ利長に「家康を暗殺しようとした」という疑いがかけられました。前田家はこれを晴らすため、利家の妻・まつを人質として江戸に送り、家康に従う道を選びます。
利家が生きていれば、前田家にこの疑いをかけることはできません。前田家は家康の下に入らず、豊臣家を支える大名のままでいたはずです。

4. 利家なら、武断派と奉行衆を手打ちさせる
私が利家なら、残された時間でいちばんに取り組むのは、豊臣家の家臣どうしの仲直りです。朝鮮出兵のころから、清正ら戦場で戦った武将と、三成ら奉行たちの仲は悪くなっていました。この割れ目こそが、家康につけこまれるいちばんの弱点です。
利家が両方の顔を立てて手打ちさせれば、関ヶ原で東軍についた豊臣恩顧の大名たちも、家康の側に流れにくくなります。くわしくは七将と三成の仲が良かったらの記事で考えています。
5. それでも、家康は待つことができる
ただし、家康には大きな強みがありました。年齢です。利家は家康より5歳ほど年上で、もともと体も弱っていました。5年長く生きたとしても、いつかは亡くなります。
家康は無理に動かず、利家がいなくなるのを待てばよいのです。そして利家の跡を継ぐ利長は、父ほどの重みをもっていませんでした。
6. 結末:関ヶ原は5年遅れ、豊臣家の残り方が変わる
利家が1604年ごろに亡くなれば、そこから史実と同じように争いが始まり、関ヶ原にあたる戦いが起きたと思います。ただ、そのとき秀頼は12歳。大名たちの前に自分で出られる年齢になっています。
豊臣恩顧の大名たちは、成長した秀頼の顔を見て、家康につくかどうかを迷ったはずです。家康は勝つにしても、史実より苦しい戦いになり、豊臣家を一大名に落とすことまではできなかったかもしれません。天下は家康へ。けれど豊臣家は、大坂の大きな大名として残る道が広がったと私は思います。
まとめ
- 利家が生きていれば、七将は三成を襲えず、三成は奉行のまま残る
- 家康は大坂城に入れず、秀吉の遺言どおりの形が続く
- 前田家への疑いも、まつの人質もなく、前田家は豊臣方にとどまる
- それでも家康は利家より若く、利家がいなくなるのを待てる
- 関ヶ原は5年遅れ、成長した秀頼のもとで豊臣家が大名として残る道が開ける
筆者の感想
利家の死は、豊臣家にとって「重し」が外れた瞬間でした。利家が亡くなったその夜に七将が動いたことが、何よりそれを物語っています。一人の人物がいるかいないかで、ここまで政権の形が変わるのかと思うと、利家の存在の大きさにあらためて驚かされます。
ただ、利家自身も、自分がいなくなったあとのことをわかっていたのかもしれません。病をおして家康のもとを訪ね、和解したのも、残された時間で少しでも争いをおさめたかったからでしょう。もし利家に5年あれば、秀頼が大人になるまでの「時間」を豊臣家に残せた。それが、この「もしも」でいちばん大きな違いだと思います。
あなたは、利家があと5年生きていたら、関ヶ原は起きたと思いますか?
よくある質問
前田利家はいつ亡くなったの?
1599年閏3月3日、大坂の屋敷で病のため亡くなりました。秀吉の死から約8か月後のことです。
七将による石田三成の襲撃とは?
利家が亡くなった夜、加藤清正・福島正則・黒田長政ら7人の武将が三成を討とうとした事件です。三成は伏見に逃れ、家康の仲立ちで奉行をやめて佐和山城に引きこもりました。
前田家はその後どうなったの?
跡を継いだ利長は家康に疑いをかけられ、母のまつを人質として江戸に送りました。関ヶ原では東軍につき、のちに「加賀百万石」と呼ばれる大大名になりました。






