もし今川義元が桶狭間で勝っていたら?尾張は今川のものに、そして三人の天下人は生まれなかった

もし今川義元が桶狭間で勝っていたら

1560年5月、駿河・遠江・三河の三国をおさめる今川義元は、2万をこえるとも言われる大軍をひきいて尾張へ攻めこみました。迎え撃つ織田信長の兵は、わずか数千です。だれが見ても、今川の勝ちは動かないと思われていました。

ところが5月19日、激しい雨のなか、桶狭間で休んでいた義元の本陣に信長の軍が突っこみ、義元は討ち取られてしまいます。42歳でした。この一戦で、信長は一気に名を上げ、天下への道を歩みはじめます。

では、もし義元が桶狭間で勝っていたら? 先に私の答えを書きます。尾張は今川のものになり、信長の天下取りはここで終わったと思います。そして、信長・秀吉・家康という三人の天下人は、だれも生まれなかったはずです。

今川義元
目次

通説・史実:大軍をひきいながら、桶狭間で討たれた義元

年 出来事
1536年 花倉の乱に勝ち、今川家の当主となる
1549年 三河を押さえ、松平家の竹千代(のちの家康)を駿府にあずかる
1554年 武田信玄・北条氏康と同盟を結ぶ(甲相駿三国同盟)
1560年5月 尾張へ出陣。松平元康(家康)が大高城に兵糧を入れ、丸根砦を落とす
1560年5月19日 桶狭間の戦い。義元が信長に討たれる
1562年 元康が信長と同盟を結び、今川家から独立する
1568〜69年 武田信玄と家康に攻められ、今川家は戦国大名として滅びる

義元は「海道一の弓取り」と呼ばれた、東海でいちばんの大名でした。かつては、京へ上るために尾張を通ろうとしたと言われてきましたが、今では尾張の国境あたりを押さえることが目的だったという見方が有力です。

いずれにしても、義元のまわりは安定していました。東の北条、北の武田とは同盟を結び、背後の心配はありません。だからこそ、全力で西の尾張に向かうことができたのです。

1560年、桶狭間の前の力関係図
1560年、桶狭間の前の力関係(筆者作成)

ですが、もし義元が桶狭間で勝っていたら

もし雨のなか、信長の突撃を義元の旗本たちが押し返していたら。信長は大きな痛手を負い、清洲城へ逃げ帰ることになります。

桶狭間で織田軍を退ける今川軍
桶狭間で織田軍を押し返す今川軍(イメージ)

こうなったかもしれない

1. 信長は清洲で滅びる

桶狭間の突撃は、信長にとって一か八かの賭けでした。そこで負ければ、信長にはもう兵が残っていません。今川の大軍に清洲城を囲まれれば、城を守りきるのは難しかったでしょう。信長はここで討たれるか、尾張を追われることになります。

2. 尾張は今川の国になる

信長がいなくなれば、尾張の武士たちは今川に従うしかありません。今川家は駿河・遠江・三河に尾張を加え、東海の四か国をおさめる大大名となります。伊勢湾の港や、尾張の豊かな田畑も、今川のものになります。

清洲城に入る今川義元
清洲城に入る義元(イメージ)

3. 家康は今川の重臣のまま

史実の家康は、義元が討たれたすきに岡崎城に戻り、今川から独立しました。義元が生きていれば、そのすきはありません。松平元康は今川の一門の家臣として、三河や尾張の守りをまかされたでしょう。

元康は義元から「元」の字をもらい、今川の一族の娘を妻にむかえていました。義元のもとで出世することはあっても、のちの「徳川家康」になる道は、ここで閉ざされます。

武田信玄
徳川家康
清洲城で今川義元に仕える若き松平元康
義元に仕え続ける松平元康(イメージ)

4. 秀吉も世に出られない

尾張の中村で生まれた秀吉は、このころ信長に仕えはじめたばかりの足軽でした。信長がいなくなれば、秀吉が出世する舞台そのものが消えてしまいます。今川の家臣になったとしても、身分の低い者を思いきって取り立てる信長のような主君でなければ、秀吉の出番はなかったでしょう。

5. それでも今川は天下を取れない

では、今川が京へ上って天下を取れたかというと、私は難しかったと思います。美濃には斎藤氏、近江には六角氏や浅井氏がいて、京は三好氏が押さえていました。

さらに、同盟を結んでいた武田信玄も、いつまでも味方とは限りません。史実でも信玄は、義元の死後に同盟を破り、駿河に攻めこんでいます。義元が亡くなり、子の氏真の代になれば、今川家は東と北から狙われることになります。

6. 結末:天下人は生まれず、戦国の世が長く続く

信長も秀吉も家康も、尾張と三河から生まれた天下人でした。その三人が出てこなければ、日本をまとめる人が現れるまで、戦国の世はもっと長く続いたと思います。

今川家は、義元が生きているあいだは東海の大大名として栄えたでしょう。けれど天下を一つにまとめる力は、今川にはありませんでした。桶狭間の一戦は、義元一人の命だけでなく、日本の歴史の流れを大きく決めた戦いだったのです。

まとめ

  • 桶狭間で負けた信長は、清洲で滅びるか尾張を追われる
  • 尾張は今川の国になり、今川家は東海四か国の大大名となる
  • 家康は今川の家臣のまま、独立の道は閉ざされる
  • 秀吉も、取り立ててくれる主君を失う
  • それでも今川は天下を取れず、戦国の世が長く続く

筆者の感想

今川義元というと、「お歯黒をつけた公家かぶれの大名が、信長の奇襲にやられた」というイメージで語られがちです。でも実際の義元は、法律を整え、商人を集め、三河まで勢力を広げた、すぐれた大名でした。

そんな義元が桶狭間で敗れたのは、ほんのわずかな油断と、激しい雨という運が重なったからかもしれません。一つの戦いで、三人の天下人が世に出る道が開かれた。そう考えると、歴史の分かれ道とは、ときに一日の天気で決まるものなのだと思います。

あなたは、義元が桶狭間で勝っていたら、天下はだれのものになったと思いますか?

よくある質問

桶狭間の戦いはどこで行われたの?

今の愛知県名古屋市緑区から豊明市にかけてのあたりとされます。どちらにも「桶狭間古戦場」の史跡があります。

今川義元の兵はどれくらいいたの?

2万から2万5千ほどと言われますが、4万とする説もあります。信長の兵は2千から3千ほどとされます。

今川家はその後どうなったの?

義元の子・氏真が継ぎましたが、家康の独立や武田信玄の侵攻で力を失い、1569年に戦国大名としては滅びました。氏真はのちに家康のもとで暮らし、今川家は江戸時代に高家として続きました。

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