1600年7月、下野の小山まで来ていた徳川家康のもとに、上方で石田三成が挙兵したという知らせが届きました。家康は会津の上杉攻めをやめて西へ引き返し、9月15日の関ヶ原で西軍を破ります。
では、もし家康が引き返さず、そのまま上杉征伐を続けていたら? 三成はすでに大坂で兵をあげています。先に私の答えを書きます。上杉攻めは白河で膠着し、そのあいだに西軍は三つの道と海から江戸へ迫る。家康が上杉を囲んだ「会津包囲網」は、そのまま家康を囲む「江戸包囲網」に変わっていたと思います。

通説:家康は小山から引き返した

1600年7月17日、大坂の奉行たちは家康の罪を並べた「内府ちがいの条々」を出し、毛利輝元を総大将に迎えて兵をあげました。7月19日には家康の家臣・鳥居元忠が守る伏見城を攻めはじめ、8月1日に落としています。
そのころ家康は、会津の上杉景勝を討つために下野の小山にいました。7月25日ごろ、家康は諸将と話し合って西へ戻ることを決めたと言われます(小山評定)。福島正則ら豊臣恩顧の大名たちが先に西へ向かい、家康も8月5日に江戸へ戻りました。上杉への押さえには、次男の結城秀康が宇都宮に残されます。
ですが、もし家康が引き返さず、上杉征伐を続けていたら

家康が「まず上杉を片付け、それから西へ向かう」と決めていたら。福島正則ら豊臣恩顧の大名たちも連れたまま、白河から会津へ攻めこんでいたら。上方は、家康の来ないまま三成たちに任されることになります。
こうなったかもしれない
1. 上杉攻めは白河で膠着する

白河では、上杉が防塁と湿地を使って待ち構えています。会津盆地をかこむ城と峠のラインも固く、家康の大軍でも簡単には破れません。上杉攻めの流れは「もし家康の上杉征伐がそのまま実行されていたら?」でくわしく書きました。
しかも家康は、上杉に背を向けることもできません。背中を見せれば、今度は上杉が関東へ攻め下ってきます(「もし上杉軍が西上する徳川軍を追撃していたら?」)。攻めても破れず、引くこともできない。上杉攻めは、白河でにらみ合ったまま動かなくなります。
2. 西軍は、家康の来ない上方を固める
そのあいだに、西軍は上方をすっかり固めます。伏見城は8月1日に落ち、伊勢では8月の終わりに富田信高の安濃津城も落ちました。丹後では細川幽斎の田辺城を囲み、9月13日に開城させています。
史実では、近江の大津城の京極高次が9月3日に東軍へ寝返り、西軍は1万5千もの兵を大津に割くことになりました。でも家康が来ないとなれば、京極が寝返る理由はありません。大津に向かうはずだった兵も、まるごと東へ向けられます。
家康が東北で動けないとわかった三成たちは、軍を分けて東へ攻め上がります。
- 東海道軍:約7万。旧徳川領を東へ進み、箱根から江戸をめざす
- 中山道軍:約3万。岐阜から木曽路を上り、上田の真田と合流して北西から江戸へ
- 北陸道:大谷吉継が加賀の前田利長をおさえる
- 水軍:九鬼と村上の連合水軍が、海から江戸湾へ
- 大坂:毛利輝元が豊臣秀頼とともに大坂城に残る
北陸道にも大軍を送れれば、三方向から攻められます。ただ、前田利長の兵はおよそ2万5千。大谷吉継の兵だけでは、前田を破って越後・関東へ抜けるのはむずかしいでしょう。北陸道は、前田を加賀に足止めしておく役目にとどめます。
3. 東海道軍、空っぽの城をぬけて東へ

東海道軍の総大将は、五大老の宇喜多秀家です。そこに毛利秀元・吉川広家、長宗我部盛親、小早川秀秋、石田三成、小西行長、島津義弘らが加わり、あわせて7万ほどの大軍になります。
大垣を出た東海道軍の前には、清洲、岡崎、吉田、浜松、掛川、駿府と城が並びます。福島正則、田中吉政、池田輝政、堀尾忠氏、山内一豊、中村一忠。いずれも家康についた大名の城です。
ところが、城主たちはみな家康と一緒に東北にいます。城を守るのは留守の兵だけ。7万の大軍を前に、持ちこたえられる城はほとんどありません。東海道の城は、次々と開城していったはずです。
白河の陣で、福島正則たちはこの知らせを聞きます。自分の城が取られ、城に残した家族は西軍の手の中。しかも相手は「秀頼さまの軍」です。豊臣恩顧の大名たちは、家康についたままでいいのか、大きく揺れることになります。
東海道軍は駿府をこえ、箱根の手前、徳川方の小田原城にせまります。
4. 中山道軍、信長の孫が木曽路を上る

中山道軍は、岐阜城の織田秀信が加わります。秀信は信長の嫡孫で、清洲会議で秀吉に抱かれて現れたと伝わる「三法師」その人です。史実では関ヶ原の前に東軍に攻められて岐阜城を失いましたが、東軍が西へ来ないなら、無傷のまま出陣できます。
そこに大津攻めに向かうはずだった立花宗茂・毛利元康ら、田辺城を開城させた小野木重勝らが合流し、3万ほどの軍になります。木曽谷は西軍方の石川貞清がおさえていて、木曽路は通れます。

木曽路を上った先、信濃の上田城では真田昌幸が待っています。史実では、ここで秀忠の3万8千を足止めした昌幸です。真田の兵を加えた中山道軍は、松本や小諸の城をおさえ、碓氷峠をこえて上野へ。井伊直政の高崎城も、城主は東北にいて留守です。中山道軍は、北西から江戸をうかがいます。
5. 海からは、九鬼と村上の連合水軍

陸だけではありません。伊勢湾の鳥羽からは、西軍の水軍が江戸へ向かいます。中心になるのは九鬼嘉隆。史実でも西軍につき、息子の守隆が家康についていった留守に鳥羽城を押さえた人です。紀伊新宮の堀内氏善、淡路の菅達長もこれに加わります。
さらに瀬戸内からは、村上水軍も呼び寄せます。ただ、全部を出せば瀬戸内の海が空き、伊予の加藤嘉明や藤堂高虎ら四国の東軍に使われてしまいます。そこで、来島康親と能島の村上元吉を江戸へ回し、因島の村上は瀬戸内に残して大坂への海の道を守らせます。
九鬼と村上の連合水軍は、遠州灘・相模湾を回って浦賀水道へ。待ち構えるのは、向井正綱ら徳川の水軍です。水軍だけで江戸を落とすことはできません。それでも江戸湾の入口を押さえれば、江戸へ運ぶ兵糧や物資の船を止め、海から江戸を締め上げることができます。
そして、家康について東北にいる九鬼守隆。もし守隆が急いで江戸湾へ戻れば、浦賀水道で父と子が向き合うことになります。
6. 江戸は、陸と海から囲まれる
白河の家康のもとに、次々と知らせが届きます。東海道の城が開き、小田原に西軍が迫っている。中山道の軍は碓氷峠をこえた。江戸湾の入口には、九鬼と村上の船が並んでいる。
江戸に残っているのは、留守の兵だけです。前には上杉、うしろには西軍に囲まれつつある江戸。上杉に背を向けて江戸へ戻れば、上杉が追ってきます。とどまれば、江戸が落ちるかもしれません。
箱根の西に東海道軍、碓氷峠の東に中山道軍、浦賀水道に連合水軍。江戸を囲む西軍と、白河から動けない家康。両軍はここで、にらみ合うことになったと思います。この先どうなったかは、また別の「もしも」で考えてみたいと思います。
※兵力や日付には諸説あります。
会津包囲網が、江戸包囲網に変わった
家康は会津の上杉を、白河・仙道・信夫・米沢・津川の五つの方向から囲もうとしました。ところが家康が上杉攻めにこだわれば、今度は西軍が同じことをします。東海道・中山道・北陸道の三つの道と海、そして北の上杉。囲んでいたはずの家康が、気づけば囲まれる側に回っているのです。
史実の家康が小山で引き返したのは、この形になるのをいちばん恐れたからだと私は思います。上杉を放っておいてでも西へ戻り、一日で決着をつける。小山での決断は、家康にとって天下の分かれ道でした。
筆者の感想
関ヶ原というと、9月15日の美濃の一日ばかりが語られます。でも地図を広げてみると、東北の上杉、北陸の前田、信濃の真田、海の九鬼と、日本中で同時に戦いが動いていました。家康が引き返さなければ、その一つひとつがつながって、江戸を囲む大きな網になっていたかもしれません。
あなたは、家康が上杉征伐を続けていたら、江戸を守りきれたと思いますか?
よくある質問
石田三成が挙兵したのはいつ?
1600年7月17日、大坂の奉行たちが家康の罪を並べた「内府ちがいの条々」を出し、毛利輝元を総大将に迎えて兵をあげました。7月19日には伏見城への攻撃がはじまっています。
織田秀信はどんな人?
織田信長の嫡孫で、幼名は三法師です。本能寺の変のあと、清洲会議で織田家の跡継ぎとされました。のちに岐阜城主となり、関ヶ原では西軍につきましたが、東軍に岐阜城を攻め落とされています。
九鬼嘉隆と守隆の親子はどうなったの?
父の嘉隆は西軍、子の守隆は東軍につき、親子で敵味方に分かれました。関ヶ原のあと、守隆は父の助命を家康に願い出て許されましたが、その知らせが届く前に、嘉隆は答志島で自害したと伝わります。





