前回の記事では、天正地震が起きなかったら、秀吉は天正14年の正月に三河へ攻めこみ、家康は駿河一国だけを残して降伏していた、と考えました。では、その4年後。秀吉が北条を滅ぼしたとき、北条の旧領・関東はだれに任されていたのでしょうか。史実では家康が入った関東に、家康はいません。今回はその「もしも」を考えます。
通説:秀吉は家康を遠ざけるために関東へ移した
よく言われるのは、秀吉は家康の力を恐れ、先祖代々の三河・遠江・駿河から引きはがして、遠い関東へ移した、という見方です。家康はまだ小さな町だった江戸に入り、一から城と町をつくり上げました。それがのちの江戸幕府の土台になった、という筋書きです。
史実:小田原攻めと関東移封、そして秀長の病
| 年月 | 出来事 |
|---|---|
| 1590年3月(天正18年) | 秀吉が小田原へ出陣。秀長は病で加われず |
| 1590年3月29日 | 山中城攻め。一柳直末が戦死する |
| 1590年7月 | 小田原城が開城。北条氏政・氏照は切腹 |
| 1590年7月 | 家康に北条の旧領・関東が与えられる |
| 1590年8月 | 家康が江戸に入る(8月1日と伝わる) |
| 1590年 | 旧徳川領の東海道に、中村一氏(駿府)・山内一豊(掛川)・堀尾吉晴(浜松)・田中吉政(岡崎)らを置く |
| 1590年9月 | 秀長の病が再発し、郡山へ戻る |
| 1591年1月22日(天正19年) | 秀長が大和郡山城で亡くなる。跡は養子の秀保が継ぐ |
| 1594年(文禄3年) | 秀秋が小早川隆景の養子に出される |
| 1595年(文禄4年) | 秀保が17歳ほどで亡くなり、秀長家は絶える |
家康に与えられた関東は、武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野などにまたがる、およそ250万石ともいわれる広い領地でした。そのかわり家康は、三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を手放し、東海道には秀吉の子飼いの大名たちが並べられます。
一方、このころの秀長は重い病の中にいました。天正17年の暮れから体調を崩し、天正18年の正月には年頭の挨拶にも出られず、かわりに秀保が出仕しています。小田原攻めにも加われず、翌年の1月に亡くなりました。
詳しい史実は、姉妹サイトの秀長はなぜ小田原攻めに行けなかったのか(日本の歴史ガイド)で解説しています。
もし家康が駿河一国の大名だったら

前回の「もしも」の続きです。天正14年に家康が降伏し、駿河一国の大名になっていたとします。北条攻めでは、家康は豊臣方の一大名として箱根の手前で働くだけ。北条が滅んだあと、関東250万石を任せられるほどの大名は、家康のほかにはいません。私が秀吉なら、だれを関東に置くか。
こうなったかもしれない
1. 蒲生は会津へ。関東は思い切って秀長家に
関東を任せられそうな大名には、蒲生氏郷もいます。しかし史実で氏郷が入ったのは会津です。伊達政宗ににらみをきかせる奥州の押さえは、氏郷でなければつとまりません。
そこで関東は、思い切って豊臣の一門、秀長家に任せます。秀長は病の身ですが、秀長家には養子の秀保がいます。関東という大きな土地を、他人ではなく身内に預ける。家康という大きな力がいなくなった世界だからこそ、できることです。
2. 江戸に入るのは秀保と、秀長が育てた家臣たち
秀長自身は、病で関東まで行くことはできません。実際に江戸へ入るのは、まだ12歳ほどの秀保と、秀長が育てた家臣たちです。本拠は、史実で家康が入ったのと同じ江戸。秀長家の石高は、およそ100万石とします。
秀保を支える中心は藤堂高虎です。高虎は秀長のもとで紀伊の粉河城をまかされ、城の普請を受け持つうちに築城の名手と呼ばれるようになりました。史実では、家康の江戸城の縄張りにもかかわっています。この世界では、高虎が秀長家のために江戸城と江戸の町をつくることになります。
3. 与力の大名たちを関東に並べ、合わせて200万石
秀長家だけで関東すべてを治めるのは無理があります。そこで、秀長家を支える「与力」の大名を関東に並べます。秀長の家臣だった藤堂高虎や桑山重晴は、このときに独立した大名にします。そこに、蜂須賀小六の盟友だった稲田植元、秀吉の子飼いの山内一豊・中村一氏・堀尾吉晴・田中吉政・一柳直盛を加えます。

| 場所 | 大名 | 石高(仮) | どんな人か |
|---|---|---|---|
| 江戸(武蔵) | 豊臣秀保(秀長家) | 100万石 | 秀長の養子。関東の主となる |
| 箕輪(上野) | 藤堂高虎 | 20万石 | 秀長に育てられた築城の名手。秀保の後見役 |
| 小田原(相模) | 中村一氏 | 20万石 | 秀吉の子飼い。史実では駿府城主。箱根をおさえる |
| 韮山(伊豆) | 山内一豊 | 15万石 | 史実では掛川城主。駿河の家康と向き合う |
| 厩橋(上野) | 堀尾吉晴 | 12万石 | 秀吉の古参。史実では浜松城主で、のちの三中老の一人 |
| 川越(武蔵) | 田中吉政 | 12万石 | 秀次の宿老をつとめた実務家。史実では岡崎城主。江戸の北をおさえ、佐竹・宇都宮ににらみをきかせる |
| 佐倉(下総) | 桑山重晴 | 15万石 | 秀長の家で和歌山城をあずかった重臣 |
| 大多喜(上総) | 一柳直盛 | 12万石 | 山中城で戦死した兄・直末の跡を継ぐ |
| 館林(上野) | 稲田植元 | 10万石 | 蜂須賀党の古参。蜂須賀小六とともに秀吉を支えた |
秀長家100万石に、与力の大名たちを合わせると、およそ210万石。関東のほぼすべてを、豊臣一門とその与力で固めることになります。北には佐竹・宇都宮、房総の先には里見がいて、どの家もつぶさずに残します。
4. 駿河の家康は、箱根の向こうに閉じこめられる
駿河一国の家康から見ると、東の箱根の先には小田原の中村一氏と韮山の山内一豊、西の遠江・三河には秀吉の子飼いの大名たちがいます。どちらを向いても豊臣方です。
史実の家康は、関東250万石という大きな力を手に入れたことで、秀吉の死後に天下を争う大名になりました。この世界の家康は、駿河一国のまま、東西を豊臣方にはさまれて生きていくことになります。
5. 大和郡山には、小早川へ出さない秀秋を
秀長家が関東へ移れば、大和郡山が空きます。ここには、ねねの甥の秀秋を置きます。史実の秀秋は、秀頼が生まれたあとの1594年に小早川隆景の養子に出されました。この世界では小早川へは出さず、豊臣一門の大名として大和一国を任せます。
秀長が長く治めた大和に、ねねの一族が入る。豊臣家の足もとを、一門で固めることになります。


秀長が治めた大和郡山城。この世界では秀秋の城になる(写真:日本の歴史ガイド)
6. 秀長が亡くなっても、秀長家は与力が支える
史実では、秀長は1591年の1月に亡くなり、跡を継いだ秀保も1595年に17歳ほどで亡くなって、秀長家は絶えてしまいました。この世界でも、秀長の死は避けられないでしょう。
ちがうのは、秀長家のまわりに、独立した与力の大名たちがいることです。たとえ秀保に何かあっても、藤堂・中村・山内・堀尾・田中らが関東に残っていれば、関東は豊臣方のままです。秀長家という一つの家に頼るのではなく、何人もの大名で関東を支える。これがこの配置のいちばんのねらいです。
結末:江戸は「豊臣の町」になる
江戸の町と江戸城は、家康ではなく、秀長家と藤堂高虎の手でつくられます。関東には豊臣の旗が立ち、駿河の家康は箱根の向こうから、それを見ていることしかできません。
秀吉が亡くなったあとも、関東の200万石は豊臣方にあります。史実の関ヶ原で家康を支えた関東の大きな力は、この世界では豊臣家を支える側にまわります。天下を争う大いくさは起きず、江戸は「将軍の町」ではなく「豊臣の町」として育っていったでしょう。




史実では家康がつくりあげた江戸城。この世界では秀長家と藤堂高虎の城になる(写真:日本の歴史ガイド)
まとめ
- 史実では、北条の旧領・関東およそ250万石は家康に与えられた
- 家康が駿河一国の大名なら、関東を任せられる大名は家康のほかにいない
- 蒲生氏郷は奥州の押さえとして会津へ。関東は思い切って秀長家(秀保)に、本拠は江戸
- 藤堂高虎・桑山重晴・稲田植元・山内一豊・中村一氏・堀尾吉晴・田中吉政・一柳直盛を与力として独立させ、合わせておよそ200万石
- 大和郡山には小早川へ出さない秀秋を置き、豊臣家の足もとも一門で固める
家康がいなくなった関東を、豊臣の一門と与力で固める。そうすれば、のちの江戸幕府の土台になった関東は、豊臣家を支える土台に変わっていたはずです。
筆者の感想
関東をだれに任せるか考えたとき、まず浮かんだのは蒲生氏郷でした。けれど氏郷は会津で伊達をおさえる役目があります。そうなると、思い切って秀長家しかないと思いました。病の秀長本人は動けなくても、秀長が育てた家臣たちがいます。
藤堂高虎や桑山重晴を、このタイミングで独立した大名にしてしまう。秀長家の家臣のままでは、秀保が亡くなったときに一緒に行き場を失ってしまいます。与力として独立させておけば、秀長家に何があっても関東は豊臣方に残る。史実で秀長家が絶えたことを思うと、ここが一番大事なところだと思います。
あなたが秀吉だったら、家康のいない関東をだれに任せますか?
よくある質問
家康が関東に移されたのはいつ?
天正18年(1590)7月、小田原城が開城して北条家が滅んだあとです。家康は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃を手放し、北条の旧領の関東に移されました。江戸に入ったのは8月1日と伝わります。
家康の関東の石高はどれくらい?
およそ250万石ともいわれます。武蔵・相模・伊豆・上総・下総・上野などにまたがる広い領地で、豊臣政権の中でいちばん大きな大名になりました。
秀長はなぜ小田原攻めに行かなかったの?
重い病のためです。天正17年の暮れから体調を崩し、有馬温泉で湯治をしても回復しませんでした。翌天正19年(1591)1月22日に、大和郡山城で亡くなっています。
与力とは?
有力な大名の下につけられ、その指揮のもとで働く大名や武将のことです。自分の領地は持ちながら、いくさや政務では主となる大名を支えます。
秀長家はその後どうなったの?
史実では、秀長の死後に養子の秀保が跡を継ぎましたが、1595年に17歳ほどで亡くなり、秀長家は絶えました。秀長の家臣だった藤堂高虎や桑山重晴は秀吉の直臣となり、のちに関ヶ原では東軍につきました。






