もし藤吉郎が墨俣築城に失敗していたら?だれにも築けず、信長は「調略」で美濃を取った

もし藤吉郎が墨俣築城に失敗していたら

大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、第7回「決死の築城作戦」と第8回「墨俣一夜城」で、藤吉郎と小一郎が墨俣に砦を築く大作戦が描かれました。美濃の斎藤家と戦う信長のために、敵地の目の前に、わずかな日数で城を建ててしまう。藤吉郎が出世の階段をかけあがる、最初の大舞台です。

では、もし藤吉郎がこの墨俣の築城に失敗していたら? ほかのだれかが、かわりにやりとげていたのでしょうか。

先に私の答えを書いておきます。藤吉郎が失敗していたら、墨俣の城はだれにも築けなかった。けれど信長は、城ではなく「調略」で美濃を手に入れた。そして藤吉郎も、別の道から出世していった。私はそう考えています。

目次

通説・史実:墨俣一夜城とは

まずは、よく知られた「墨俣一夜城」の話を見ておきます。ただし、この話には「どこまで本当なのか」という大きな問題があります。そこも含めて整理します。

豊臣秀吉のイラスト
豊臣秀長のイラスト
織田信長のイラスト

豊臣秀吉(藤吉郎)・豊臣秀長(小一郎)・織田信長(イラスト:戦国武将図鑑)

美濃を攻めあぐねる信長

1560年の桶狭間の戦いで今川義元を討った信長は、次に北の美濃をねらいます。美濃を治めていたのは斎藤家です。ところが、斎藤家の本拠・稲葉山城(のちの岐阜城)は山の上にある堅城で、信長は何年も攻めあぐねていました。

そこで考えられたのが、尾張と美濃の境を流れる川のそば、墨俣に前線の城を築くことでした。墨俣は長良川などの川が集まる場所で、ここに城があれば、美濃に攻めこむ足がかりになります。

失敗した二人の重臣

通説では、信長はまず重臣の佐久間信盛に墨俣の築城を命じました。けれど、工事の最中に斎藤勢に襲われて失敗します。次に柴田勝家が挑みましたが、これも斎藤方の攻撃で失敗しました。

敵地の目の前で城を築くのは、とてもむずかしいことです。城ができあがるまでのあいだ、兵も職人も無防備な状態で、敵の攻撃を受け続けることになるからです。

藤吉郎と川並衆

1566年、軍議の末席にいた木下藤吉郎が、この役目を買って出たと伝わります。藤吉郎が頼ったのは、尾張と美濃の境の川筋で暮らす土豪たち、「川並衆」でした。その中心にいたのが、のちに秀吉の重臣となる蜂須賀小六(正勝)や前野長康です。

藤吉郎たちは、上流で材木を切り出して加工し、筏に組んで川に流して墨俣まで運びました。現地では組み立てるだけです。敵の目の前でいちから城を建てるのではなく、部品を先に作っておいて、一気に組み上げる。この工夫で、わずかな日数で柵と櫓を立ち上げたといいます。

墨俣で築城の指揮をとる蜂須賀小六のイラスト
墨俣で川並衆を率いて築城を進める蜂須賀小六(イメージ/イラスト:戦国武将図鑑)
夜を徹して築かれる墨俣の砦のイラスト
夜を徹して築かれる墨俣の砦(イメージ/イラスト:戦国武将図鑑)

実際に墨俣に城を築いたのはだれか

ここで、ひとつ大事なことを書いておかなければなりません。この「一夜城」の話は、江戸時代の『絵本太閤記』や、昭和になって見つかった『武功夜話』に出てくるもので、信長の家臣・太田牛一が書いた信頼できる記録『信長公記』には出てこないのです。

『信長公記』に出てくるのは、信長自身が墨俣(洲股)の要害の修築を命じ、美濃勢と戦ったという話です。1561年の十四条の戦いのころのことで、そのあと墨俣は引きはらわれています。つまり、墨俣に城や砦があったこと自体は確かでも、それを藤吉郎が一夜で築いたかどうかは、はっきりしません。

『武功夜話』については、のちの時代に手が加えられた偽物だとする研究者もいれば、ほかにない史実をふくむと評価する研究者もいて、意見が分かれています。この記事では、通説の「藤吉郎の墨俣一夜城」をもとに「もしも」を考えますが、本当に墨俣に城を築いたのは信長その人だった、と考えることもできるのです。

年 出来事
1560年 桶狭間の戦い。信長が今川義元を討つ
1561年 十四条の戦い。『信長公記』では、信長が墨俣(洲股)の要害を修築させる
1564年 竹中半兵衛が、わずかな手勢で稲葉山城を一時乗っ取る
1566年 通説では、藤吉郎が墨俣に一夜城を築く
1567年 西美濃三人衆が信長に味方し、稲葉山城が落ちる。信長は城を岐阜と改める

ですが、もし藤吉郎が失敗していたら

ここからが「もしも」です。通説どおり、佐久間信盛も柴田勝家も失敗したあとに、藤吉郎も墨俣の築城に失敗したとします。筏の材木は斎藤勢に流され、組みかけの柵は焼かれてしまった。そのとき、信長はだれに墨俣を任せたでしょうか。

もし藤吉郎が墨俣築城に失敗していたら
崩れた砦を前にくやしがる藤吉郎と、それを支える小一郎(イメージ)

候補になりそうな武将たち

織田家の中で、墨俣の築城を任されそうな武将を考えてみます。

柴田勝家のイラスト
丹羽長秀のイラスト
森可成のイラスト

柴田勝家・丹羽長秀・森可成(イラスト:戦国武将図鑑)

候補 強み 弱み
佐久間信盛・柴田勝家 織田家の重臣で、兵を多く動かせる 通説ではすでに失敗している。もう一度任されるとは考えにくい
丹羽長秀 のちに安土城の普請を任される、城づくりの名人 川筋の土豪とのつながりがない
森可成 美濃の出身で、美濃の地理と人にくわしい 戦場の猛将で、普請の実績は少ない
蜂須賀小六(川並衆) 材木、筏、人手、川の道をすべて持っている このころはまだ織田家の家臣ではない

いちばん有力なのは、丹羽長秀だと私は思います。長秀は「米五郎左」と呼ばれ、米のように欠かせない人と信長に重宝された武将です。のちには安土城の普請(工事)の総奉行も任されています。城をきちんと築くことにかけては、織田家で一、二をあらそう人でした。

私の考え:決め手は「人」ではなく「川並衆」だった

けれど、私は、長秀でも墨俣は築けなかったと考えます。

墨俣一夜城のいちばんの工夫は、材木を上流で加工し、筏で流して一気に組み立てることでした。それを可能にしたのは、川筋を知りつくし、材木と人手と船を持っていた川並衆です。そして川並衆は、織田家の家臣ではありませんでした。彼らを動かしたのは、身分の低いころから川筋の土豪たちと付き合ってきた、藤吉郎個人のつながりだったのです。

藤吉郎が失敗したということは、その川並衆の力を使っても失敗したということです。だとすれば、川並衆を動かせない長秀や可成が挑んでも、結果は同じでしょう。墨俣の城は、だれにも築けなかった。私はそう考えます。

こうなったかもしれない

では、もし墨俣に城が築けなかったら、その後はどう変わっていたのか。私は次の三つの流れを考えました。

1. 信長は「城」をあきらめ、「調略」で美濃を取る

墨俣がだめなら、信長は別の手を使います。美濃の武将たちを、一人ずつ味方に引きこむ「調略」です。

実は史実でも、稲葉山城を落とす決め手になったのは、墨俣の城よりもこの調略でした。1567年、斎藤家を支えていた西美濃の有力な武将、稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元(卜全)の「西美濃三人衆」が信長に味方します。支えを失った斎藤龍興は稲葉山城を捨てて逃げ、信長は美濃を手に入れました。

稲葉一鉄のイラスト
安藤守就のイラスト
氏家直元のイラスト

西美濃三人衆:稲葉一鉄・安藤守就・氏家直元(イラスト:戦国武将図鑑)

そもそも斎藤家は、このころすでにぐらついていました。1564年には、家臣の竹中半兵衛が、わずかな手勢で稲葉山城を乗っ取ってしまう事件まで起きています。主君の龍興は家臣の心をつかめていなかったのです。墨俣に城があってもなくても、西美濃三人衆が龍興を見かぎる流れは変わらなかったでしょう。

竹中半兵衛のイラスト
稲葉山城を乗っ取った竹中半兵衛(イラスト:戦国武将図鑑)

2. 藤吉郎は「調略」で名をあげる

もしもの美濃攻略配置図
もしもの美濃攻略。墨俣の城がなくても、西美濃三人衆の内応で稲葉山城は落ちる(イメージ)

墨俣で失敗した藤吉郎は、信長の前で大きく面目を失います。足軽から身を起こした藤吉郎にとって、これは出世の道がとざされかねない大失敗です。

けれど、藤吉郎には、城づくりよりもっと得意なことがありました。人の心をつかみ、敵を味方に変える調略です。藤吉郎は、美濃の武将たちへの調略にもかかわったといわれます。のちに竹中半兵衛を口説き落として家臣にしたという話もよく知られています。

墨俣で失敗した藤吉郎は、墨俣の失敗を取りかえすために、美濃の調略に全力をそそいだでしょう。そして1567年に稲葉山城が落ちたとき、手柄をあげた一人として名をつらねる。出世は数年おくれても、藤吉郎は藤吉郎のまま、上にのぼっていったはずです。

3. 小一郎の役目は変わらない

兄が失敗したとき、そばで支えたのは小一郎でしょう。墨俣の失敗で失った兵や川並衆との信頼を、一人ずつ取りもどしていく。兄の失敗のあと始末をするのは、のちに「天下一の補佐役」と呼ばれる小一郎の、いちばん最初の大仕事になったかもしれません。

兄が前に出て、弟がうしろを固める。墨俣で成功しても失敗しても、豊臣兄弟の形は、きっと同じだったのです。

通説 もしも
墨俣の城 藤吉郎が川並衆の力で一気に築く だれにも築けない
美濃攻め 墨俣を足がかりに、1567年に稲葉山城が落ちる 西美濃三人衆の調略で、やはり1567年ごろに落ちる
藤吉郎 墨俣の成功で出世の足がかりをつかむ 失敗で出世がおくれるが、調略で名をあげる
小一郎 兄の築城を支える 兄の失敗のあと始末で、補佐役の力を見せる

だれにも築けなかった、と私が考える理由

  1. 墨俣築城の決め手は、材木と筏と人手を持つ川並衆で、織田家の家臣ではなかった
  2. 川並衆を動かせたのは藤吉郎個人のつながりで、ほかの武将にはその伝がなかった
  3. 藤吉郎が川並衆の力を使っても失敗したなら、それ以上の手は織田家に残っていなかった

まとめ

  • 通説では、佐久間信盛と柴田勝家が失敗したあと、藤吉郎が川並衆の力を借りて墨俣に城を築いた
  • ただし一夜城の話は信頼できる記録になく、墨俣の要害を修築させたのは信長自身だったとも考えられる
  • 藤吉郎が失敗していたら、川並衆を動かせないほかの武将にも、墨俣の城は築けなかった
  • それでも信長は西美濃三人衆の調略で美濃を手に入れ、藤吉郎も調略で名をあげた

墨俣一夜城は、藤吉郎の出世物語の中でもいちばん有名な場面です。けれど、「もし失敗していたら」と考えてみると、藤吉郎の本当の強さは、城を建てる技術ではなく、川並衆のような人たちを味方につける力だったことが見えてきます。城は崩れても、人とのつながりは残る。藤吉郎は、墨俣で失敗していても、やはり天下人への道を歩いていたのかもしれません。

あなたは、藤吉郎のかわりに墨俣を築けたのは、だれだったと思いますか?

よくある質問

墨俣一夜城は本当に一夜でできたの?

一夜で城ができたわけではありません。材木を上流で加工しておき、筏で運んで現地で一気に組み立てたため、数日で柵や櫓を立ち上げたというのが通説です。ただし、この話そのものが、江戸時代の『絵本太閤記』や『武功夜話』に出てくるもので、信頼できる記録では確かめられていません。

墨俣城の跡はどこにあるの?

岐阜県大垣市墨俣町にあり、いまは「墨俣一夜城(墨俣歴史資料館)」として天守の形をした建物が建っています。ただし、当時の墨俣に天守があったわけではなく、この建物は昭和から平成にかけて建てられた資料館です。

西美濃三人衆とはだれのこと?

斎藤家に仕えていた西美濃の有力な武将、稲葉一鉄(良通)・安藤守就・氏家直元(卜全)の三人です。1567年にそろって信長に味方し、稲葉山城が落ちるきっかけをつくりました。

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