もし信長が天下を統一していたら?もしもの領地図で見る、国を細かく分けた「信長の日本」

もし信長が天下を統一していたら

1582年6月、本能寺の変で織田信長が倒れなければ、天下統一は目の前でした。では、もし信長がそのまま天下を統一していたら、日本の領地はどのように分けられていたでしょうか。

この記事では、信長が生きていた場合の1590年ごろの日本を、地方ごとの「もしもの領地図」で予想してみます。

先に私の答えを書いておきます。信長の天下は、京・大坂のまわりと海の要所を織田一門でかため、秀吉や光秀のような力のある重臣は遠い国へ送り出し、従った大名はそのまま残す。そして、どの大名にも大きすぎる領地はあたえず、国を細かく分けていた。秀吉の天下とはまったくちがう地図になっていたのではないでしょうか。

目次

通説・史実:1582年の織田家と、秀吉の天下

まずは、本能寺の変の直前の織田家を見ておきます。1582年3月に武田家をほろぼした信長は、残る大きな敵に向けて家臣たちを一斉に動かしていました。

1582年5月 天下統一の総仕上げ 織田家の配置図
1582年5月、四方へ家臣を送り出した織田家(イメージ)
  • 中国の毛利家:羽柴秀吉が備中高松城を水攻め中
  • 四国の長宗我部家:三男の信孝と丹羽長秀が渡海の準備中
  • 北陸の上杉家:柴田勝家が越中の魚津城を攻撃中
  • 関東:滝川一益が上野に入り、北条家などとの取り次ぎ役に

このとき、信長の領地と、信長に従う大名の領地を合わせると、日本のおよそ半分におよんでいました。ところが6月2日、本能寺の変で信長と跡継ぎの信忠が亡くなり、天下は秀吉の手にわたります。

秀吉の天下は「大きな大名」の天下

秀吉は1590年に小田原の北条家をほろぼし、奥羽の大名たちも従えて天下を統一しました。けれど秀吉の天下には、とても大きな領地を持つ大名がいくつも残りました。

大名 史実の1590年代の領地
徳川家康 関東の約250万石
毛利輝元 中国地方の約120万石
上杉景勝 会津など約120万石
前田利家 加賀・能登・越中の約80万石
伊達政宗 陸奥の約58万石
島津義久・義弘 薩摩・大隅など約60万石

秀吉は、もとは同じ織田家の家臣だった大名や、戦って降した大名を、力ずくではなく「領地を認める」ことで味方につけました。そのため、大きな大名が残り、秀吉の死後、そのうちの一人の家康が天下を取ることになります。

ですが、もし信長が天下を統一していたら

ここからが「もしも」です。本能寺の変が起きず、信長が毛利・長宗我部・上杉・北条を降して、1590年ごろまでに天下を統一したとします。そのとき信長は、日本をどう分けたでしょうか。

もし信長が天下を統一していたら
安土城で日本の地図を前に、国の分け方を考える信長(イメージ)

私の考え:信長の領地割りの四つの決まり

信長がそれまでにやってきたことを見ると、領地の分け方にははっきりとした決まりがあったと思います。

  1. 中心は一門でかためる:京・大坂のまわりや、海の要所には、信忠・信雄・信孝といった息子たちを置く
  2. 力のある重臣は遠くへ:秀吉や光秀、勝家のような重臣は、手柄に応じて新しい国へ移す(国替え)
  3. 従った大名は残す:早くから従った大名や、降伏した大名は、領地を減らしても家は残す
  4. 大きな領地はあたえない:方面軍をひきいた重臣でも二か国まで。その与力は一国ずつにして、国を細かく分け、織田家に逆らえる大名をつくらない

信長は、30年仕えた重臣の佐久間信盛でさえ「働きが悪い」と追放した人です。家臣に大きな領地をあたえて、あとで逆らわれるようなことはしなかったでしょう。この四つの決まりで、地方ごとに見ていきます。

予想:もしもの1590年ごろ、信長の天下の領地図

もしもの1590年ごろ 信長の天下の領地図
もしもの1590年ごろ、信長の天下の領地図。主な大名だけを示しています(イメージ)

畿内・中国・四国:中心は一門、山陰には光秀

もしもの信長の天下 畿内・中国・四国の領地図
畿内・中国・四国:京のまわりは一門と側近、山陰に光秀、安芸に津田信澄(イメージ)

信長は安土城にいて、将軍か太政大臣として天下を治めます。跡継ぎの信忠は美濃・尾張、次男の信雄は伊勢・伊賀です。伊賀は、1581年の天正伊賀の乱のあと史実でも信雄がおさめていました。弟の織田信包は、信雄の領内の伊勢安濃津(いまの津市)に置きます。志摩は、織田水軍の大将の九鬼嘉隆です。

京のまわりは、側近の堀秀政が近江の佐和山、細川藤孝が丹後、筒井順慶が大和と、信長が信頼する家臣でかためます。大和は、もとは松永久秀の国でしたが、久秀は1577年に謀反を起こしてほろびました。摂津も、荒木村重が1579年に謀反を起こしてほろびています。信長が畿内を一門と信頼できる家臣だけでかためたがった理由が、ここにあります。若狭は、信長の家臣になっていた若狭の守護の家すじ、武田元明に戻します。元明は、史実では本能寺の変で光秀についたために討たれた人物ですが、信長が生きていれば、名門の「お家再興」として若狭を返されたでしょう。そして安土では、側近の菅屋長頼が奉行として天下の政治を取りしきります。長頼は史実では、本能寺の変の日に二条御所で討死しました。秀吉の天下でいう五奉行のような役目を、信長の天下では長頼たち側近がになったでしょう。

信長の天下を動かす役人たちも、そのまま腕をふるいます。京都は、京都所司代の村井貞勝。朝廷や公家、町衆や寺社との交渉を取りしきってきた人物で、史実では二条御所で討死しましたが、もしもの天下では京の総督として残ります。国際貿易の港・堺は、茶人でもある松井友閑が代官として押さえ、鉄砲や火薬の調達をになえます。文書づくりと外交は、右筆の武井夕庵や、側近の福富秀勝が支えます。和泉は、尾張時代からの古参で手堅い働きの蜂屋頼隆がおさめます。

光秀が出ていったあとの丹波には、信長の四男で秀吉の養子になっていた羽柴秀勝が入ります。史実でも秀勝は、本能寺の変のあと光秀の亀山城をあたえられています。京のすぐ北の丹波を一門でおさえると同時に、秀吉の跡継ぎを信長の手もとに置いておく。秀吉にとっては、跡継ぎを人質に取られているのと同じです。丹後は、そのまま細川藤孝です。

中国地方では、光秀が出雲・伯耆へ移ります。江戸時代の軍記物『明智軍記』には、信長が光秀に「丹波と近江坂本を取り上げるかわりに、出雲・石見を攻め取れ」と命じたという話が出てきます。信用できる話ではありませんが、信長なら光秀を山陰へ送ることは十分ありえたと思います。石見銀山は、信長が直接おさめたでしょう。

鳥取のある因幡は、1581年に秀吉が鳥取城を落としたあと城をまかされた宮部継潤のままです。もとの守護の山名豊国は、鳥取城を捨てて出てしまっていたため、領地をもどされることはなかったと思います。但馬は、兄の旧領の一部を引きついだ羽柴秀長です。そして姫路城のある播磨には、摂津から池田恒興が移ります。のちに江戸時代、恒興の息子の池田輝政が姫路城の主になるのと同じ形です。空いた摂津と大坂、それに河内は、信長がみずからおさめる直轄地になります。信長は、本願寺が去ったあとの大坂に城を築くつもりだったともいわれています。

降伏した毛利家は、周防・長門の二か国に減らされます。のちの江戸時代の長州藩と同じ形です。空いた安芸・備後には、おいの津田信澄が入り、広島のあたりから毛利と瀬戸内海をにらみます。信澄は、信長の弟・信勝(信行)の息子で、史実では本能寺の変のあと、光秀の娘婿だったために信孝に討たれた人物です。信長が生きていれば、一門の若い大将として、毛利のおさえという大役をまかされたでしょう。岡山の備前・美作は宇喜多秀家のままで、備中の東半分も宇喜多に加えます(史実もこの形)。備中の西半分は、信長の直轄地です。

石見は、石見銀山だけを信長が直接おさめ、残りは毛利一族の吉川家に与えます。毛利を支えてきた「両川」の吉川を毛利から切りはなして、一つの大名として独立させるのです。毛利の力を分けることにもなります。隠岐は、出雲・伯耆とあわせて光秀です。

紀伊は、雑賀衆や根来寺、高野山が残る、いちばんむずかしい国です。ここには一門の織田信張(津田信張)を置きます。信張は、和泉の岸和田城に入って雑賀攻めをになってきた人物です。信長の天下で最後まで手こずるのは、もしかするとこの紀伊だったかもしれません。

四国では、三男の信孝が阿波・讃岐の主になります。史実でも信孝は、阿波の三好康長の養子になって四国に入る予定でした。そこで阿波の一部は、養父になる三好康長に分けあたえます。淡路は、池田恒興の播磨とあわせて池田家の二か国とし、1581年に秀吉とともに淡路を攻めた長男の池田元助を置きます。長宗我部元親は土佐一国だけを残され、伊予は河野家のままです。

九州:秀吉と丹羽長秀で九州をおさえる

もしもの信長の天下 九州の領地図
九州:秀吉は筑前・豊前、丹羽長秀は筑後・肥後。島津は薩摩・大隅に(イメージ)

中国平定の手柄を立てた秀吉は、筑前に移されます。あたえられるのは筑前と豊前の二か国。居城は博多湾をのぞむ名島城です。そして、九州の大名たちを取りまとめる「九州取次」の役目と、博多の港をまかされます。博多を押さえることは、そのまま唐入りの準備にもつながります。

ここで大事なのが、秀吉の跡継ぎです。秀吉は、信長の四男・於次丸を養子にもらい、「羽柴秀勝」と名乗らせていました。信長が生きていれば、秀吉の家はいずれこの秀勝がつぎます。秀吉が一代で大きくした家は、最後は織田家の血すじに戻っていくのです。しかもその秀勝は、九州ではなく京のすぐそばの丹波にいます(くわしくは畿内のところで書きました)。

豊前には、秀吉が自分の家臣を置きます。秀吉の軍師だった黒田孝高(官兵衛)と、長浜のころから秀吉に仕えてきた森吉成(のちの毛利勝信)です。史実でも、九州攻めのあと豊前は黒田と森(毛利)の二人に分けてあたえられました。森吉成は、関ヶ原のあとに息子の勝永とともに土佐の山内家に預けられ、勝永はのちに大坂の陣で活躍することになる人物です。

そして丹羽長秀は、九州に送ります。信長は1575年、長秀に「惟住(これずみ)」、光秀に「惟任(これとう)」という、九州の名族の姓をあたえていました。これは、いずれ二人を九州へ送るつもりだったからだといわれています。長秀は筑後・肥後の二か国をあたえられ、筑後の柳川城を居城に、肥後には隈本(いまの熊本)に城代を置きます。筑前・豊前の秀吉とならんで九州をおさえる、秀吉ひとりに九州をまかせないという信長らしい配置です。肥後は国衆の多いむずかしい国で、史実でも1587年に佐々成政が肥後をまかされたあと、国衆一揆が起きています。長秀のような手堅い重臣でなければおさまらない国でした。

九州のほかの国は、細かく分けたまま残します。豊後は大友宗麟、肥前は龍造寺家、平戸と壱岐は松浦家、肥後の南の球磨は相良家、対馬は宗家です。肥前の大村純忠と有馬晴信のキリシタン大名もそのまま残しますが、貿易港の長崎は信長の直轄地にします。島津家に追われていた伊東家は日向に戻されます。そして九州をのみこもうとしていた島津家は、降伏して薩摩・大隅の二か国にとどめられます。

東海・甲信・北陸:家康は三か国、北陸は三つに分ける

もしもの信長の天下 東海・甲信・北陸の領地図
東海・甲信・北陸:家康は三か国、信濃は細かく分け、上杉は越後一国(イメージ)

家康は、三河・遠江・駿河の三か国です。武田をほろぼしたあとに信長からもらった駿河を加えた形で、織田家に従う大名として東海道を守ります。史実のように関東250万石の大大名になることはありません。

武田の旧領は、信忠が束ねます。甲斐は河尻秀隆です。信濃は、細かく五つに分けます。北信濃の川中島は、森可成の息子で蘭丸の兄の森長可です(父の可成は1570年に討死しています)。小県は、武田家が滅んだあと織田家に従った真田昌幸。史実では北条・徳川・上杉のあいだで生き残りをかけた昌幸ですが、信長が生きていれば、信濃の一大名として静かに過ごしたかもしれません。

松本の深志には、信濃の守護だった小笠原家が戻ります。小笠原貞慶は、武田信玄に追われて信濃を出たあと、信長を頼っていた人物です。信長が生きていれば、名門の「お家再興」をみとめて、信濃の人びとの心をつかもうとしたでしょう。同じように、諏訪には諏訪大社の大祝の家すじの諏訪頼忠を戻します。諏訪家は武田信玄にほろぼされましたが、頼忠は史実でも本能寺の変のあと諏訪の旧領を取りもどしています。そして伊那は信長の直轄地とし、高遠城には信長の弟の織田長益(のちの有楽斎)を代官として置きます。長益は武田攻めにも加わっていて、信濃に一門の目を置く役目をになえます。

北陸は、三つに分けます。柴田勝家は越前・加賀、前田利家は能登、佐々成政は越中です。勝家は北陸攻めの総大将として二か国をまかされますが、加賀の尾山城には勝家のおいの佐久間盛政が入り、勝家を支えます。史実では、のちに利家が加賀・能登・越中の三か国をまとめて大大名になりましたが、信長はそれをさせなかったでしょう。山をへだてた飛騨には金森長近が入ります。史実でも長近は1585年に飛騨を攻め取り、そのまま飛騨一国の大名になっています。追いつめられていた上杉景勝は、越後と佐渡だけを残して織田家に従います。

関東:北条は二か国、武蔵は直轄地

もしもの信長の天下 関東の領地図
関東:北条は伊豆・相模、武蔵は直轄地で信房が代官(イメージ)

関東では、北条氏政が降伏し、伊豆・相模の二か国に減らされます。滝川一益は上野と信濃の佐久郡をおさめ、厩橋城を居城に関東の大名たちの取次になります。史実でも一益は1582年に上野と信濃の佐久・小県をあたえられていて、真田昌幸は一益の与力でした。

北条から取り上げた武蔵は、信長の直轄地とし、五男の織田信房(勝長)を代官として置きます。信房は、幼いころに美濃の岩村城の遠山家の養子になり、岩村城が落ちたときに武田家へ人質として送られ、1581年にようやく信長のもとへ戻された人物です。武田の家で育った信房なら、旧武田家臣が多い関東の事情にも通じていたでしょう。史実では、本能寺の変の日に二条御所で信忠とともに亡くなっています。そして信房のもとには、佐久間信栄をつけます。信栄は、父の信盛とともに追放されましたが、1582年に信忠に仕えることを許されていました。信盛は1582年1月に亡くなっていますが、息子の信栄は武蔵の岩付城をあずかり、もう一度起用されたかもしれません。

北条と争ってきた関東の大名たちは、そのまま残ります。安房・上総は里見義頼、常陸は佐竹義重、下野は宇都宮国綱、下総は、北の結城を結城晴朝、佐倉を中心とした南を千葉家がおさめます。千葉家は北条に従っていましたが、北条が降伏したときに織田家についたことで、家を残されたでしょう。

奥羽:大名はそのまま、織田家の目を二つ置く

もしもの信長の天下 奥羽の領地図
奥羽:大名はほぼそのまま、白河に蒲生氏郷、二本松に長谷川秀一(イメージ)

奥羽の大名たちは、ほとんどそのまま残します。陸奥は、会津の蘆名家、米沢の伊達政宗、大崎家と葛西家、浜通りの相馬家、北の南部家、九戸家、津軽家。出羽は、山形の最上義光、庄内の大宝寺(武藤)家、秋田の安東(秋田)家、角館の戸沢家、横手の小野寺家です。海をわたった蝦夷地の南には、のちの松前家となる蠣崎慶広がいて、これも従った大名として残ります。小さな大名がたくさんいるほうが、織田家にとってはおさめやすいからです。

そのかわりに、織田家の目を二つ置きます。ひとつは、信長の娘婿の蒲生氏郷です。奥州の入口にあたる陸奥の白河のあたりに入り、伊達家や蘆名家ににらみをきかせます。史実でも氏郷は、秀吉の奥州仕置のあと会津に入り、伊達政宗を見張りました。

もうひとつは、信長の側近の長谷川秀一です。秀一は小姓から取り立てられた信長の直臣で、本能寺の変のときには家康の接待役として堺にいて、伊賀越えにもつきそった人物です。信長が生きていれば、秀一を陸奥の二本松のあたりに置いたかもしれません。二本松は、伊達家と蘆名家の領地のあいだにあり、史実では1585年に伊達政宗が畠山家をほろぼして奪った土地です。信長は、大名どうしが勝手に戦って領地を広げることを許さず、間に自分の側近を置いて、伊達と蘆名の両方を見張らせたでしょう。

もしもの領地一覧:だれが、どの城で、何万石

それぞれの大名の居城と石高を予想しました。石高は、豊臣政権のもとで1598年ごろにまとめられた国ごとの石高(太閤検地の数字)をもとにした目安です。

信長の直轄地

天下人の信長自身がおさめる直轄地は、次のように予想しました。京・大坂のまわりと、銀山や貿易港のようなお金を生む場所を、まとめて押さえるのが信長のやり方です。

直轄地 おさめ方 石高(目安)
近江(安土のまわり) 安土城の信長がじかにおさめる 約40万石
山城 京都所司代の村井貞勝 約22万石
摂津・大坂 大坂の代官 約36万石
河内 大坂の代官 約24万石
武蔵 江戸城の代官・織田信房 約67万石
信濃の伊那 高遠城の代官・織田長益 約7万石
備中の西部 代官 約9万石
石見銀山 代官(銀を直接おさめる) 石高ではなく銀
長崎 代官(南蛮貿易の利益) 石高ではなく貿易
堺 代官の松井友閑 石高ではなく商い
合計 約205万石+銀山・港

史実の秀吉が直接おさめた蔵入地も、全国でおよそ220万石でした。信長の直轄地も同じくらいの大きさですが、ちがうのは、それが京・大坂と武蔵という日本の東西の中心に集まっていることです。のちに家康が江戸を本拠にして天下を取ったことを思うと、武蔵を一門の代官でおさえる意味は大きかったはずです。

畿内・東海

人物 立場 領地 居城 石高(目安)
織田信長 一門 近江(一部)+直轄地(山城・摂津・河内・武蔵・伊那・備中西部・石見銀山・長崎など) 安土城 直轄地あわせ約205万石+銀山・港
織田信忠 一門 美濃・尾張 岐阜城 約111万石
織田信雄 一門 伊勢・伊賀 松ヶ島城 約52万石
織田信包 一門 伊勢の安濃津 安濃津城 約15万石
羽柴秀勝 一門 丹波 亀山城 約26万石
津田信澄 一門 安芸・備後 広島(新城) 約38万石
織田信張 一門 紀伊 雑賀の新城(のちの和歌山) 約24万石
織田信孝 一門 阿波・讃岐 勝瑞城 約26万石
織田信房 一門 武蔵(直轄地の代官) 江戸城 代官(武蔵約67万石を管理)
織田長益 一門 信濃の伊那(直轄地の代官) 高遠城 代官
菅屋長頼 側近 安土の奉行 安土城下 約2万石
村井貞勝 側近 京都所司代 京都 約2万石
松井友閑 側近 堺の代官 堺 約1万石
堀秀政 側近 近江の佐和山 佐和山城 約10万石
筒井順慶 重臣 大和 郡山城 約45万石
細川藤孝 重臣 丹後 宮津城 約11万石
蜂屋頼隆 重臣 和泉 岸和田城 約14万石
九鬼嘉隆 重臣 志摩 鳥羽城 約3万石
武田元明 従った大名 若狭 後瀬山城 約8万石
徳川家康 従った大名 三河・遠江・駿河 浜松城 約70万石

中国・四国

人物 立場 領地 居城 石高(目安)
明智光秀 重臣 出雲・伯耆・隠岐 月山富田城 約29万石
池田恒興・元助 重臣 播磨・淡路 姫路城(淡路は洲本城) 約42万石
羽柴秀長 重臣(秀吉の与力) 但馬 出石の有子山城 約11万石
宮部継潤 重臣(秀吉の与力) 因幡 鳥取城 約9万石
宇喜多秀家 従った大名 備前・美作・備中東部 岡山城 約50万石
吉川家 従った大名 石見(銀山をのぞく) 石見の浜田 約10万石
毛利輝元 降伏した大名 周防・長門 山口の高嶺城 約30万石
三好康長 従った大名 阿波の一部 岩倉城 約5万石
長宗我部元親 従った大名 土佐 岡豊城 約10万石
河野家 従った大名 伊予 湯築城 約37万石

九州

人物 立場 領地 居城 石高(目安)
羽柴秀吉 重臣 筑前・豊前(九州取次) 名島城 約48万石
黒田孝高・森吉成 秀吉の家臣 豊前の中津・小倉 中津城・小倉城 秀吉の領内から
丹羽長秀 重臣 筑後・肥後(球磨をのぞく) 柳川城(肥後は隈本に城代) 約58万石
大友宗麟 従った大名 豊後 臼杵の丹生島城 約42万石
龍造寺政家 従った大名 肥前(一部をのぞく) 佐賀の村中城 約20万石
松浦家 従った大名 平戸・壱岐 平戸城 約6万石
大村純忠・有馬晴信 従った大名 肥前の大村・島原 大村・日野江城 あわせて約6万石
相良頼房 従った大名 肥後の球磨 人吉城 約2万石
伊東祐兵 従った大名 日向 飫肥城 約12万石
宗家 従った大名 対馬 府中(いまの厳原) 約1万石
島津義久 降伏した大名 薩摩・大隅 鹿児島の内城 約46万石

甲信・北陸

人物 立場 領地 居城 石高(目安)
河尻秀隆 重臣(信忠の与力) 甲斐 甲府の躑躅ヶ崎館 約23万石
森長可 重臣(信忠の与力) 北信濃 海津城 約15万石
真田昌幸 従った大名(滝川の与力) 信濃の小県 砥石城 約3万石
小笠原貞慶 従った大名 信濃の深志 深志城(のちの松本城) 約7万石
諏訪頼忠 従った大名 信濃の諏訪 茶臼山城 約3万石
柴田勝家 重臣 越前・加賀 北ノ庄城(加賀は尾山城に佐久間盛政) 約85万石
前田利家 重臣(柴田の与力) 能登 七尾の小丸山城 約21万石
佐々成政 重臣(柴田の与力) 越中 富山城 約38万石
金森長近 重臣(柴田の与力) 飛騨 松倉城 約4万石
上杉景勝 従った大名 越後・佐渡 春日山城 約41万石

関東・奥羽

人物 立場 領地 居城 石高(目安)
滝川一益 重臣 上野・信濃の佐久 厩橋城 約55万石
佐久間信栄 重臣(信房の与力) 武蔵の岩付 岩付城 約3万石
北条氏政 降伏した大名 伊豆・相模 小田原城 約26万石
里見義頼 従った大名 安房・上総の一部 岡本城 約12万石
佐竹義重 従った大名 常陸 太田城 約53万石
宇都宮国綱 従った大名 下野 宇都宮城 約18万石
結城晴朝 従った大名 下総の結城 結城城 約10万石
千葉家 従った大名 下総の佐倉 本佐倉城 約20万石
蒲生氏郷 重臣 陸奥の白河・石川 白河の小峰城 約10万石
長谷川秀一 側近 陸奥の二本松 二本松城 約5万石
蘆名家 従った大名 陸奥の会津 黒川城 約30万石
伊達政宗 従った大名 出羽の米沢・陸奥の伊達 米沢城 約30万石
最上義光 従った大名 出羽の山形 山形城 約13万石
相馬・大崎・葛西・南部・九戸・津軽ほか 従った大名 陸奥 それぞれの本拠 数万石ずつ
大宝寺・安東・戸沢・小野寺 従った大名 出羽 それぞれの本拠 数万石ずつ
蠣崎慶広 従った大名 蝦夷地の南 徳山館 ―

史実の秀吉の天下と、もしもの信長の天下

史実(秀吉の天下) もしも(信長の天下)
徳川家康 関東約250万石 三河・遠江・駿河の約70万石
毛利家 中国地方約120万石 周防・長門の約30万石
前田利家 加賀・能登・越中 能登一国の約21万石(柴田勝家の与力)
羽柴秀吉 天下人・関白 筑前・豊前の約48万石と九州取次
羽柴秀長 大和・紀伊・和泉 但馬一国の約11万石(兄の与力)
明智光秀 山崎の戦いで敗れ死亡 出雲・伯耆・隠岐の約29万石
伊達政宗 陸奥の約58万石 米沢のまま、蒲生氏郷が見張る

信長の天下は「細かく分けた天下」だった、と私が考える理由

  1. 信長は、佐久間信盛の追放のように、家臣に大きな力を持たせることをきらった
  2. 信長には信忠・信雄・信孝など大人になった息子が何人もいて、要所を一門でかためることができた
  3. 秀吉とちがって、敵だった大名を大きな領地で味方につける必要がなかった

まとめ

  • 信長の天下では、京・大坂のまわりと海の要所を織田一門がかためた
  • 秀吉は筑前・豊前、丹羽長秀は筑後・肥後、光秀は出雲・伯耆、勝家は越前・加賀と、重臣は二か国ずつで遠い国へ移された
  • 家康は三か国、毛利は周防・長門、北条は伊豆・相模と、大きな大名は小さくされた
  • 奥羽や九州の小さな大名はそのまま残され、蒲生氏郷や長谷川秀一が見張った

秀吉の天下は、大きな大名を味方につけてまとめた天下でした。それに対して信長の天下は、国を細かく分けて、織田家に逆らえる大名をつくらない天下になっていたと思います。もしこの地図のまま信忠の代へ受けつがれていたら、家康が天下を取る日も、関ヶ原の戦いも来なかったのではないでしょうか。

あなたなら、信長の天下でどの武将にどの国をまかせますか?

よくある質問

信長は本当に天下を統一できたの?

本能寺の変の直前、信長は武田家をほろぼし、毛利・長宗我部・上杉・北条に向けて一斉に家臣を送り出していました。どの相手も、単独で織田家に勝てる力はありませんでした。信長が生きていれば、数年のうちに天下を統一できた可能性は高いと考えられています。

光秀が出雲・石見をもらうという話は本当?

江戸時代に書かれた軍記物『明智軍記』に出てくる話で、信頼できる記録では確かめられていません。本能寺の変の理由として語られることがありますが、研究者のあいだでは後世の創作と考えられています。

信長の息子は何人いたの?

信長には十人以上の息子がいたといわれます。本能寺の変のころに大人になっていたのは、信忠・信雄・信孝・秀勝(秀吉の養子)・信房(勝長)などです。信房は本能寺の変の日に二条御所で信忠とともに亡くなりました。

関連記事

大河『豊臣兄弟!』IF特集
目次