もし伊達政宗があと10年早く生まれていたら?陸奥・出羽をのみこむ「奥羽の王」

もしも伊達政宗があと10年早く生まれていたら(イメージ)

もし伊達政宗が、あと10年早く生まれていたら、どうなっていたでしょうか。

政宗は「生まれるのが遅すぎた」とよくいわれる武将です。18歳で家督をついでから、わずか5年ほどで南奥州の大半を手に入れましたが、そこで秀吉の天下統一にぶつかってしまいました。もし政宗に、あと10年の時間があったら、陸奥と出羽はどうなっていたのか。今回は、その10年で政宗がどこまで領地を広げられたかを、順番に予想してみます。

目次

先に結論:10年早ければ、政宗は「奥羽の王」になれた

先に私の答えを書いておきます。政宗が10年早く生まれていれば、秀吉の惣無事令が出る1587年までに、陸奥のほぼすべてと出羽の半分ほどを手に入れ、約150万石の「奥羽の王」になっていたのではないでしょうか。史実の政宗がいちばん大きくなったときが約114万石なので、それよりもひとまわり大きくなります。

ただし、南は白河の関で止め、母の実家の最上家にはなかなか手を出せず、秋田の安東家を攻めているところで、秀吉から「戦をやめよ」という命令がとどく。ここまでが、今回の予想です。

もしもの政宗:1587年の伊達領の地図
もしもの1587年ごろの伊達領。①南奥州、②大崎・葛西、③南部、④出羽の順に広げていく(イメージ)

前提:10年早く生まれると、何が変わるのか

史実の政宗は1567年生まれで、家督をついだのは1584年、18歳のときでした。そして1587年には、秀吉が関東と奥羽の大名に、勝手な戦をやめるよう命じる「惣無事令」を出しています。政宗が思いきり戦えたのは、実質5年ほどしかなかったのです。

これを10年早めて、政宗が1557年に生まれたとします。なお、史実の父・伊達輝宗は1544年生まれなので、本当なら10年早く生まれることはできません。ここでは細かいことはおいて、「政宗という人物が、10年早く伊達家の当主になっていたら」と考えます。

年 史実の政宗 10年早く生まれた政宗
1575年ごろ まだ9歳の子ども 18歳で家督をつぐ
1580年 13歳 蘆名家の名将・蘆名盛氏が亡くなる。会津をねらう好機
1582年 16歳 26歳。本能寺の変で信長が倒れ、天下が混乱する
1584年 18歳で家督をつぐ 28歳。南奥州をほぼ固め、北へ向かう
1587年 21歳。惣無事令 31歳。惣無事令で拡大が止まる

大事なのは、1575年から1587年までの12年間が、奥羽の大名にとって一番自由に動けた時期だったことです。信長は武田・本願寺・毛利との戦いで手いっぱいで、遠い奥羽にまでは手がまわりません。本能寺の変のあとは、秀吉と家康・柴田勝家などとの争いで、天下はさらに混乱します。この12年を、政宗がまるごと使えるのです。

第1段階:南奥州を固めて「陸奥の王者」に(1575〜1583年ごろ)

家督をついだ政宗が、最初にねらうのは南奥州です。当時の南奥州には、たくさんの大名がひしめいていました。

大名 本拠 政宗はどうする?
蘆名家 会津の黒川城 盛氏が亡くなったあとの混乱をついて攻め取る
畠山家 二本松城 攻め取る
大内家 小浜城(塩松) 攻め取る
田村家 三春城 妻・愛姫の実家として、伊達家の下に入る
二階堂家 須賀川城 攻め取る
石川家 石川城 伊達家に従う(もともと伊達家の一族が養子に入った家)
大崎家・葛西家 陸奥の北部 家の中の争いにつけこんで、のみこむ
南奥州の大名たちの配置図
南奥州の大名たちの配置。赤は政宗が攻め取る大名、青は伊達家に従う大名(イメージ)

史実の政宗は、1589年の摺上原の戦いでようやく蘆名家をほろぼしました。けれど、10年早い政宗なら、名将・蘆名盛氏が1580年に亡くなった直後に会津へ攻めこめます。盛氏のあとをついだ盛隆は、まだ家中をまとめきれていませんでした。ここで会津を取れれば、南奥州の勝負は一気に決まったのではないでしょうか。

北の大崎家と葛西家も、どちらも家の中に争いをかかえていました。大崎家はもともと奥州探題という名門ですが、力はおとろえていました。南を固めた政宗が北へ兵を向ければ、両家をのみこむのはむずかしくなかったと思います。

そして浜通りの相馬家は、伊達家と長く戦ってきた宿敵ですが、まわりをすべて伊達家にかこまれれば、降伏して従うしかありません。

第2段階:南は白河の関まで。そこから北へ(1582年ごろ)

南奥州を手に入れた政宗は、白河の関で南への拡大を止めます。白河の関をこえると、関東の北条家や、常陸の佐竹家とぶつかるからです。北条は関東の大半をおさえる大大名で、佐竹も強い。ここで南に手を出すと、何年も戦いが続いてしまいます。

しかも白河の関のまわりには、佐竹家の息のかかった大名がならんでいました。白河の白河義親は、佐竹義重の子(のちの蘆名義広)を養子にむかえており、浜通りの南の岩城常隆も、母が佐竹家の出で、義重のおいにあたります。関をこえた下野には、佐竹と手を結ぶ宇都宮国綱や、ときに北条と結ぶ那須資晴がいました。白河の関の南は、佐竹と北条が勢力を争う、いわば「関東の入口」だったのです。

白河の関をはさんだ伊達と関東の境目の配置図
白河の関をはさんだ境目。関のまわりには佐竹方の大名、その南には佐竹・宇都宮・那須と北条がひしめく(イメージ)

そこで政宗は、南の守りを固めたうえで、まだ大きな大名がいない北へ向かいます。本能寺の変で天下が混乱し、だれも奥羽に口を出せないこの時期は、北へ広がる絶好の機会でした。

第3段階:南部家をのみこみ、津軽を従える(1582〜1585年ごろ)

陸奥の北には、広い領地をもつ南部家がいました。ところがこの南部家は、1582年に大きくゆれます。当主の南部晴政が亡くなり、あとをついだ晴継も、すぐに亡くなってしまったのです。そのあと、一族の南部信直が当主になりましたが、九戸政実をはじめ、信直を認めない一族も多く、家中は二つにわれていました。

政宗なら、ここを見のがさないでしょう。九戸政実と結んで信直を攻めるか、逆に信直を助けるふりをして家中に入りこむか。どちらにしても、われた南部家は、政宗にのみこまれてしまったのではないでしょうか。

さらにその北の津軽では、大浦(津軽)為信が南部家からの独立をめざしていました。南部家と戦う為信にとって、南部家をのみこもうとする政宗は心強い味方です。為信は政宗に従い、津軽を残してもらう道をえらんだと思います。

北へ広がる伊達領と南部家・津軽の配置図
大崎・葛西から北へ。跡継ぎ争いでわれた南部家をのみこみ、津軽為信は伊達に従う(イメージ)

第4段階:出羽へ。ただし最上はあとまわし(1585〜1587年ごろ)

陸奥をほぼ手に入れた政宗は、奥羽山脈をこえて出羽へ向かいます。出羽の大名たちは、次のように動いたと予想します。

大名 本拠 政宗はどうする?
小野寺義道 横手城 従う
戸沢盛安 角館城 「鬼九郎」と呼ばれた猛将だが、従う
安東愛季 檜山城(秋田) 攻めている最中に惣無事令がとどく
最上義光 山形城 母の実家なので、いちばんあとまわし
出羽の大名たちの配置図
奥羽山脈をこえて出羽へ。小野寺・戸沢は従い、秋田の安東を攻める。母の実家の最上はあとまわし(イメージ)

一番の問題は、山形の最上家です。政宗の母・義姫は、最上義光の妹でした。史実でも、政宗と義光は何度もぶつかりましたが、そのたびに義姫が間に入って、戦いが止められています。義光は「羽州の狐」と呼ばれた策略家で、まともに戦えば手ごわい相手です。母の実家でもある最上家は、まわりをすべて伊達家でかこんだうえで、最後に従わせる。政宗はそう考えたのではないでしょうか。

そこで政宗は、最上家をとびこえて、秋田の安東家を攻めます。小野寺と戸沢を従えた政宗にとって、出羽北部の安東家は最後の大物でした。

そして惣無事令:秋田攻めの最中に、拡大が止まる(1587年)

ところが1587年、政宗のもとに、秀吉から一通の命令がとどきます。関東と奥羽の大名に、勝手な戦をやめるよう命じる「惣無事令」です。このとき秀吉は九州の島津家を降伏させ、西日本をほぼ手に入れていました。次は関東と奥羽の番です。

秋田攻めの途中だった政宗は、ここで領地を広げるのを止めざるをえません。このときの政宗の領地を、予想してまとめてみます。

区分 おもな領地 石高(目安)
伊達家の直轄 米沢・伊達・信夫、会津、仙道(二本松・小浜・須賀川など)、大崎・葛西、南部の旧領 約130万石
伊達家に従う大名 相馬(浜通り)、田村(三春)、石川、津軽、小野寺(横手)、戸沢(角館) 約20万石
まだ従っていない 最上(山形)、安東(秋田)、大宝寺(庄内) ―
合計 約150万石
1587年、惣無事令のときの伊達領と各大名の配置図
1587年、惣無事令のときの伊達領。黒が伊達家の直轄、青が伊達に従う大名、白がまだ従わない大名(イメージ)

石高は、豊臣政権のもとで1598年ごろにまとめられた国ごとの石高(太閤検地の数字)をもとにした目安です。陸奥一国が約167万石なので、白河の関から北の陸奥をほぼすべておさえた形になります。これは、史実で関東に移されたあとの徳川家康(約250万石)にはおよびませんが、毛利家(約120万石)をこえ、天下で2番目か3番目の大大名です。

秀吉にどう向き合う? 戦うか、降伏するか

こうして「奥羽の王」になった政宗の前に、天下人の秀吉が立ちはだかります。ここで政宗がえらべる道は、二つです。

一つは、秀吉に降伏して、奥羽の大名として生きのこる道。もう一つは、北条家と手を結び、秀吉と戦う道です。

ここで思い出したいのが、徳川家康です。家康は1584年の小牧・長久手の戦いで秀吉と戦い、局地戦で秀吉軍を打ち破りました。そのあとで秀吉に従ったからこそ、家康は「うかつに手を出せない大名」として、5か国という大きな領地を残してもらえました。戦わずに降伏した大名は、秀吉に領地をけずられることが多かったのです。

150万石の政宗が、そのまま降伏して領地を守れたかといえば、むずかしかったのではないでしょうか。秀吉は、天下を取ったあと、大きな大名の力を少しずつけずっていきました。政宗が多くの領地を残してもらうには、家康のように、一度は戦って強さを見せておく必要があったと思います。うまく戦えれば、米沢・会津をはじめとする本領とそのまわりで、120万石ほどは残してもらえたのではないでしょうか。

1587年の東日本の勢力図:伊達・北条・佐竹・徳川・上杉・豊臣
1587年の東日本。奥羽の伊達、関東の北条・佐竹、東海の徳川、そして西から迫る豊臣秀吉(イメージ)

では、政宗が秀吉と戦っていたら、どうなったのか。そして、戦わずに降伏していたら、どこまで領地を残せたのか。この続きは、次の記事で予想してみます。

大河『豊臣兄弟!』IF特集
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