もし福田龍世さん演じる鍋丸が無事に成長して秀保となっていたら?豊臣政権を支えられたか――郡山を守り、三成・茶々の「近江派」と戦えたか

大人になった豊臣秀保と郡山の城下(イメージ)

『豊臣兄弟!』第42回「北野大茶湯」で、秀長(仲野太賀)と慶(吉岡里帆)の養子になった少年・鍋丸。演じているのは子役の福田龍世さんです。かつて直が命がけで救った娘の子という、ドラマならではの設定でした。史実で秀長の跡を継いだのは豊臣秀保で、鍋丸はこの秀保がモデルだと見られています。

史実の秀保は17歳で急死し、秀長が築いた「大和大納言家」はそこで絶えました。では、もし福田龍世さん演じる鍋丸が無事に成長して秀保となり、秀長家を継いでいたら。豊臣政権を支えることはできたのか。大和郡山の大領は守れたのか。そして石田三成や茶々ら、いわゆる「近江派」と政略で渡り合えたのか。今回はその「もしも」を考えます。

大和郡山城の追手向櫓
秀長が大改修した大和郡山城。写真は追手向櫓(奈良県大和郡山市)
目次

鍋丸とは?ドラマの設定と、モデルの豊臣秀保

ドラマの鍋丸は、北野大茶湯の夜、秀吉を狙った賊の騒ぎのなかで物陰にいたところを捕まった少年です。賊の仲間と疑われますが、第8回「墨俣一夜城」で直が救った娘の子だとわかり、秀長と慶が養子に迎えました。これに強く反対したのが秀次です。

「鍋丸」という名の秀長の養子は、確かな史料には見えません。ドラマのオリジナルの人物と考えられますが、役回りは史実の豊臣秀保によく重なります。

項目 ドラマの鍋丸 史実の豊臣秀保
生まれ 直が救った娘の子 秀吉の姉・ともと三好吉房の子。1579年(天正7年)生まれ
秀長との関係 第42回で秀長と慶の養子に 秀長の養子となり、秀長の娘と結婚
秀次との関係 秀次は「血のつながらぬ者」と反対 秀次の実の弟
その後 これからの放送で描かれる 1595年(文禄4年)、17歳で急死

鍋丸が実在したのか、秀長にはほかにどんな養子がいたのかは、姉妹サイトの記事でくわしく解説しています(戦国武将図鑑「鍋丸とは?」/日本の歴史ガイド「鍋丸とは誰か」)。この記事では、鍋丸=秀保が生きのびた場合を考えていきます。

先に結論:郡山は「条件つき」で守れた。けれど近江派には一人では勝てない

先に私の答えを書いておきます。秀保が生きていれば、秀長が残した100万石ともいわれる大領と、藤堂高虎らの家臣団、そして郡山城の金銀を受け継いだ「豊臣一門の大大名」が残ります。

ただし秀吉は、秀頼が生まれたあと、一門の力をけずる方向へ動きます。秀保が守りきれるのは、領地をけずられたあとの大和と郡山城まででしょう。そして三成ら奉行と茶々の「近江派」と真正面からぶつかれば、若い秀保は負けます。北政所(おね)と藤堂高虎を通じて家康と手を組んではじめて、豊臣家を残すための「第三の勢力」になれた、というのが私の予想です。

秀長が治めた大和の国と郡山城
秀長が治めた大和の国と郡山城(イメージ)

史実:秀長の死から秀保の死まで(1591〜1595年)

年月 出来事
1591年1月(天正19年) 秀長が郡山城で病死。13歳の秀保が跡を継ぐ
1591年8月 秀吉の子・鶴松が3歳で死去
1591年12月 秀保の兄・秀次が関白になる
1592年(文禄元年) 文禄の役。秀保は肥前名護屋へ。家臣の藤堂高虎らが朝鮮へ渡る
1592年9月 もう一人の兄・秀勝が朝鮮で病死
1593年8月 秀吉と茶々のあいだに秀頼が生まれる
1595年4月(文禄4年) 秀保が大和の十津川で急死。17歳。秀長の家は絶える
1595年6月 奉行の増田長盛が、郡山城20万石に入る
1595年7月 兄・秀次が高野山で切腹

秀吉の姉・ともの三人の息子は、わずか3年のうちに全員が亡くなりました。そして秀長が手をかけて大改修した郡山城には、秀保の死からわずか2か月で、奉行の増田長盛が入っています。増田は石田三成とならぶ秀吉の奉行で、のちの五奉行の一人です。秀長の家臣だった藤堂高虎は、いったん高野山に入りますが、秀吉に呼びもどされ、伊予の宇和島(板島)7万石の大名になりました。

秀長の家の本拠に、奉行がすぐさま入る。「秀頼様のため」と言われれば、だれも反対はできません。けれど、秀長の家臣団から見れば、主家の城を奉行に取られた形です。この「郡山に奉行が入った」という一点が、今回のもしもを考えるカギになります。

前提:秀保が受け継いだもの

受け継いだもの 中身
領地 大和・紀伊・和泉など。100万石ともいわれる
居城 大和郡山城。秀長が大改修した、大坂の東を守る城
家臣団 藤堂高虎、桑山重晴、横浜一庵、羽田正親、小堀正次など
金銀 秀長は郡山城に莫大な金銀をたくわえていたと伝わる
血筋 秀吉の甥、秀次の弟、そして秀長の娘婿
郡山城で政務をとる豊臣秀長
郡山城で政務をとる秀長。秀保はこの家と家臣団を13歳で受け継いだ(イメージ)

持っているものは、どの大名よりも重いものばかりです。けれど、秀長が亡くなったとき、秀保はまだ13歳でした。政務は、横浜一庵ら秀長以来の重臣と、秀吉の奉行たちが見ることになります。つまり秀保の家は、はじめから「奉行が口を出せる家」でもあったのです。

第1段階:十津川を生きのびる(1595年春)

史実の秀保は、病の療養のために大和の南、十津川へ向かい、そこで亡くなりました。死因ははっきりせず、病死とも事故ともいわれ、さまざまな話が伝わっています。

十津川の山あいに立つ若い秀保
十津川の山あいで病から立ちなおる秀保(イメージ)

今回のもしもは、ここで秀保が持ちなおし、郡山へもどるところから始まります。17歳の秀保は、ドラマのお末にあたる秀長の娘を妻とし、藤堂高虎や横浜一庵に支えられて、大和大納言家の当主として生きていきます。

第2段階:最大の山場は「兄・秀次の事件」(1595年夏)

秀保が生きていると、すぐに大きな試練がやってきます。わずか3か月後の秀次事件です。史実では、関白の秀次が謀反をうたがわれて高野山へ送られ、7月15日に切腹しました。秀次の妻子は京の三条河原で処刑され、秀次の宿老だった前野長康も、責めを負って命を落としています。

秀保は、その秀次の実の弟です。ドラマで秀次が鍋丸を「血のつながらぬ者」と言ったのとは逆に、史実の秀保は、血のつながりゆえに一番あぶない立場にいました。生きていれば、兄とともに処罰されてもおかしくありません。

清洲城の模擬天守
兄・秀次が城主だった清洲城(愛知県清須市/筆者撮影)

秀保を守るものは三つある

それでも、秀保には兄とはちがう守りがありました。

一つ目は、秀長の家の当主だということです。秀保は、秀吉がだれよりも頼った弟・秀長の娘婿であり、跡継ぎです。秀保まで処罰すれば、秀長の家そのものをつぶすことになります。

二つ目は、北政所(おね)です。秀長の家と北政所は近く、北政所は加藤清正や福島正則ら、子飼いの大名たちの「母」のような存在でもありました。

三つ目は、藤堂高虎ら家臣団です。高虎は、主君の家を守るためなら、すぐに秀頼への誓いの起請文をそろえて差し出すでしょう。

私の予想では、秀保は兄と距離をとり、だれよりも早く秀頼への忠誠を誓います。秀吉は秀保を残しますが、そのかわりに大きく領地をけずります。紀伊などを取り上げて、大和の郡山を中心とした家にするのです。

ことがら 史実 もしも(予想)
郡山城 増田長盛が20万石で入る 秀保が城主のまま。ただし領地はけずられる
増田長盛 郡山城主に。のちに五奉行 郡山には入れず、「大和の目付」として秀保の家に口を出す
藤堂高虎 高野山に入ったのち、宇和島7万石の大名に 秀保の家老として郡山に残る
秀保 4月に十津川で死去 秀頼への忠誠を誓い、豊臣一門の大名として残る

ここで秀保が郡山を守れるかどうかは、秀次事件をどう乗りきるかにかかっています。郡山は「守れた」としても、それは「秀吉の許しのうえで、けずられながら守れた」という形です。

第3段階:秀吉の死と「近江派」(1598年)

1598年8月、秀吉が亡くなります。このとき秀保は20歳。秀頼はまだ6歳です。秀吉の甥で、秀頼のいとこにあたる秀保は、豊臣一門のなかで、もっとも力のある大人の大名になっています。

ここで向き合うことになるのが、いわゆる「近江派」です。石田三成は近江の佐和山、長束正家は近江の水口の城主。そして秀頼の母・茶々は、近江の浅井長政の娘です。史実で郡山に入った増田長盛も、三成とならぶ奉行として、この人たちと同じ側にいました。

大和郡山城の天守台から見た城下
大和郡山城の天守台から見た城下。大坂までは一日の距離(奈良県大和郡山市)

近江派から見れば、秀保はやっかいな存在です。味方にすれば、秀頼を守る豊臣一門の大きな盾になります。けれど敵に回れば、秀頼にかわる「第二の秀次」になりかねません。秀頼の後見をめぐって、秀保と近江派は、どうしてもぶつかることになります。

近江派の手:秀頼の名で郡山をしばる

三成たちは、刀ではなく、秀頼の名で秀保をしばろうとするでしょう。たとえば、秀保を大坂に住まわせて、郡山から引きはなす。郡山城の普請や、朝鮮への出兵の負担を重くして、秀長が残した金銀を少しずつへらす。そして、秀保の家の重臣に、奉行の息のかかった者を送りこむ。どれも「すべては秀頼様のため」と言われれば、正面から断れない手です。

秀保の手:北政所、高虎、そして家康

秀保が持っている手は、人のつながりです。北政所は、秀吉の死後、大坂城を出て京に移り、子飼いの大名たちと近い立場にいました。藤堂高虎は、早くから家康と親しく、家康の京屋敷づくりを手伝ったとも伝わります。秀長の家と家康のあいだには、秀長が家康を大坂の屋敷でもてなしたころからの縁もあります。

くらべるもの 近江派 秀保(大和大納言家)
中心の人物 石田三成、増田長盛、長束正家、茶々 秀保、藤堂高虎、横浜一庵
拠点 大坂城、佐和山、水口 郡山城(大坂から一日の距離)
強み 秀頼と茶々をおさえ、政務を動かせる 豊臣一門の血筋、秀長の家臣団と金銀
味方になりそうな人 毛利輝元、宇喜多秀家、小西行長 北政所、加藤清正、福島正則、家康
弱み 武断派の大名たちに嫌われている 若く、政務の経験が少ない

こうしてくらべると、秀保が一人で近江派と政略で戦うのは、やはり無理です。政務を動かしているのは奉行たちで、秀頼と茶々も大坂城の中にいます。秀保が勝てる道は、北政所を旗印に、武断派の大名と家康を味方につけることしかありません。

関ヶ原で、秀保はどちらにつくか(1600年)

1600年、三成が家康に対して兵をあげます。郡山城は、大坂から伊勢・伊賀へぬける道の上にあります。史実の郡山城主・増田長盛は西軍につきましたが、そのいっぽうで、三成の動きを家康にひそかに知らせていました。

関ヶ原の戦いと大和郡山城の位置関係図
関ヶ原の戦いと郡山の位置。郡山は大坂から大和をぬけて伊勢へ向かう道の上にある(イメージ)

もし郡山にいるのが秀保なら、秀保は「秀頼様をお守りする」と言って、郡山を動かないと思います。西軍にはつかず、けれど家康の東軍にも兵は出さない。それだけで、西軍は大和の道を自由に使えなくなり、大坂の背中に、だれにも味方しない大きな城を抱えることになります。

戦いのあと、家康にとって秀保は、秀頼と自分のあいだに立ってくれる、ありがたい豊臣一門の大名です。秀保は郡山の城主のまま残り、豊臣家と徳川家をつなぐ役目を負うことになるでしょう。

史実では、大坂の陣の前に、家康が秀頼に「郡山へ移れ」と求めたことが、両家がぶつかるきっかけの一つになったとも言われています。もし郡山に秀保がいたなら、話はまったくちがったはずです。秀頼が大坂を出て移る先として、いとこの秀保の郡山は、豊臣家にとっても、いちばん受け入れやすい場所だったかもしれません。

まとめ:鍋丸が秀保として成長していたら、豊臣政権を支えられたか

問い 答え(予想)
郡山は持てたか 大和を中心に、けずられながらも持てた。カギは兄・秀次の事件を乗りきること
近江派と政略で戦えたか 一人では勝てない。北政所・藤堂高虎・家康と組んではじめて互角
関ヶ原では 郡山を動かず、どちらにもつかない。西軍は大和の道を使えない
豊臣政権を支えられたか 秀頼と家康のあいだに立つ一門の大名が残り、大坂の陣の形が変わった可能性

史実では、秀保の死からわずか2か月で、郡山に奉行が入りました。秀長の家が絶えたことで、豊臣家は、秀吉と秀頼のあいだに立つ「大人の一門」を失います。ドラマで直が守った命が鍋丸へとつながったように、もし秀保の命がつながっていたら、豊臣家の行く末も変わっていたかもしれません。ドラマの鍋丸とお末がこれからどう描かれるのか、楽しみに見ていきたいと思います。

筆者の感想

秀保の死から2か月で郡山に奉行が入った、という流れを年表で並べてみて、正直ぞっとしました。「秀頼様のため」という言葉は、だれも反対できない最強の理屈です。秀保が生きていても、この理屈とどう向き合うかが一番の勝負だったと思います。

ドラマの鍋丸は、直の命がつながって生まれた子として描かれています。その鍋丸が大人になり、郡山の城主として三成や茶々と向き合う姿を想像すると、別のドラマが一本できそうです。あなたなら、秀保にどんな手を打たせますか?

よくある質問

鍋丸は実在の人物?

「鍋丸」という名の秀長の養子は、確かな史料には見えません。ドラマのオリジナルの人物と考えられ、史実で秀長の跡を継いだ豊臣秀保がモデルだと見られています。

豊臣秀保はなぜ亡くなったの?

文禄4年(1595)4月、療養先の大和・十津川で17歳で亡くなりました。死因ははっきりせず、病死とも事故ともいわれます。

秀保の死後、郡山城はだれのものに?

同じ年の6月、奉行の増田長盛が20万石で入りました。増田はのちに五奉行の一人となり、関ヶ原の戦いでは西軍につきました。

「近江派」とはだれのこと?

この記事では、近江に城を持つ石田三成・長束正家ら奉行と、近江の浅井家出身の茶々(淀殿)のまわりの人びとをまとめてこう呼んでいます。当時の正式な呼び名ではなく、尾張出身の古参や子飼いの大名たちとくらべるための便宜上の言い方です。

大河『豊臣兄弟!』IF特集
目次