もし源義経が奥州で生き延びていたら?阿津賀志山で鎌倉軍を破っても、奥州は「北の王国」で終わった

もし源義経が奥州で生き延びていたら

1185年、壇ノ浦で平家を滅ぼした源義経は、その後まもなく兄の源頼朝と対立し、追われる身となりました。各地を逃げまわった義経が最後に頼ったのは、少年時代を過ごした奥州・平泉の藤原秀衡でした。

秀衡は義経を温かく迎えましたが、1187年に病で亡くなります。死ぬ前に秀衡は、子どもたちに「義経を大将として、力を合わせて国を守れ」と言い残したと伝わります。ところが1189年閏4月、跡を継いだ泰衡は頼朝の圧力に屈し、衣川の館に義経を攻めました。義経は31歳で自害します。

では、もし秀衡の遺言が守られ、義経が奥州で生き延びていたら? 先に私の答えを書きます。義経がひきいる奥州軍は、攻めてきた鎌倉軍を一度は打ち破ったと思います。それでも奥州が鎌倉に代わって天下を治めることはなく、頼朝と並ぶ「北の王国」として、しばらく生き残る形になったと私は考えます。

源義経
目次

通説・史実:遺言は守られず、義経は衣川で倒れた

年 出来事
1185年3月 壇ノ浦の戦い。義経の活躍で平家が滅びる
1185年秋 頼朝と義経の対立が深まり、朝廷は義経追討を命じる
1187年 義経が平泉の藤原秀衡のもとへ逃れる。10月、秀衡が亡くなる
1189年閏4月30日 藤原泰衡が衣川の館を攻め、義経が自害する
1189年7〜9月 頼朝がみずから大軍をひきいて奥州へ攻めこむ(奥州合戦)。阿津賀志山の戦いのあと、泰衡が討たれ、奥州藤原氏が滅びる
1192年 頼朝が征夷大将軍になる

奥州藤原氏は、清衡・基衡・秀衡の三代、100年にわたって東北を治めてきた一族です。金を産し、北の国々との交易で栄え、平泉には中尊寺金色堂のような華やかな寺が建てられました。秀衡は「17万騎」をひきいるとも言われ、頼朝もうかつには手を出せない相手でした。

頼朝は、義経をかくまう藤原氏を、いつかは討たなければならない相手と見ていました。泰衡が義経を討ったのは、頼朝に従えば家を守れると考えたからでしょう。しかし頼朝は、義経が亡くなったあと、今度は「義経をかくまった罪」を理由に奥州へ攻めこみます。

1187〜89年、奥州をめぐる力関係図
1187〜89年、奥州をめぐる力関係(筆者作成)

ですが、もし義経が奥州で生き延びていたら

もし泰衡が父の遺言を守り、兄弟そろって義経を大将としてかついでいたら。平家を滅ぼした天才的な戦上手と、100年の富をたくわえた奥州の武士たちが、ひとつになったことになります。

奥州の騎馬軍団をひきいる源義経
奥州の騎馬武者をひきいる義経(イメージ)

こうなったかもしれない

1. 奥州はひとつにまとまる

史実の泰衡は、弟の忠衡が義経に味方しようとしたため、これを討ってしまいました。兄弟が割れたことで、奥州の守りは弱くなっていたのです。義経を大将にすえれば、兄弟が争う理由はなくなります。

2. 阿津賀志山で鎌倉軍を破る

史実の奥州合戦では、藤原方は伊達郡の阿津賀志山に長い堀と土塁を築き、鎌倉軍を待ちかまえました。しかし鎌倉軍に背後に回りこまれ、守りを破られます。

ここに義経がいたら、話は変わります。一ノ谷の「鵯越」や屋島の奇襲のように、義経は敵の思いもよらない道から攻める名人でした。守るだけでなく、山を越えて鎌倉軍の背後を突けば、頼朝の大軍を打ち破ることもできたはずです。

阿津賀志山の防塁で鎌倉軍を迎え撃つ源義経と奥州の騎馬武者
阿津賀志山で鎌倉軍を押し返す義経(イメージ)

3. 頼朝は鎌倉へ引き返す

鎌倉軍が奥州で敗れれば、頼朝の権威は大きく傷つきます。頼朝に従っていた東国の武士たちの中にも、迷いが生まれるでしょう。頼朝は鎌倉へ戻って、足もとを固め直さなければならなくなります。

4. 朝廷は二人を天秤にかける

京の後白河法皇は、頼朝の力が大きくなりすぎることを恐れていました。義経が奥州で生き残れば、法皇は頼朝と義経を天秤にかけ、二人を競わせようとしたでしょう。義経には、ふたたび官位がさずけられたかもしれません。

平泉の中尊寺で祈る源義経
平泉の中尊寺で祈る義経(イメージ)

5. それでも、鎌倉には勝ちきれない

くらべる点 鎌倉(頼朝) 奥州(義経と藤原氏)
兵の集め方 東国の武士に土地を約束し、家来にする 藤原氏の家来の武士。義経の直属ではない
富 東国の田畑と、朝廷から得た権限 金と、北の国々との交易
大将 政治と人まとめにすぐれた頼朝 戦の天才の義経
朝廷との関係 守護・地頭を置く権限を得ている 法皇に頼られるが、正式な立場は弱い

ただし、長い目で見れば、鎌倉のほうが有利でした。頼朝は東国の武士たちに土地を約束し、彼らを家来としてまとめていました。一方の奥州の武士たちは、藤原氏の家来であって、義経の家来ではありません。

そして義経は、戦には強くても、人をまとめる政治は得意ではありませんでした。頼朝に追われることになったのも、朝廷から勝手に官位をもらったことがきっかけです。戦に勝っても、そのあとの国づくりで頼朝に勝つのは難しかったと思います。

6. 結末:奥州は鎌倉と並ぶ「北の王国」に

私は、奥州は鎌倉と並び立つ「北の王国」として、少なくとも頼朝が亡くなる1199年ごろまでは生き残ったと思います。南の鎌倉、北の平泉。二つの武家の都がにらみ合う時代が、しばらく続いたでしょう。

けれど、頼朝のあとを継いだ北条氏は、やがて奥州をのみこもうとするはずです。義経が年をとり、藤原氏の結束がゆるめば、奥州はいずれ鎌倉の下に入ったと私は考えます。

金色堂を中心に栄える平泉の町
「北の都」として栄え続ける平泉(イメージ)

まとめ

  • 秀衡の遺言が守られれば、奥州は義経のもとでひとつにまとまる
  • 阿津賀志山で、義経の奇襲が鎌倉軍を打ち破る
  • 頼朝は鎌倉へ引き返し、朝廷は二人を天秤にかける
  • それでも東国の武士をまとめた頼朝に、長い目では勝ちきれない
  • 奥州は鎌倉と並ぶ「北の王国」として、しばらく生き残る

筆者の感想

義経には、衣川では死なずに北へ逃げ、蝦夷地からさらに大陸へ渡ったという伝説まで残っています。それだけ多くの人が、義経に生きていてほしいと願ったのでしょう。

もし義経が奥州で生き延びていたら、平泉は鎌倉と並ぶもう一つの都になっていたかもしれません。中尊寺金色堂の輝きを見ていると、100年栄えた奥州の富と、義経の戦の才能が合わさったら、どんな時代が生まれていたのだろうと想像がふくらみます。

あなたは、義経が奥州で生き延びていたら、鎌倉幕府はどうなっていたと思いますか?

よくある質問

源義経はどこで亡くなったの?

1189年閏4月30日、平泉の衣川の館(今の岩手県平泉町)で、藤原泰衡に攻められて自害しました。31歳でした。

藤原秀衡の遺言とは?

秀衡は亡くなる前に、子どもたちに義経を大将としてかつぎ、力を合わせて国を守るよう言い残したと伝わります。しかし跡を継いだ泰衡は、頼朝の圧力に屈して義経を討ちました。

義経北行伝説とは?

義経は衣川で死なずに北へ逃れ、蝦夷地(北海道)や大陸へ渡ったとする伝説です。東北や北海道には、義経が立ち寄ったと伝わる場所がいくつも残っています。

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