大河ドラマの第37回・第38回で、秀長は大和の国に入りました。検地をしようとすれば僧に反対され、仏罰を恐れる領民にまでそっぽを向かれる。郡山の町を盛り上げようとすれば、奈良の豪商たちが動かない。見ていて「秀長、大丈夫か」とハラハラした方も多いと思います。
では、もし秀長がここで寺社の力に負けて、手を引いていたら? 先に私の答えを書いておきます。豊臣政権は、大坂のすぐ裏に「言うことを聞かない国」を抱えたままになり、天下統一の足取りそのものが重くなっていた。私はそう考えています。
もうひとつ、私の立場も先に書いておきます。秀長が大和で寺社を強く押さえこんだのは、合理的で、しかも仕方のないことだったと思っています。その理由は後半で書きます。
実際の歴史:秀長が大和でやったこと

大和は、鎌倉・室町の時代を通じて興福寺がほぼ国の主のようにふるまってきた、ほかに例のない国です。そこへ乗りこんだ秀長が何をしたのか、流れを押さえておきます。詳しい史実は日本の歴史ガイドの「大和はなぜ貧しい国だったのか」「石川清兵衛はなぜ仏罰を恐れたのか」「秀長はなぜ商人に金を貸したのか」で解説しています。
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1567年 | 松永久秀と三好勢の争いで、東大寺の大仏殿が焼ける |
| 1585年8月 | 秀長、大和・紀伊・和泉などを与えられ「100万石」の大名に。前の国主・筒井定次は伊賀へ移される |
| 1585年9月 | 郡山城に入る。すぐに検地、盗賊の取り締まり、掟の制定を進める |
| 1585年 | 奈良での商売を禁じ、郡山の城下でだけ商いを許す |
| 1587年 | 寺社に税をおさめて商売を独占していた「座」をやめさせる |
| 1589〜90年 | 秀長の病が重くなり、大和の寺社で病気平癒の祈りが行われる |
| 1591年1月 | 秀長、郡山城で亡くなる |

国衆(地元の武士たち)には大和から出ていくか、武士をやめて農民になるかを迫り、寺社の武力やお金の特権にも手を入れました。ドラマで描かれた「優しい秀長」のイメージとは、かなり違う顔が見えてきます。

私が見た奈良:東大寺と興福寺で感じたこと

私は東大寺、興福寺、法隆寺を実際に歩いています。歩いてみて感じたのは、古きよき歴史の空気でした。興福寺は筒井家とゆかりの深い寺ですが、境内でそうした戦国の話にふれることはまったくなく、ただ静かに長い時間が積み重なっている場所という印象です。

あれだけの寺が、町のど真ん中にどっしり構えている。戦国時代の武士が「ここを従わせるのは骨が折れる」と感じたのも、行ってみるとよくわかります。何百年も国を動かしてきた相手に、よそから来た大名がいきなり「土地を測らせろ」と言うのですから、反発されて当然です。
ちなみに、東大寺の大仏殿は1567年に焼けたあと、秀吉の時代には建て直されず、元に戻ったのは江戸時代の中ごろでした。秀吉は奈良の大仏ではなく、京都に方広寺の大仏を新しく造ります。古い奈良の権威より、自分の新しい権威。豊臣兄弟の大和に対する姿勢が、ここにもよく出ていると思います。
大和郡山城(まだ行けていない城)

秀長の居城・大和郡山城は、私はまだ訪れていません。この城の石垣には、近くの寺から運んだ礎石や五輪塔、石地蔵まで使われていると言われます。寺社の石で城を築く。これ以上わかりやすい「新しい支配者は誰か」の見せ方はありません。

次に奈良へ行くときは、レンタカーを借りて柳生の里や五條代官所、松永久秀の信貴山城・多聞山城の跡にも足をのばしたいと思っています。秀長が入る前の「荒れた大和」の姿を、自分の目で確かめてみたいからです。
秀長が屈していたら変わった三つの分かれ道

分かれ道1:大坂の背後が「火薬庫」のままになる
大和は大坂のすぐ東、京都や紀伊へ抜ける道が交わる場所です。もし秀長が寺社に遠慮し、国衆もそのまま残していたら、兄の居城のすぐ裏に、武力を持った勢力が残り続けることになります。何かあれば、大坂は背中から突かれかねない。秀吉が一番信頼する弟をわざわざ大和に置いたのは、まさにこの「裏口」を固めるためだったはずです。
分かれ道2:九州攻めに秀長が出られない
1587年の九州攻めで、秀長は大軍を率いて日向方面から島津を攻めました。足元の大和が落ち着いていなければ、100万石の大名が国を空けて九州まで出ていくのは難しい。私は、大和を早くに固めていたからこそ、秀長は兄の天下統一の後半戦にフルで参加できたのだと思います。屈していたら、九州攻めの顔ぶれも、統一の速さも変わっていたでしょう。
分かれ道3:豊臣の「新しい国の形」が足元で崩れる
土地を測って年貢をはっきりさせる。商いを寺社の独占から解き放つ。武力は大名だけが持つ。これはのちに全国へ広がっていく豊臣政権の国づくりそのものです。大和は寺社の力が日本一強い国でした。その大和で弟が引き下がっていたら、「豊臣のやり方は寺社が本気で抵抗すれば止められる」という前例になってしまいます。各地の寺社や国衆に、そう見られたらおしまいです。
三つのうち、私がいちばん大きいと思うのは分かれ道1です。大坂のすぐ裏に言うことを聞かない国が残るのは、政権の足元に火種を抱えたままにするのと同じだからです。もちろん、九州攻めに秀長が出られなくなる分かれ道2も、決して小さくはありません。
それでも、屈しなかった代償はあった
ただ、秀長のやり方を手放しでほめる気にもなれません。奈良での商売を禁じて、味噌や酒、薪まで郡山でしか売らせない。これは郡山を栄えさせるために、奈良の町を犠牲にしたということです。秀長の時代には「奈良借(ならかし)」と呼ばれるお金の貸し付けも始まっていて、奈良の人々にとっては重い時代だったようです。
もし秀長が屈していたら、奈良の町はもっと豊かなままで、寺の石が城の石垣になることもなかった。そう考えると、奈良にとってはそちらのほうが幸せだったのかもしれません。
面白いのは、晩年の秀長が病に倒れると、大和の寺社が病気平癒の祈りをささげていることです。力で押さえつけた相手から、最後は祈られる。強くはあっても、ただの暴君ではなかったのだと思います。

まとめ
もし秀長が大和の寺社に屈していたら。
- 大坂のすぐ裏に、言うことを聞かない国が残っていた
- 秀長は九州攻めに思うように出られず、天下統一は遅れていた
- 豊臣の国づくりは「寺社が抵抗すれば止まる」という前例を残していた
私は以前、秀長を「兄の影で後ろを守った縁の下の力持ち」と書きました。大和での秀長を見ると、その「後ろを守る」には、汚れ役を引き受けることも含まれていたのだとわかります。表で笑う兄のために、裏で鬼になる。それも秀長の補佐役としての顔だったのでしょう。
では、秀長のやり方は正しかったのか。私は、合理的で、しかも仕方のないことだったと考えています。信長は比叡山延暦寺を焼き、石山本願寺とは10年近く戦い続けました。そのそばにいた秀吉と秀長は、寺社の強さとねばり強さを、嫌というほど思い知らされていたはずです。中途半端に手を出せば、あとで何倍にもなって返ってくる。だからこそ、大和に入ってすぐに、迷わず手を打ったのだと思います。
ドラマの大和編は、検地や商いをめぐるかけひきが中心の回でした。ひとつ正直に言うと、昔の大河はもう少し迫力のある映像が多かった気がします。「独眼竜政宗」や「風林火山」の合戦や行軍のシーンは、見ていて本当に圧倒されました。予算が昔ほど使えないのかもしれませんが、この先の九州攻めでは、大軍が動く場面をぜひ見てみたいところです。



イラスト:戦国武将図鑑
あなたは、秀長が大和で寺社に引いていたら、豊臣の天下はどうなったと思いますか?
よくある質問
秀長が大和に入ったのはいつ?
1585年です。郡山城に入り、大和・紀伊・和泉をあわせて100万石をこえる大名になりました。
郡山城の石垣に石仏が使われているって本当?
本当です。天守台の石垣には、さかさまに積まれた「逆さ地蔵」が今も残っています。近くの寺から集めた石仏や五輪塔、礎石が石垣に使われました。
秀長は寺社とずっと対立していたの?
大和の寺社には厳しい政策をとりましたが、晩年に秀長が病に倒れると、大和の寺社は病気平癒の祈りをささげています。力で押さえつけながらも、つながりは保っていたことがわかります。






